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引用(30)

きみは、党派を選ばずに客観的であることが可能だ、などと思っているのかい?


ブレヒトからエリック・ベントリーへの手紙、1949年11月
(野村修訳)


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続・たとえ話(下)

承前


4)『ワシントン・ポスト』いわく、トランプ氏は「プーチン氏の犠牲者(Mr. Putin’s victims)」と「合衆国の防衛のために死んだ人々(people killed in the defense of the United States)」の間に、何らの違いを見ないとのことである。「プーチン氏の犠牲者」といっても色々いるだろうが、ここでトランプ氏は「アメリカに戦争犯罪を犯させようとしている」とされているので、おそらくロシアが「テロ掃討」作戦と称し、シリア政府の許可のもと――アメリカなどはこれをとっていない――同国で空爆作戦を展開している(いた)ことがオーヴァーラップされていると言えよう。確かに、アメリカであれロシアであれ、軍事作戦の中でも空爆というそれは、巨大な「付随的被害」という名の文民殺戮を招くものであると考えられる。ロシアの空爆を非難する声を単に「ISISやトルコに与するテロリストのプロパガンダ」に惑わされているものとする、ロシア側の公式見解を鵜呑みにすることはない。


しかしそもそもロシアは、アメリカおよびNATO諸国と異なり、2003年のイラクや2011年のリビアへの空爆には加わっていないから、それらの責任は問えないはずである。イラクとリビアの時には「介入しようとしない」ことで罵倒され、シリアの時には「介入した」ことで罵倒されるのだから、ロシアも災難である。シリア難民が可哀想であり、それが何十万人も自分の所に来ちゃって大変だということに欧米ではなっているが、彼らによるリビアやイラクへの「人道的介入」の結果でやはり周辺諸国への難民が大量に出ていることにも触れずして、ロシアのシリアに対する結果について「批判」だけしてよいものか(シリアにだけ悲憤慷慨する人々――日本人含む――にとって、ヨーロッパにイカダで向かうリビア難民などは、大方地中海に沈んでしまうので問題ないということなのかもしれないが)。西欧諸国に住んでいない人間にとっては、「プーチン氏の犠牲者」だけでなく「ブッシュ氏/オバマ氏の犠牲者」も当然問題なのであって、後者を含めて考えなければ空爆自体が批判できなくなるであろう。それとも、リビアやイラクの人民は「合衆国の防衛のために死んだ人々」ということか? とっくにアメリカは「戦争犯罪」を犯してきているのに、トランプ氏が初めて罪に手を染めるのか? ここでトランプ氏という「邪悪な独裁者」を阻止することを呼びかけるレトリックは、これまでの自国の外政の結果へあるべき批判を誤魔化したものにすぎなくなっているのである。


5)情報産業の集中砲火を浴びてトランプ氏がなお失速しないのはなぜかという疑問については、様々な観点から議論がなされている。ただ個人的には、なぜ醜聞だらけのベルルスコーニ氏がイタリアで20年も天下を取っていたか(まだ完全に没落したとは言い切れない)という問題と、合わせて答えることが可能であると思う。わたしはリビア戦争の時のイタリア民主党とベルルスコーニ氏を比較して、人権だの自由だの言いつつ事態の穏当な解決には何ら寄与していない「戦争賛成左翼」が偽善的に見える反面、その対極に彼の「正直さ」がなにか愛らしく見えてくるのではないか、と考えたのだが、おそらくアメリカのトランプ支持者にもそういう現象が生じている。


ベルルスコーニ氏もトランプ氏も「ぶっちゃけ話」が得意である。と言うか、金権を除けば彼らはそれしか持っていない。しかし、総体としては「デマゴギー」的極まりない彼らの「ぶっちゃけ話」に、何らかの「真実」が含まれている、少なくともそう見えてくるとしたらどうか。トランプ氏の「中東のことはサダム(・フセイン)やカダフィにうっちゃっておけばよかったのだ」という種の発言に対して、「邪悪な独裁者」のイメージを弄んでいる人々は「独裁者は独裁者が好き」なことを飽きもせず発見してはしゃぐばかりだが、イラクとリビアの現在の有様について虚心坦懐に見ることのできる人は、トランプ氏の発言にも「真実」の一端を見出すことができるのではあるまいか? 


6)トランプ氏への「邪悪な独裁者」というレッテル張りが問題だとすると、「ファシスト」とするのはどうか。日本の石原慎太郎などが、在日朝鮮人の排斥を唱えると同時に、中国と朝鮮の軍事的打倒を鼓吹しているのに比べれば、トランプ氏は意外にもおとなしい。彼は「不法移民」の排斥を唱えているものの、対外軍事活動は無駄なものとして退けているからである。19世紀の「モンロー主義」を思わせる、アメリカと外部との相互不干渉をトランプ氏はしばしば強調しているが、こうした広言は「移民を拒絶する」という別の主張と必ずしも矛盾していないのではないか。「移民」の中でも最も悲劇的で規模も大きくなるのは、軍事攻撃でライフラインを破壊されることで起こる、「強制移住」としての難民である。そこで「空爆をしなければ大量の難民は発生しない、だから彼らは各々の国で安心して暮らせるでしょう」と考えるとすれば、ある意味では論理的である。逆に、「私たちは人道主義的目的で空爆をしました、そうしたら大量に難民が発生しました、彼らがかわいそうじゃないですか、だから私たちには彼らを引き受ける人道主義的義務がある」などと言われれば、それが理屈に合わないと感じる人々が出てきて当たり前ではないか。


諸君も各自調べていただきたいが、共和党と民主党の有力候補者の中で、近年のアメリカの「人道的介入」を最も攻撃しているのがトランプ氏であるらしいことには本当に驚かされる(注2)。トランプ氏が共和党の代表候補になることが異常事態であると『ワシントン・ポスト』は警告しているが、有力候補の中で彼が最も非好戦的に見えてしまうことこそ、一番の異常なのではあるまいか? ヒラリー・クリントン? 論外である。ジャン・ブリクモンの協力者であるダイアナ・ジョンストンなどは、その国務長官としての「実績」を分析した著作で彼女を「カオスの女王」と呼び、ヒラリー大統領が到来すればトランプ氏よりよほど世界平和にとって危険であると説いている。確かに、かの「来た、見た、奴は死んだ(アッハッハ)!」発言の際のクリントン氏の形相は、征服者カエサルの再来というよりはホラー映画に出てくる猟奇殺人鬼に近かった。


それでは「民主社会主義者」を自称し、日本でも一部で注目されているバーニー・サンダースはどうかというと、彼による近年のアメリカの軍事活動についての評価もまた、非常にあいまいなものに見える。わたしの眼に入った範囲での話ではあるが、彼にとってもイラク、リビア、シリアは「しくじり(mistake)」くらいの他人事であり、まれな激しい表現でも「誤り(wrong)」である。すなわち、「犯罪(crime)」を犯すのは常に外部の「独裁者」でなければならないというルールに、彼もまた抵抗していない。サンダース氏がアメリカの大統領になることは、アメリカ労働者/市民の生活にとって何かしらの恩恵になるとわたしも想像するが、こと世界平和に対する貢献に関しては、ノーベル平和賞受賞者バラク・オバマのそれ程度しか期待しない方が賢明であろう(注3)。


7)トランプ支持者の大多数は、彼の非干渉主義に賛成しているわけではなく、彼の差別性や反動性に惹かれているだけであるから、やはり断固として退けられなければならない――もちろんそうした指摘には一理ある。しかしその場合、トランプ氏の思いつきに見える発想にオリジナリティがあるかどうかの再確認も必要である。たとえば、アメリカとメキシコの国境に「壁」をつくり、「不法移民」をシャットアウトするというトランプ氏の発言については、人種差別的であるとか、非現実的な金額がかかるとか、それ自体はもっともな批判が相次いでいる。しかし、これまた忘れられているのは、メキシコ側からの「不法移民」に対するアメリカの警戒レヴェルは、すでに1990年代から高まっており、現在では毎年少なくとも数百人が射殺されていることである。これはほとんど、かつての東ドイツの側における「ベルリンの壁」の警戒水準と変わらない(注4)。


かつて民衆の「トランプ」が、映画『偽牧師』の最後で、アメリカとメキシコの国境地帯からどちらの国にも入れなくなった結果、国境線をまたぎながら「アメシコ」――徳川夢声の表現――の彼方へ去って行くのは有名な話だが、事実上彼が歩いた道にはすでに「壁」がつくられてしまっている。つまり、資本家の「トランプ」が大統領になり、本当に米墨国境にコンクリート製の「壁」をつくったとしても、それはこれまでの共和党と民主党のより「穏健な」主流派が進めてきた政策のひとつの完成形であっても、逆転ではない――そうした事例は、実はいくらでもあるのではないか。厳然たる事実に対する真剣な省察を読者に喚起し、一緒に考えていくことこそ、ジャーナリズムの役目であるとわたしは考えている。しかし日本に限らず、『ワシントン・ポスト』をはじめとするアメリカの情報産業のエリートたちもまた、そうした省察の喚起を「邪悪な独裁者」といった空虚なイメージ操作にすり替えるようになって久しいようだ。おそらくトランプ氏の現在の躍進は、現在彼を「批判」している人々によっても準備されていたのである。





(注2):念のため書いておくが、仮にトランプ氏が大統領になったとしても、公約として「モンロー主義」を貫き通すことは100パーセントないとわたしは考えている。彼がいかに突出した億兆長者であっても、彼が現在のアメリカの支配階層に属している以上、その利益総体を無視して国政を引きずり回すことは不可能であるということである。トランプ大統領は結局ベルルスコーニ氏のように、「本当はしたくなかった」対外戦争をすることになるであろうし、TPPへの反対も撤回するであろう。しかしそのことは、トランプ氏が特別デマゴギー的であるということを意味しない。それは古くからの社会民主主義的「中道左派」が、またギリシャのSYRIZAのような「新しい急進左派」が、反新自由主義を標榜して支持を得ておきながら、実際に政権につくとそのたびに挫折する――何もしていないうちに金融資本に屈服することを「挫折」と言えばの話であるが――という、ヨーロッパで繰り返されている現象のパロディ以上のものではない。


(注3):この点について、わたしが特に気になっているのは、アメリカのサンダース候補の支持者の一部から、トランプ陣営もかくやという誇大な宣伝活動がなされているように見えることである。たとえばかのマイケル・ムーアは、民主党の候補にクリントン氏ではなくサンダース氏を推奨する中で、リビア・イラク・アフガニスタン・シリアの戦争における両者の態度について、「前者が全部反対なのに対し後者は全部賛成である」という趣旨の「対照表」をツィートで発信していたが、それはさっそくクリントン氏の支持者によるサンダース氏の詳細な「戦争賛成表」によって反撃されていた。クリントン派の列挙のすべてが正しいかどうかはさておき、少なくともイラクやリビアの空爆に対し、サンダースという名前の議員が断固として反戦を表明していたという記憶はわたしにもない。彼が“No, No, No and No”くらい毎回明快な反対姿勢をとっていたならば、今回の大統領選以前からもっと世界的に注目を集めていたはずである。世界最大の権力をめぐる争いに誇大な宣伝が飛び交うのは当然と言えば当然だが、これでトランプ氏の「デマゴギー」をどこまで批判できるのか。ムーア監督の映画には「誇張」はあろうとも重大な「真実」は含まれると考えてきた観客に、これまでの彼の仕事について疑いを持たせかねない発言ではあった。


(注4):しばしば誤解されているが、東ドイツから西ドイツへの出国については完全に禁止されていたわけではなく、手続き(煩雑かつ不明瞭ではあったが)を経れば「合法」であり、それは射殺覚悟の「不法」出国を決行した人の数よりずっと多かった。ともあれアメリカの場合は、「自由」を体現しているとされる側が、それを求めて入国しようとする人々に発砲していることになる。





続・たとえ話(上)

1)現在アメリカでは「トランプ」が大統領になるかもしれないと大騒ぎになっているが、かつてかの国には、大統領より世界の民衆から愛された「トランプ」がいた。彼がその卓越したパフォーマンスの技量で獲得した名声は、同時代に四たび大統領に当選したフランクリン・ルーズヴェルトすら及ばないほどのものであった。しかしこの「トランプ」は、セレブリティの一員に上り詰めながらも国粋主義に与せず、自分の出身階級との連帯精神をも手放そうとしなかったので、支配層は次第に彼を疎んじるようになり、最後には国外へ追いだした――わたしはテレビのニュースでドナルド・トランプ(Trump)の名前が呼ばれるたびに、日本語では発音と綴りが同じになる、チャーリー・チャップリンの演じた「放浪者(Tramp)」を頭に浮かべてしまう。


こうした反射的な連想は、現在のような事態になる以前から、「リベラル」とされるアメリカの情報産業においてトランプ氏がしばしば「道化者」扱いされていたのを読んできたせいかもしれない。この「手帖」においてはイタリアの話をちょくちょくしているが、トランプ氏という人は、ここ20年に渡ってかの国の首相として世界で物笑いの種にされてきた、シルヴィオ・ベルルスコーニの同類のように思える。わたしに言わせれば、イタリア以上にビジネス上の億万長者が尊ばれるアメリカのような国で、そして「左派」的勢力が貧弱な国で、先にトランプ氏のような人物が台頭しなかったことがむしろ意外であったのだが。ともあれ、アメリカ人もイタリアのことをもう笑っていられないようで、かの国の情報産業のあちこちでトランプ氏への批判がなされているわけだが、その中には以前この「手帖」でも取り上げたような、日本における「北朝鮮」に関するたとえ話にも勝るとも劣らない、空虚なレトリックを振り回しているものがあるようだ。日本でも紹介されている、1000万人以上と見積もられた「不法移民」の強制送還についての彼の公約が、「スターリンやポル・ポト以来」のものとした、今年の2月24日の『ワシントン・ポスト』の「社説」はその一典型であろう。


2)確認しなくてはならないのは、ヨシフ・スターリンやポル・ポトの「強制移住」政策が、基本的に元来の自国の公民に対して行われたものであり、国外からの「不法移民」に対しなされたものではないことである。前者は、不可侵条約の時期においても事実上の敵国であり、後に実際の交戦国となった、ナチス・ドイツや日本と結びついた反乱の可能性を消滅させるためになされた軍事上の措置として、また後者はその(無謀な)経済上の措置として、それを行った。こうした歴史的事実については、世界の労働者/市民の立場から――まず「我々」は『ワシントン・ポスト』がそうした立場にあるかどうか疑ってかかるべきである――、その道義性や必要性が全面的に否認されるのはよいことであるにせよ、少なくともその行為は「移民」を一義的な標的にしていたわけではない以上、トランプ氏の「デマゴギー」を批判するのに使うのは不適切である。また、スターリンなりポル・ポトなりの政治手法は「強制移住」の件に限らず、猛烈な鉄拳政治であったとして間違いはなかろうが、彼らの基盤はトランプ氏のような放言と金権にあったわけではない。


日本における『ワシントン・ポスト』の社説の紹介を読んだ時、わたしはかの新聞が、「邪悪な北朝鮮」の上位カテゴリーとしての「邪悪な共産主義者」のイメージをトランプ氏にあてはめたいのだろうと推測した。しかし、いくら「邪悪な共産主義者」の話を出したところで、トランプ氏は明らかに資本主義体制下でのし上がってきた人物である。そうした彼のサクセス・ストーリーに惹かれる彼の素朴な支持者にとっては、おそらく「それはドナルドとはまったく関係ないだろう」で終わりである。『ワシントン・ポスト』はトランプ支持者について、ポストを見てもアカだと騒ぐようなジョゼフ・マッカーシー的妄想を今日なお抱いている連中ばかりと認識し、「トランプは共産主義者であるか、そのまわし者に違いない」とアクロバティックに考えさせるように仕向けたいのかもしれないが、それは排外主義そのものの批判になっていると言えるだろうか。「リベラル」である自身を愛しているであろう、この新聞の固定顧客はこれに満足するかもしれないが。


朝鮮は1948年の建国以来、その国家機構と社会制度が指導者の世襲を伴いつつ現在も継続しているから、アメリカや日本の人間は自己の軍事ドクトリンを棚あげする限りにおいて、彼らの「脅威」が継続し続けていると言うことは一応可能である。しかしヨシフ・スターリンやポル・ポトが展開した政治支配は、すでにこの地上のどこにも存在しない。「邪悪な共産主義者」のイメージは、冷戦期に搾り取るだけ搾り取ったはずなのに、まだアメリカ人はその残り汁を吸って飽き足らないのであろうか。『ワシントン・ポスト』に限らないが、「共産主義」は過去の話であり問題外のものとして封印しているはずの人々が、自分の必要な時にだけ倒した敵を召喚することで読者に説教しようというのは、ほとんどポケットモンスターをモンスターボールから呼び出すがごとき手軽さである。しかし、ポケモンごときに現代の読者が恐怖する、あるいは歴史的教訓を読み取りうると本気で考えている人がいるとしたら、それはとんだ間抜けではないか。


3)――と、日本語の記事を最初に見た際には思ったのだが、改めて『ワシントン・ポスト』の「社説」の全文を読んだところ、彼らは「共産主義者」をそこまで問題にしていないことに気づいた。ちょうど社会主義の歴史に関する論文をネットでいくつか読んでいたところだったので、いささか勘ぐりすぎたようである。彼らにとってより汎用性があり、より安易に振りまわせる便利なレッテルがあるではないか。すなわちわたしは、「邪悪な北朝鮮」の上位に「邪悪な共産主義者」があるだけでなく、それらを包含する「邪悪な独裁者」というカテゴリーがあることをすっかり忘れていた。


日本での紹介では省略されていた部分であるが、実は『ワシントン・ポスト』は、スターリンとポル・ポトを引っ張り出している部分の直前に、「独裁者ウラジミール・プーチン」にも言及している。こうでなくては完璧なたとえ話と言えないということなのだろうが、毎度ながら彼らの恣意的なカテゴリー化にはほとほと呆れさせられる。2011年の下院議員選において、プーチン大統領の与党「統一ロシア」は一定の批判を受けた結果、議席占有率を52パーセントにまで減らしていたはずである。議会の過半数をどうにか制しただけの政党のトップが「独裁者」だったら、二大政党制の国家における時の指導者はすべて「独裁者」と呼べてしまう(注1)。プーチン大統領をたとえば「強権的」とでも言っているなら、よほど妥当であろう。しかしアメリカの情報産業は、「独裁者」という明らかに実態的でない空虚な表象に憑りつかれている。そして、いまだ公権力を握っているわけでもない人物に対し、他国の政治家にことよせたイメージ操作的な「批判」ばかりしている有様には、自国だけが「自由」であるという権威主義に拝跪する、彼らの精神的な奴隷性すら見い出すことも可能であろう。


トランプ氏が「プーチンを尊敬している」としてことさらに攻撃するのも、これまたおなじみ「悪党と仲良しな奴はそいつも悪党」理論である。イタリアの話をここでも引き合いに出すと、かの国の民主党(かつてのイタリア共産党多数派のなれの果て)が、リビアへの「人道的介入」を唱えつつ、ベルルスコーニ首相の追い落としにムアマル・カダフィを悪党として活用した時ほど、彼らの何重もの知的・政治的破綻を露呈させたことはない。2000年代、ベルルスコーニ首相の接近をカダフィ大佐は鷹揚に受け入れていたが、それよりずっと前からの友人として、彼にはネルソン・マンデラ――1990年代以降の西側諸国でほとんど聖人あつかいされた――がいた。マンデラの方では孫の一人に「ガダフィー」と名前をつけたそうである。しかし「戦争賛成左派」(ジャン・ブリクモン)は、「聖人と仲良しな方はその方も聖人」という風には一度も考えず、自分の趣味に都合の悪いことは思い出さなかった。こうした西側の「民主主義者」を観察して、「持つべきものは友ではなく核」と朝鮮政府が結論したのも無理はない。


(つづく)





(注1):日本でもそうだが、現代ロシアについての報道において、存在している複数野党の動向が(それらの「問題発言」を除いて)まったく伝えられないのは驚くべきことである。筆頭野党のロシア連邦共産党、社会主義インターナショナルにもオブザーヴァー参加している「公正ロシア」、議会内最右派のロシア自由民主党を合わせると、その議席占有率は40パーセントを超える。得票率に比べて不当に高い議席占有率を第一党が牛耳る、日本のような制度的な極端な乖離も存在しない。政治学では、絶対的与党と微細な「衛星政党」で構成される、かつての東欧の社会主義国(また現在の中国)に典型的な「ヘゲモニー政党制」という概念があるが、これにも当てはまらない。西側の情報産業はおそらく「野党が機能していない」と言うのであろうが、それなら彼らの国にはどんな野党が「機能して」いるのであろうか?



引用(29)

この国では、君がエスタブリッシュメントを攻撃したところで、彼らは君を監獄や精神病院には入れてくれない。もっと悪い仕打ちをする。彼らは君を、エスタブリッシュメントの一員にしてしまうのだ。


アート・バックウォルド



日韓における「学術ロンダリング」

以前わたしは、マキシミリアン・フォートのリビア戦争についての著作を紹介した際、虚偽の情報が情報産業やソーシャル・メディアにおいて相互かつ無批判に転送されていくことで、あたかも真実であるかのようにとらえられていくという、「引用のキャッチボールを通じた疑似情報のロンダリング」が起こっていることについて述べたことがある。マネー・ロンダリングという言葉があるから、「情報ロンダリング」という表現も成立するかもしれないと使ってみたものであるが、最近では学術の世界においても似たような現象が見受けられる。情報産業やソーシャル・メディアを通じて、まがい物が大層なものとして流通していくという点では同じであるが、学術というものそれ自体が高い権威を背負っており、権威を補強する数多くの公的な賞も存在していることから、まがい物の「研究」によって虚偽が定着していくとなれば、単純な「情報ロンダリング」以上の悪影響をもたらす可能性が高い――日本で「アジア・太平洋賞」の特別賞、および「石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞」の「文化貢献部門」の大賞を受賞したものの、出身の韓国では「ナヌムの家」で暮らす女性たちから民事告訴を受け、つい先日は韓国の検察からも刑事告訴を受けたことで再び話題となった、朴裕河『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』(朝日新聞出版、2014年)などは、おそらくその一典型であろう。


韓国検察の告発に反対する、日本からの54人の声明の署名者には政治家や作家もいるが、中心になっているのは学者である。なるほど、官憲に学術の良し悪しをゆだねるべからずというのはその通りである。しかしそれとは別に、朴氏の「研究」に対しては人文系の研究者や一般読者の側から、多くの批判がすでに出ている。歴史学の雑誌論文もあるが、ウェブ上で見られるものの中では、「歴史修正主義とレイシズムを考える」および「日朝国交「正常化」と植民地支配責任」に掲載されている関連記事が非常に参考になった。両サイトのそれぞれの検証で明らかになる、朴氏の著述における解釈の浅薄さ、資料批判のいい加減さ、論旨の非論理性といったものの数々は、文字通り眩暈を読者にもたらす。頭の先から尻尾まで、というとタイ焼きの餡のようだが、詰まっているのは誤謬ばかりであるからうれしくともなんともない。彼女の著作への批判的指摘の中で、わたしが一番愕然とさせられたのは、彼女の著書の起論の部分における写真の使い方についてである。「慰安婦」問題についての先駆的ジャーナリストであった千田夏光の本から、朴氏は「中国人からさげすまれる、和服・日本髪の朝鮮人慰安婦」の写真を取り上げ、書籍全体のモティーフにしようとしている。しかし「歴史修正主義とレイシズムを考える」の指摘によると、ここで朴氏は「別々の2枚の写真」についての千田の説明を「1枚のもの」として扱っている。それだけではなく、千田の本においてはそもそも、写真に写っている女性が「朝鮮人である」と特定されていないという。千田の著書では「朝鮮人」と限定されていない和装の女性の来歴を朴氏が自分で調べて、そこに映っているのが実は朝鮮人女性であったことを立証しようとしているわけではない。こういう写真の使い方をしていいなら、どんな手前勝手な空想も許されることになる。


ある古典的な写真論は、1956年のハンガリーで撮られた一枚の写真を取り上げ、それを「ハンガリーに侵入したソ連軍の戦車が市民を抑圧する」とするか、「ハンガリー政府の要請を受けたソ連軍が暴徒から市民を擁護する」とするかで、その意味合いが180度変わってしまうという事例を取り上げることで、写真に付されるキャプションの決定的な重要性について述べているが(注1)、朴氏の場合、ことは写真史ないしは美術史といった領域の問題ではなく、あらゆる歴史著述において、こんないい加減なイメージやそのキャプションの扱い方などありえないのではないかということである。。「慰安婦」にならんで大日本帝国の戦争犯罪として問題化される、南京虐殺の蛮行を検討する研究書があったとして、そこで何らかのドキュメンタリー的な意味を有する写真について「誤り」が指摘された場合、どのようなフレームアップがなされるかを考えただけでも、いかに彼女に対する擁護の質が異様かと思ったものである。


朴氏個人の発言の中にも驚くべきものはいろいろ見つかるが、それらからも一つだけ挙げておこう。彼女は「アジア・太平洋賞」特別賞の受賞の際、在日朝鮮人の学者による批判について、「大賞ではない理由がそこにあるのかどうかはまだわからない」と自身の「フェイスブック」のページに書いたそうである。これには腰が抜けそうになった。世の中には様々な学術の大賞があり、そうした大賞に付随する次点的な賞や残念賞の類もまた多数存在している。しかし、後者に属する何かを受賞する際において、「私の研究は本来大賞を取って当然なのだが」とでも言いたげに受賞者自ら吹聴するという光景を、諸君はこれまでに見たことがあるだろうか? もしそのようなことを本気で思っていたとしても、普通はそれを表には出さないであろう。何も知らない第三者がそんな発言を見たら、「何て傲慢な奴だ」「自意識過剰も甚だしい」と思われるのではないかという、常識的な推測ないしは狡知が働くからである。さらにこうした発言は、審査員の側から「次に大賞をあげるのは君だ」という密約でもあったかのように読めてしまうという意味でもまずいのではないか。今年9月、佐藤春夫に太宰治が芥川賞を懇願する内容の手紙が発見された(太宰のこの手の情けない書簡は10年周期で発掘されているような気がするのだが、それはさておき)というニュースがあったが、彼女の受賞に際してもそうした「文壇政治」的なやりとりがあったのではないかと疑わせるものであろう。


日本からの54人の声明の署名者に、たとえば中島岳志と馬場公彦の名前が出てくるのには、岩波茂雄についての非学問的極まりない本の著者と編集者であるから、さもありなんという感想しかない。しかし一方、岩崎稔とか本橋哲也とか、明らかに左派的立場にありそうした本の翻訳でも知られる人物の名も見受けられる。この辺りからは、もう一つ想起される話がある。ホロコースト否定論的な言説によってフランスのリヨン大学を罷免されたロベール・フォリソンが1980年に出版した著作に、かのノーム・チョムスキーの手による「言論の自由」を主張した一文が「序文」として掲載されたことが、米仏の知識人界で大問題となった、いわゆる「フォリソン事件」である。弁明を求められたチョムスキー氏は、自分はフォリソンの著作の内容については一切言及していないし、むしろフォリソンやフォリソンの批判者たちの両方について「何を書いているかよく知らない」といった発言をして、さらなる物議を醸した。


この「フォリソン事件」は、「チョムスキーの過ち」を論難したい反動的諸勢力によって、彼による「ポル・ポトの擁護」とならんで昔から何度も利用されてきたものである。後者は、1980年前後の「ポル・ポト派のカンボジア国民の虐殺は人類に対する犯罪」といった種の弾劾に対する彼の応答から生まれたものであるが、実際の彼の「擁護」は「西側の植民地主義の問題をも視野に入れよ」という内容しか持っていない。すなわち、ポル・ポト派の恐怖政治だけがピックアップされる一方、同じ東南アジアの東ティモールの状況などがまったく無視されるのはおかしい。同時に、ヴェトナムに対する規模にも劣らない米軍の激しい空爆で多くのカンボジア人民が殺害され、その国土もすでに破壊されていたことは忘れてはならないし、そうした軍事介入によって、王統派にせよ各種左翼にせよポル・ポト派以外の勢力が権力を保持ないし奪取する可能性が次々と消されていったのだ――こうした彼の主張は、恐るべき事件を理解するための一定のパースペクティヴを与えると同時に、単なる左翼嫌悪ならびに個人や集団の「狂気」の問題に話題を収縮させないという意味でも、検討に値するものである。


しかし「フォリソン事件」の方に関しては、今振り返ってもチョムスキー氏の側にも明らかな問題があったとわたしは考えている。困惑を覚えさせられるのは、彼の「読んでいないが」擁護するという発言である。なぜならそれは、何らかの問題の専門家・知識人ではない労働者/市民も、一定の情報・資料を収集しそこから論理的推測を働かせるという条件において、悪しき体制に奉仕する専門家・知識人の虚偽言説を暴露できるし、そうしたことから社会の公論は築かれるべきであるという、彼の日常の主張にそぐわないものであったからである。1980年前後のチョムスキー氏が「ポル・ポトの擁護」を含めて、「チョムスキーつぶし」を目的とした誹謗を広く受けていたのは事実であるが、こと「フォリソン事件」における彼の一連の振る舞いは擁護しがたいものであるし、「読んではいないが」は確かに失言であったと思われる(注2)。


ただし、チョムスキー氏の「序文」は、「20世紀のフランス文学と原典批判において尊敬を受けている」教授などとフォリソンを紹介しているものの、ユダヤ人虐殺をテーマとするフォリソンの著作の内容の評価には、確かに踏み込んでいなかった。そのため、彼はひとまず「言論の自由」のみを問題にしているのだと言われれば、純粋な理屈としては一応成立している。もちろん彼の名声をもってして「序文」を書くこと自体が、フォリソンへの「評価」を示すと捉えられうるし、実際そうした批判を受けた際、「読んではいないが」という無責任にとらえられても仕方がない応答をしたことにより、反動勢力のみならず思いもよらぬ側からも(正当にも)再反撃を受けることになったわけである。しかるに、アメリカおよびNATO諸国の軍事外交をチョムスキー氏なみに強靭に弾劾することもないこの54人は、声明文の中で朴氏の作品の内容にまで踏み込み、その価値をしごく高いものとして評価している。「「従軍慰安婦問題」について一面的な見方を排し、その多様性を示すことで事態の複雑さと背景の奥行きをとらえ、真の解決の可能性を探ろうという強いメッセージが込められていたと判断する」、「「帝国主義による女性蔑視」と「植民地支配がもたらした差別」の両面を掘り下げ、これまでの論議に深みを与えました」といった声明文の箇所は、はっきり朴氏の著作の内容を保証していると見てよいだろう。


とすると彼らは、ウェブならびに歴史学の専門誌上で大量に問題にされている朴氏の著述内容の各部分について、それらの多くが(主要なものだけでよいので)誤りでないことを――日韓の「和解のために」なるマジックワードに頼らず――彼らなりに立証する義務が生じるのではないか。35年前のチョムスキー氏とは違って、著作の内容について触れているこちらの54人は、「学問の自由」を享受している人々として、朴氏の著作を読んでいなくてはならない。ただ、これだけの誤りの可能性が指摘されている著作を、全員が全員きちんと読んだ上でそのまま肯定しているとは思われない。「読んではいないが」より「読んでいたフリをしていましたが、実は読んではいませんでした」と後から言いだす方がヒドいとは思うが、彼らの中で「読んでいたフリ」の人がいたら、早いところ告白したほうがいい。批判者たちのブログを読めば、かの本の「学問性」を立証する方が、よほど作業としては大変になることは明らかだからである。


もちろん、一般的な労働者/市民よりは相対的に多くの読書時間を持ちうる人種とて、どんな本でも読書百遍とはいかないことくらいは想像できる。流し読みで自分の関心のある部分だけを拾ってしまい、著作全体に通底する非論理性を見逃したということはあるだろう(かの著作の批判者たちはいずれも、そうした読まれ方を安易にされやすいところも問題なのだと指摘しているのだが)。ゆえにか、声明文では「同書の日本版はこの秋、日本で「アジア太平洋賞」の特別賞と、「石橋湛山記念 早稲田ジャーナリズム大賞」を相次いで受賞しました」とわざわざ強調することによって、「学問性」について裏書きしているのである。私たちは何か見逃しているかもしれないが、二つも賞が与えられたのだからまさか間違いもあるまい、ということだ。彼らの声明文は、二つの賞に加えて、朴氏の「学問性」にさらなるお墨付けを与えることになる。そしてそれを受けた韓国における朴氏の(おそらくは素朴な)支持者たちの方でも、「日本で賞を受けている」ことと合わせて、「日本の(進歩的?)知識人が支持している」ことをもって朴氏を擁護する根拠にすることが出来るようになった。ここまで来れば、彼女の著作の内容を再検討する必要もなく、「日韓の連帯」のアーチもつくられメデタシメデタシということか。しかし記念碑であれ建築物であれ、ボロボロな土台の上に堅固なものが建つことはありえない。実際に朴氏を通じて日韓の間でつくられつつあるのは、両国の労働者/市民の友好の礎などではなく、「リベラル」ないしは「左派」として定評のある学者が中心となった、大がかりな「学術ロンダリング」のための国際シンジケートに他ならないのである(注3)。





(注1):ジゼル・フロイント『写真と社会』(佐復秀樹訳、御茶の水書房、1986年)


(注2):「フォリソン事件」の際のチョムスキー氏への批判としては、ピエール・ヴィダル=ナケ『記憶の暗殺者たち』(石田靖夫訳、人文書院、1995年)、松浦寛『ユダヤ陰謀説の正体』(ちくま新書、1999年)を参照。逆にチョムスキー氏の応答を擁護するものとしては、ロバート・バースキー『ノーム・チョムスキー 人と学問』(土屋俊・土屋希和子訳、産業図書、1998年)という伝記があるものの、こちらは訳者陣が自ら「評伝である以上、チョムスキー自身の言葉以外からの裏付けが必要であったと思われる」、「原著者がややもすればチョムスキー礼賛に終始することもあり」などと漏らすほど聖人伝的色彩が濃い。わたしは「フォリソン事件」があっても、チョムスキー氏から学べることはいくらでもあると考えるし、「弘法にも筆の誤り」的現象として理解しているのだが、彼の信奉者にとってはそうはいかないようである。


(注3):と、比喩的に書いていたところ、『毎日新聞』のウェブ版に2015年12月3日づけで掲載された朴氏へのインタヴューによれば、彼女の方ではむしろ、韓国で自分が起訴されている背景には在日朝鮮人によるシンジケートが動いているのだと思っているらしい。そのうち「コミンテルンの陰謀」とか真面目に言いだすのではなかろうかと心配になる。




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