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引用(31)

読書における選択という問題がいかに重要であるかは、今日、店頭に溢れる無数の出版物を観察すれば理解されるはずである。ごく少数の例外を除いてそれらの大部分は読むに値いしないというよりは、むしろ読むことによって受けるはかりしれない障害の恐ろしさを思わずにはいられないだろう。それらの刊行物をむさぼり読んでいる者には、いっこうに恐ろしいものだという認識などないであろうが、悪影響の構造もその度合いもあの戦争下の読書状況といささかの変わりもないことを知るべきだろう。もちろん、今日の出版物には国民に対するあからさまな命令や強制はみられない。だが、現状を打破し変革するための方法論や建設的意見などを、それらのなかに求めるのは不可能である。しかも、明らかに俗悪な出版物のほかに、似て非なるものが多すぎるというのが今日の出版情況なのである。悪書は良書を駆逐するとすれば、何を読んでいいのかわからないという若者が増大してもいっこうに不思議ではない。私には、あの戦争を侵略戦争とは気づかなかったというかつての若者たちの置かれた情況と、急速に危機的な深淵に向かって傾斜していく今日の時代環境は、基本的にはまったく同じであると見えるのだが、命令的でも威嚇的でもなかったがゆえに、たとえば今日の「国家機密法」の危険に気がつかなかったということになりはしないかと、私はいまそれをなによりも怖れている。このことを読書に即していえば、それはまずわれわれが何を読み何を読まないかという問題に尽きるであろう。


高崎隆治『戦時下のジャーナリズム』



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引用(30)

きみは、党派を選ばずに客観的であることが可能だ、などと思っているのかい?


ブレヒトからエリック・ベントリーへの手紙、1949年11月
(野村修訳)


引用(29)

この国では、君がエスタブリッシュメントを攻撃したところで、彼らは君を監獄や精神病院には入れてくれない。もっと悪い仕打ちをする。彼らは君を、エスタブリッシュメントの一員にしてしまうのだ。


アート・バックウォルド



引用(28)

大衆化ということは、俗流化とか卑俗性とかいうこととは非常にちがう。大衆的な著作家というものは、非常に簡単な、一般によく知られた与件から出発して、こみいっていない推論か、うまくえらんだ実例の助けをかりて、これらの与件から出てくる主要な結論をしめし、ものを考える読者をつぎつぎとそのさきの問題に突きあたらせながら、読者を深い思想へ、深遠な学説へ導いていくのである。大衆的な著作家は、ものを考えない読者、ものを考えようと欲しないかまたは考えることのできない読者を目あてにしてはいない。反対に、彼は、未熟の読者のなかにひそむ、頭を働かせようという真剣な意向を目あてにしており、読者がこの真剣で骨の折れる仕事をはたすのをたすけ、読者が第一歩を踏みだすのをたすけながら、それからさき自主的にすすんでいくようにおしえながら、読者を導くのである。俗流著作家はものを考えない、また考える能力のない読者を目あてにする。彼は読者を真剣な科学の初歩的原理に突きあたらせず、一定の学説のあらゆる結論を片輪〔ママ〕に単純化された、冗談や洒落で塩加減した姿で、「お膳だてのできたものとして」、したがって読者のほうではそれを噛みくだく必要さえなく、ただこの雑炊を丸呑みにしさえすればいいようにして、読者に提供するのである。



レーニン「雑誌『スヴォボーダ』について」
(マルクス=レーニン主義研究所訳)



※原文にある強調の傍点は太字に直した。



引用(27)

ファシズムも平和なものでさえあれば悪くないんだが、てな考えには、ちょくちょくお目にかかる。あまり知的な考えではないけどね。なぜって、そんなのは、あとで屠殺されさえしなければ、エサでふとらされることも豚にとっては悪くない、というのと同じじゃないか。ナンテナマエダッタッケ〔=ヒトラー〕が失業者たちに戦車や爆撃機や弾薬を作らせたとき、やつは失業問題を解決した、とかいわれた。ただひとつ困ったことに、その結果はおそらく戦争なんだ。同じようにばかげた言いぐさは、資本主義はまあまあだがファシズムは行きすぎだ、てなやつだな。資本主義がファシズムなしに済ませられるものなら、ファシズムはなくて済んでいるよ。あんなものは余計なコブにすぎない、という説もあるけれど、しかし癌というある種のコブをもつ人間は、ほかの点ではまったく健康でも、かんたんに死んでしまうぜ。平和な資本主義という考えは、狂っている。そんな考えからすると、何もかもノーマルに進行し、平和が支配しているのに、とつぜん中断が、困った偶発事故が、戦争が襲来する。豚をふとらせるときと話しは同じさ。いつだってきちんとエサが来るし、からだは清潔にしてもらえるし、ちやほやかしずかれたり写真をとられたりしている、ところがときたま、困った偶発事故が――屠殺が――起こる、というわけだ。


ブレヒト『亡命者の対話』
(野村修訳)


※注釈は〔〕に挿入した。


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