スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

引用(32)

鱶がもし人間だったら、と家主夫人の小さな娘が、コイナさんに聞いた。鱶は小さな魚たちにもっと親切にするでしょうか。「きっとね」と、かれはいった。「鱶がもし人間だったら、海の中に、小魚たちのため、大きな箱をいくつも作らせるでしょうね。そして、それらの中には海草だとか微生物だとか、いろんな食物をいれておくでしょう。鱶は、それらの箱に、いつも新鮮な海水が満ちているように、気をくばるでしょう。つまりその、いろんな衛生上の処置を講ずることでしょう。たとえば、一匹の小魚がヒレを傷つけたりすると、さっそく、包帯がまかれることでしょう。その小魚があんまり早く死んで、鱶の眼前から消えてしまったり、しないようにするためですよ。また、小魚が陰気にならないようにと、ときどき盛大な水中祭がもよおされることでしょう。陽気な小魚のほうが、陰気な小魚よりおいしいからなのです。もちろん、箱のなかには学校もあるでしょう。これらの学校で、小魚たちは、鱶のあんぐり開いた口のなかを、どう泳ぐか、ということをおそわるでしょう。小魚たちには、たとえば、どこかにねそべっているものぐさな大鱶を発見できるようにと、地理学の知識も必要でしょう。もちろん、いちばん大切なことは、小魚たちの道徳教育でしょう。小魚がよろこびいさんで自分を犠牲にする、これが最も偉大で最も立派なことであると、教えられるでしょう。また、わけても、鱶たちが美しい未来を世話してあげよう、といったら、鱶たちのいうことを信じなくてはならぬと、教えこまれることでしょう。この未来は、小魚たちが従順ということを習得するとき、はじめて保証されるのだ、と小魚たちは教えこまれることでしょう。低級で唯物的で利己的でマルクス主義的な傾向を、小魚たちは警戒しなければならず、もし一匹でも、そういう傾向を示し始めるものがあったら、さっそく、鱶たちに届け出なくてはならないでしょう。鱶がもし人間だったら、もちろん、外国の箱や外国の小魚を奪いとるため、たがいに戦争をするでしょう。戦争を、かれらは自分らの小魚たちにやらせるでしょう。かれらは小魚たちに、かれらと他の小魚どもとのあいだには大なる相違があると、教えるでしょう。鱶たちは宣言するでしょう――小魚というものは周知のように無言であるけれども、しかし、それはそれぞれ系統のちがった言語で黙っているのであって、したがって、互いに理解しあうことは不可能である、と。戦争において、敵の小魚を、というのはつまり、べつの言語で黙っている小魚を殺した小魚の、その一匹一匹にたいし、かれらはコンブ勲章をくっつけてやり、英雄の称号をさずけるでしょう。鱶がもし人間だったら、もちろん、鱶の芸術があるでしょう。かずかずの美しい絵画は、鱶のぎざぎざ歯を見事な色彩で表現するでしょう。また、鱶のあんぐりとあいた口はきれいな公園であって、小魚たちはそこをきらびやかに歩きまわることができるように、描かれることでしょう。海底劇場は勇敢なる英雄小魚が有頂天になって鱶の大口のなかへ泳いで入る場面を上演するでしょう。音楽はとても美しくて、その楽の音につれて、小魚たちは、子守唄でもきいているように、うっとりと楽しい思想のなかに眠り込み、夢見心地で、楽隊を先頭に、鱶の大口のなかへ、流れこんでいくでしょう。鱶がもし人間だったら、宗教もまたあるでしょう。かれらは教えるでしょう、小魚たちは鱶の胃袋のなかではじめて本当の生活を味わうだろう、と。それはそうと、鱶がもし人間だったら、すべての小魚たちは、現在あるごとく平等であることは、もうなくなるでしょう。ある小魚は官途につき、他の小魚たちの上位におかれるでしょう。わりかし大きいものは、小さいのを食べてもよい、ということになるでしょう。これによって、ますます、鱶たちは大きな肉切れにありつくことが多くなるので、かれらにはいっそう都合がいいのです。役目にありついた、わりかし大きい小魚たちは、小魚たちの秩序維持のためにつとめ、箱の機構のなかの教師、士官、技師などになるでしょう。つまりですね、鱶がもし人間だったら、はじめて海の中に、一つの文化ができあがることでしょう」


ブレヒト『コイナさん談義』
(長谷川四郎訳)


スポンサーサイト

引用(31)

読書における選択という問題がいかに重要であるかは、今日、店頭に溢れる無数の出版物を観察すれば理解されるはずである。ごく少数の例外を除いてそれらの大部分は読むに値いしないというよりは、むしろ読むことによって受けるはかりしれない障害の恐ろしさを思わずにはいられないだろう。それらの刊行物をむさぼり読んでいる者には、いっこうに恐ろしいものだという認識などないであろうが、悪影響の構造もその度合いもあの戦争下の読書状況といささかの変わりもないことを知るべきだろう。もちろん、今日の出版物には国民に対するあからさまな命令や強制はみられない。だが、現状を打破し変革するための方法論や建設的意見などを、それらのなかに求めるのは不可能である。しかも、明らかに俗悪な出版物のほかに、似て非なるものが多すぎるというのが今日の出版情況なのである。悪書は良書を駆逐するとすれば、何を読んでいいのかわからないという若者が増大してもいっこうに不思議ではない。私には、あの戦争を侵略戦争とは気づかなかったというかつての若者たちの置かれた情況と、急速に危機的な深淵に向かって傾斜していく今日の時代環境は、基本的にはまったく同じであると見えるのだが、命令的でも威嚇的でもなかったがゆえに、たとえば今日の「国家機密法」の危険に気がつかなかったということになりはしないかと、私はいまそれをなによりも怖れている。このことを読書に即していえば、それはまずわれわれが何を読み何を読まないかという問題に尽きるであろう。


高崎隆治『戦時下のジャーナリズム』



引用(30)

きみは、党派を選ばずに客観的であることが可能だ、などと思っているのかい?


ブレヒトからエリック・ベントリーへの手紙、1949年11月
(野村修訳)


引用(29)

この国では、君がエスタブリッシュメントを攻撃したところで、彼らは君を監獄や精神病院には入れてくれない。もっと悪い仕打ちをする。彼らは君を、エスタブリッシュメントの一員にしてしまうのだ。


アート・バックウォルド



引用(28)

大衆化ということは、俗流化とか卑俗性とかいうこととは非常にちがう。大衆的な著作家というものは、非常に簡単な、一般によく知られた与件から出発して、こみいっていない推論か、うまくえらんだ実例の助けをかりて、これらの与件から出てくる主要な結論をしめし、ものを考える読者をつぎつぎとそのさきの問題に突きあたらせながら、読者を深い思想へ、深遠な学説へ導いていくのである。大衆的な著作家は、ものを考えない読者、ものを考えようと欲しないかまたは考えることのできない読者を目あてにしてはいない。反対に、彼は、未熟の読者のなかにひそむ、頭を働かせようという真剣な意向を目あてにしており、読者がこの真剣で骨の折れる仕事をはたすのをたすけ、読者が第一歩を踏みだすのをたすけながら、それからさき自主的にすすんでいくようにおしえながら、読者を導くのである。俗流著作家はものを考えない、また考える能力のない読者を目あてにする。彼は読者を真剣な科学の初歩的原理に突きあたらせず、一定の学説のあらゆる結論を片輪〔ママ〕に単純化された、冗談や洒落で塩加減した姿で、「お膳だてのできたものとして」、したがって読者のほうではそれを噛みくだく必要さえなく、ただこの雑炊を丸呑みにしさえすればいいようにして、読者に提供するのである。



レーニン「雑誌『スヴォボーダ』について」
(マルクス=レーニン主義研究所訳)



※原文にある強調の傍点は太字に直した。



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。