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続・たとえ話(下)

承前


4)『ワシントン・ポスト』いわく、トランプ氏は「プーチン氏の犠牲者(Mr. Putin’s victims)」と「合衆国の防衛のために死んだ人々(people killed in the defense of the United States)」の間に、何らの違いを見ないとのことである。「プーチン氏の犠牲者」といっても色々いるだろうが、ここでトランプ氏は「アメリカに戦争犯罪を犯させようとしている」とされているので、おそらくロシアが「テロ掃討」作戦と称し、シリア政府の許可のもと――アメリカなどはこれをとっていない――同国で空爆作戦を展開している(いた)ことがオーヴァーラップされていると言えよう。確かに、アメリカであれロシアであれ、軍事作戦の中でも空爆というそれは、巨大な「付随的被害」という名の文民殺戮を招くものであると考えられる。ロシアの空爆を非難する声を単に「ISISやトルコに与するテロリストのプロパガンダ」に惑わされているものとする、ロシア側の公式見解を鵜呑みにすることはない。


しかしそもそもロシアは、アメリカおよびNATO諸国と異なり、2003年のイラクや2011年のリビアへの空爆には加わっていないから、それらの責任は問えないはずである。イラクとリビアの時には「介入しようとしない」ことで罵倒され、シリアの時には「介入した」ことで罵倒されるのだから、ロシアも災難である。シリア難民が可哀想であり、それが何十万人も自分の所に来ちゃって大変だということに欧米ではなっているが、彼らによるリビアやイラクへの「人道的介入」の結果でやはり周辺諸国への難民が大量に出ていることにも触れずして、ロシアのシリアに対する結果について「批判」だけしてよいものか(シリアにだけ悲憤慷慨する人々――日本人含む――にとって、ヨーロッパにイカダで向かうリビア難民などは、大方地中海に沈んでしまうので問題ないということなのかもしれないが)。西欧諸国に住んでいない人間にとっては、「プーチン氏の犠牲者」だけでなく「ブッシュ氏/オバマ氏の犠牲者」も当然問題なのであって、後者を含めて考えなければ空爆自体が批判できなくなるであろう。それとも、リビアやイラクの人民は「合衆国の防衛のために死んだ人々」ということか? とっくにアメリカは「戦争犯罪」を犯してきているのに、トランプ氏が初めて罪に手を染めるのか? ここでトランプ氏という「邪悪な独裁者」を阻止することを呼びかけるレトリックは、これまでの自国の外政の結果へあるべき批判を誤魔化したものにすぎなくなっているのである。


5)情報産業の集中砲火を浴びてトランプ氏がなお失速しないのはなぜかという疑問については、様々な観点から議論がなされている。ただ個人的には、なぜ醜聞だらけのベルルスコーニ氏がイタリアで20年も天下を取っていたか(まだ完全に没落したとは言い切れない)という問題と、合わせて答えることが可能であると思う。わたしはリビア戦争の時のイタリア民主党とベルルスコーニ氏を比較して、人権だの自由だの言いつつ事態の穏当な解決には何ら寄与していない「戦争賛成左翼」が偽善的に見える反面、その対極に彼の「正直さ」がなにか愛らしく見えてくるのではないか、と考えたのだが、おそらくアメリカのトランプ支持者にもそういう現象が生じている。


ベルルスコーニ氏もトランプ氏も「ぶっちゃけ話」が得意である。と言うか、金権を除けば彼らはそれしか持っていない。しかし、総体としては「デマゴギー」的極まりない彼らの「ぶっちゃけ話」に、何らかの「真実」が含まれている、少なくともそう見えてくるとしたらどうか。トランプ氏の「中東のことはサダム(・フセイン)やカダフィにうっちゃっておけばよかったのだ」という種の発言に対して、「邪悪な独裁者」のイメージを弄んでいる人々は「独裁者は独裁者が好き」なことを飽きもせず発見してはしゃぐばかりだが、イラクとリビアの現在の有様について虚心坦懐に見ることのできる人は、トランプ氏の発言にも「真実」の一端を見出すことができるのではあるまいか? 


6)トランプ氏への「邪悪な独裁者」というレッテル張りが問題だとすると、「ファシスト」とするのはどうか。日本の石原慎太郎などが、在日朝鮮人の排斥を唱えると同時に、中国と朝鮮の軍事的打倒を鼓吹しているのに比べれば、トランプ氏は意外にもおとなしい。彼は「不法移民」の排斥を唱えているものの、対外軍事活動は無駄なものとして退けているからである。19世紀の「モンロー主義」を思わせる、アメリカと外部との相互不干渉をトランプ氏はしばしば強調しているが、こうした広言は「移民を拒絶する」という別の主張と必ずしも矛盾していないのではないか。「移民」の中でも最も悲劇的で規模も大きくなるのは、軍事攻撃でライフラインを破壊されることで起こる、「強制移住」としての難民である。そこで「空爆をしなければ大量の難民は発生しない、だから彼らは各々の国で安心して暮らせるでしょう」と考えるとすれば、ある意味では論理的である。逆に、「私たちは人道主義的目的で空爆をしました、そうしたら大量に難民が発生しました、彼らがかわいそうじゃないですか、だから私たちには彼らを引き受ける人道主義的義務がある」などと言われれば、それが理屈に合わないと感じる人々が出てきて当たり前ではないか。


諸君も各自調べていただきたいが、共和党と民主党の有力候補者の中で、近年のアメリカの「人道的介入」を最も攻撃しているのがトランプ氏であるらしいことには本当に驚かされる(注2)。トランプ氏が共和党の代表候補になることが異常事態であると『ワシントン・ポスト』は警告しているが、有力候補の中で彼が最も非好戦的に見えてしまうことこそ、一番の異常なのではあるまいか? ヒラリー・クリントン? 論外である。ジャン・ブリクモンの協力者であるダイアナ・ジョンストンなどは、その国務長官としての「実績」を分析した著作で彼女を「カオスの女王」と呼び、ヒラリー大統領が到来すればトランプ氏よりよほど世界平和にとって危険であると説いている。確かに、かの「来た、見た、奴は死んだ(アッハッハ)!」発言の際のクリントン氏の形相は、征服者カエサルの再来というよりはホラー映画に出てくる猟奇殺人鬼に近かった。


それでは「民主社会主義者」を自称し、日本でも一部で注目されているバーニー・サンダースはどうかというと、彼による近年のアメリカの軍事活動についての評価もまた、非常にあいまいなものに見える。わたしの眼に入った範囲での話ではあるが、彼にとってもイラク、リビア、シリアは「しくじり(mistake)」くらいの他人事であり、まれな激しい表現でも「誤り(wrong)」である。すなわち、「犯罪(crime)」を犯すのは常に外部の「独裁者」でなければならないというルールに、彼もまた抵抗していない。サンダース氏がアメリカの大統領になることは、アメリカ労働者/市民の生活にとって何かしらの恩恵になるとわたしも想像するが、こと世界平和に対する貢献に関しては、ノーベル平和賞受賞者バラク・オバマのそれ程度しか期待しない方が賢明であろう(注3)。


7)トランプ支持者の大多数は、彼の非干渉主義に賛成しているわけではなく、彼の差別性や反動性に惹かれているだけであるから、やはり断固として退けられなければならない――もちろんそうした指摘には一理ある。しかしその場合、トランプ氏の思いつきに見える発想にオリジナリティがあるかどうかの再確認も必要である。たとえば、アメリカとメキシコの国境に「壁」をつくり、「不法移民」をシャットアウトするというトランプ氏の発言については、人種差別的であるとか、非現実的な金額がかかるとか、それ自体はもっともな批判が相次いでいる。しかし、これまた忘れられているのは、メキシコ側からの「不法移民」に対するアメリカの警戒レヴェルは、すでに1990年代から高まっており、現在では毎年少なくとも数百人が射殺されていることである。これはほとんど、かつての東ドイツの側における「ベルリンの壁」の警戒水準と変わらない(注4)。


かつて民衆の「トランプ」が、映画『偽牧師』の最後で、アメリカとメキシコの国境地帯からどちらの国にも入れなくなった結果、国境線をまたぎながら「アメシコ」――徳川夢声の表現――の彼方へ去って行くのは有名な話だが、事実上彼が歩いた道にはすでに「壁」がつくられてしまっている。つまり、資本家の「トランプ」が大統領になり、本当に米墨国境にコンクリート製の「壁」をつくったとしても、それはこれまでの共和党と民主党のより「穏健な」主流派が進めてきた政策のひとつの完成形であっても、逆転ではない――そうした事例は、実はいくらでもあるのではないか。厳然たる事実に対する真剣な省察を読者に喚起し、一緒に考えていくことこそ、ジャーナリズムの役目であるとわたしは考えている。しかし日本に限らず、『ワシントン・ポスト』をはじめとするアメリカの情報産業のエリートたちもまた、そうした省察の喚起を「邪悪な独裁者」といった空虚なイメージ操作にすり替えるようになって久しいようだ。おそらくトランプ氏の現在の躍進は、現在彼を「批判」している人々によっても準備されていたのである。





(注2):念のため書いておくが、仮にトランプ氏が大統領になったとしても、公約として「モンロー主義」を貫き通すことは100パーセントないとわたしは考えている。彼がいかに突出した億兆長者であっても、彼が現在のアメリカの支配階層に属している以上、その利益総体を無視して国政を引きずり回すことは不可能であるということである。トランプ大統領は結局ベルルスコーニ氏のように、「本当はしたくなかった」対外戦争をすることになるであろうし、TPPへの反対も撤回するであろう。しかしそのことは、トランプ氏が特別デマゴギー的であるということを意味しない。それは古くからの社会民主主義的「中道左派」が、またギリシャのSYRIZAのような「新しい急進左派」が、反新自由主義を標榜して支持を得ておきながら、実際に政権につくとそのたびに挫折する――何もしていないうちに金融資本に屈服することを「挫折」と言えばの話であるが――という、ヨーロッパで繰り返されている現象のパロディ以上のものではない。


(注3):この点について、わたしが特に気になっているのは、アメリカのサンダース候補の支持者の一部から、トランプ陣営もかくやという誇大な宣伝活動がなされているように見えることである。たとえばかのマイケル・ムーアは、民主党の候補にクリントン氏ではなくサンダース氏を推奨する中で、リビア・イラク・アフガニスタン・シリアの戦争における両者の態度について、「前者が全部反対なのに対し後者は全部賛成である」という趣旨の「対照表」をツィートで発信していたが、それはさっそくクリントン氏の支持者によるサンダース氏の詳細な「戦争賛成表」によって反撃されていた。クリントン派の列挙のすべてが正しいかどうかはさておき、少なくともイラクやリビアの空爆に対し、サンダースという名前の議員が断固として反戦を表明していたという記憶はわたしにもない。彼が“No, No, No and No”くらい毎回明快な反対姿勢をとっていたならば、今回の大統領選以前からもっと世界的に注目を集めていたはずである。世界最大の権力をめぐる争いに誇大な宣伝が飛び交うのは当然と言えば当然だが、これでトランプ氏の「デマゴギー」をどこまで批判できるのか。ムーア監督の映画には「誇張」はあろうとも重大な「真実」は含まれると考えてきた観客に、これまでの彼の仕事について疑いを持たせかねない発言ではあった。


(注4):しばしば誤解されているが、東ドイツから西ドイツへの出国については完全に禁止されていたわけではなく、手続き(煩雑かつ不明瞭ではあったが)を経れば「合法」であり、それは射殺覚悟の「不法」出国を決行した人の数よりずっと多かった。ともあれアメリカの場合は、「自由」を体現しているとされる側が、それを求めて入国しようとする人々に発砲していることになる。





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続・たとえ話(上)

1)現在アメリカでは「トランプ」が大統領になるかもしれないと大騒ぎになっているが、かつてかの国には、大統領より世界の民衆から愛された「トランプ」がいた。彼がその卓越したパフォーマンスの技量で獲得した名声は、同時代に四たび大統領に当選したフランクリン・ルーズヴェルトすら及ばないほどのものであった。しかしこの「トランプ」は、セレブリティの一員に上り詰めながらも国粋主義に与せず、自分の出身階級との連帯精神をも手放そうとしなかったので、支配層は次第に彼を疎んじるようになり、最後には国外へ追いだした――わたしはテレビのニュースでドナルド・トランプ(Trump)の名前が呼ばれるたびに、日本語では発音と綴りが同じになる、チャーリー・チャップリンの演じた「放浪者(Tramp)」を頭に浮かべてしまう。


こうした反射的な連想は、現在のような事態になる以前から、「リベラル」とされるアメリカの情報産業においてトランプ氏がしばしば「道化者」扱いされていたのを読んできたせいかもしれない。この「手帖」においてはイタリアの話をちょくちょくしているが、トランプ氏という人は、ここ20年に渡ってかの国の首相として世界で物笑いの種にされてきた、シルヴィオ・ベルルスコーニの同類のように思える。わたしに言わせれば、イタリア以上にビジネス上の億万長者が尊ばれるアメリカのような国で、そして「左派」的勢力が貧弱な国で、先にトランプ氏のような人物が台頭しなかったことがむしろ意外であったのだが。ともあれ、アメリカ人もイタリアのことをもう笑っていられないようで、かの国の情報産業のあちこちでトランプ氏への批判がなされているわけだが、その中には以前この「手帖」でも取り上げたような、日本における「北朝鮮」に関するたとえ話にも勝るとも劣らない、空虚なレトリックを振り回しているものがあるようだ。日本でも紹介されている、1000万人以上と見積もられた「不法移民」の強制送還についての彼の公約が、「スターリンやポル・ポト以来」のものとした、今年の2月24日の『ワシントン・ポスト』の「社説」はその一典型であろう。


2)確認しなくてはならないのは、ヨシフ・スターリンやポル・ポトの「強制移住」政策が、基本的に元来の自国の公民に対して行われたものであり、国外からの「不法移民」に対しなされたものではないことである。前者は、不可侵条約の時期においても事実上の敵国であり、後に実際の交戦国となった、ナチス・ドイツや日本と結びついた反乱の可能性を消滅させるためになされた軍事上の措置として、また後者はその(無謀な)経済上の措置として、それを行った。こうした歴史的事実については、世界の労働者/市民の立場から――まず「我々」は『ワシントン・ポスト』がそうした立場にあるかどうか疑ってかかるべきである――、その道義性や必要性が全面的に否認されるのはよいことであるにせよ、少なくともその行為は「移民」を一義的な標的にしていたわけではない以上、トランプ氏の「デマゴギー」を批判するのに使うのは不適切である。また、スターリンなりポル・ポトなりの政治手法は「強制移住」の件に限らず、猛烈な鉄拳政治であったとして間違いはなかろうが、彼らの基盤はトランプ氏のような放言と金権にあったわけではない。


日本における『ワシントン・ポスト』の社説の紹介を読んだ時、わたしはかの新聞が、「邪悪な北朝鮮」の上位カテゴリーとしての「邪悪な共産主義者」のイメージをトランプ氏にあてはめたいのだろうと推測した。しかし、いくら「邪悪な共産主義者」の話を出したところで、トランプ氏は明らかに資本主義体制下でのし上がってきた人物である。そうした彼のサクセス・ストーリーに惹かれる彼の素朴な支持者にとっては、おそらく「それはドナルドとはまったく関係ないだろう」で終わりである。『ワシントン・ポスト』はトランプ支持者について、ポストを見てもアカだと騒ぐようなジョゼフ・マッカーシー的妄想を今日なお抱いている連中ばかりと認識し、「トランプは共産主義者であるか、そのまわし者に違いない」とアクロバティックに考えさせるように仕向けたいのかもしれないが、それは排外主義そのものの批判になっていると言えるだろうか。「リベラル」である自身を愛しているであろう、この新聞の固定顧客はこれに満足するかもしれないが。


朝鮮は1948年の建国以来、その国家機構と社会制度が指導者の世襲を伴いつつ現在も継続しているから、アメリカや日本の人間は自己の軍事ドクトリンを棚あげする限りにおいて、彼らの「脅威」が継続し続けていると言うことは一応可能である。しかしヨシフ・スターリンやポル・ポトが展開した政治支配は、すでにこの地上のどこにも存在しない。「邪悪な共産主義者」のイメージは、冷戦期に搾り取るだけ搾り取ったはずなのに、まだアメリカ人はその残り汁を吸って飽き足らないのであろうか。『ワシントン・ポスト』に限らないが、「共産主義」は過去の話であり問題外のものとして封印しているはずの人々が、自分の必要な時にだけ倒した敵を召喚することで読者に説教しようというのは、ほとんどポケットモンスターをモンスターボールから呼び出すがごとき手軽さである。しかし、ポケモンごときに現代の読者が恐怖する、あるいは歴史的教訓を読み取りうると本気で考えている人がいるとしたら、それはとんだ間抜けではないか。


3)――と、日本語の記事を最初に見た際には思ったのだが、改めて『ワシントン・ポスト』の「社説」の全文を読んだところ、彼らは「共産主義者」をそこまで問題にしていないことに気づいた。ちょうど社会主義の歴史に関する論文をネットでいくつか読んでいたところだったので、いささか勘ぐりすぎたようである。彼らにとってより汎用性があり、より安易に振りまわせる便利なレッテルがあるではないか。すなわちわたしは、「邪悪な北朝鮮」の上位に「邪悪な共産主義者」があるだけでなく、それらを包含する「邪悪な独裁者」というカテゴリーがあることをすっかり忘れていた。


日本での紹介では省略されていた部分であるが、実は『ワシントン・ポスト』は、スターリンとポル・ポトを引っ張り出している部分の直前に、「独裁者ウラジミール・プーチン」にも言及している。こうでなくては完璧なたとえ話と言えないということなのだろうが、毎度ながら彼らの恣意的なカテゴリー化にはほとほと呆れさせられる。2011年の下院議員選において、プーチン大統領の与党「統一ロシア」は一定の批判を受けた結果、議席占有率を52パーセントにまで減らしていたはずである。議会の過半数をどうにか制しただけの政党のトップが「独裁者」だったら、二大政党制の国家における時の指導者はすべて「独裁者」と呼べてしまう(注1)。プーチン大統領をたとえば「強権的」とでも言っているなら、よほど妥当であろう。しかしアメリカの情報産業は、「独裁者」という明らかに実態的でない空虚な表象に憑りつかれている。そして、いまだ公権力を握っているわけでもない人物に対し、他国の政治家にことよせたイメージ操作的な「批判」ばかりしている有様には、自国だけが「自由」であるという権威主義に拝跪する、彼らの精神的な奴隷性すら見い出すことも可能であろう。


トランプ氏が「プーチンを尊敬している」としてことさらに攻撃するのも、これまたおなじみ「悪党と仲良しな奴はそいつも悪党」理論である。イタリアの話をここでも引き合いに出すと、かの国の民主党(かつてのイタリア共産党多数派のなれの果て)が、リビアへの「人道的介入」を唱えつつ、ベルルスコーニ首相の追い落としにムアマル・カダフィを悪党として活用した時ほど、彼らの何重もの知的・政治的破綻を露呈させたことはない。2000年代、ベルルスコーニ首相の接近をカダフィ大佐は鷹揚に受け入れていたが、それよりずっと前からの友人として、彼にはネルソン・マンデラ――1990年代以降の西側諸国でほとんど聖人あつかいされた――がいた。マンデラの方では孫の一人に「ガダフィー」と名前をつけたそうである。しかし「戦争賛成左派」(ジャン・ブリクモン)は、「聖人と仲良しな方はその方も聖人」という風には一度も考えず、自分の趣味に都合の悪いことは思い出さなかった。こうした西側の「民主主義者」を観察して、「持つべきものは友ではなく核」と朝鮮政府が結論したのも無理はない。


(つづく)





(注1):日本でもそうだが、現代ロシアについての報道において、存在している複数野党の動向が(それらの「問題発言」を除いて)まったく伝えられないのは驚くべきことである。筆頭野党のロシア連邦共産党、社会主義インターナショナルにもオブザーヴァー参加している「公正ロシア」、議会内最右派のロシア自由民主党を合わせると、その議席占有率は40パーセントを超える。得票率に比べて不当に高い議席占有率を第一党が牛耳る、日本のような制度的な極端な乖離も存在しない。政治学では、絶対的与党と微細な「衛星政党」で構成される、かつての東欧の社会主義国(また現在の中国)に典型的な「ヘゲモニー政党制」という概念があるが、これにも当てはまらない。西側の情報産業はおそらく「野党が機能していない」と言うのであろうが、それなら彼らの国にはどんな野党が「機能して」いるのであろうか?



たとえ話

ある人が別の人を説得するために用いる語りの方法は色々あるが、論じたい事項を何か別のものになぞらえることで、相手の理解を深めたり、相手の気づいていないことを気づかせたりしながら議論を進める、たとえ話の技法は昔からのものらしい。かの『三国志』(『三国志演義』ではなく、同時代の陳寿による史書)にも、呉の幕僚の諸葛謹――諸君の中にも、弟の諸葛亮の方はご存じという向きもおられよう――は、その篤実な人格によってだけでなく、たとえ話を有効に活用することで君主の信任を得たというエピソードがわざわざ記されている(注1)。また明治時代の日本では、同じ時期に成立した新しい国民国家としてイタリアに注目しようという動きがあり、マッツィーニ、カヴール、ガリバルディといったリソルジメントの指導者たちが、自国の木戸孝允、大久保利通、西郷隆盛という「維新三傑」になぞらえられて紹介されたという(注2)。


生来粗暴で、こちらが気に食わぬ時には声を荒立てたり席を蹴ったりということがザラであるわたしとしては、このような「たとえ話による説得や議論」を使いこなせる人には非常にあこがれる。しかしそんなわたしにさえも、7月中に飛び出した安倍晋三首相のたとえ話は、端的に言って色々とヒドいものに感じられた。「隣家に入る泥棒」「友達のアソウさんVS不良」「強盗に襲われる隣のスガさん」……これは一体何なのか? 卑近を通り越して限りなく含蓄に欠けたもの言いといい、テレビ出演する際の「生肉」模型といい、揶揄する声が挙がったのは当然ではあったが、わたしが驚きかつ腹に据えかねたのは、彼のたとえ話にまったく真剣さが感じられなかったことである。


「安倍はバカだから」という論調があり、わたしも彼が「賢い」人物とはまったく思っていないのだが、問題は彼の知性ではない。そもそも彼には、汗をかいて必死に相手に話を伝えたいという心情が存在しないし、人生においてそういう努力をしてこなかった、またはする必要のなかった人物なのであろう。彼が「友達のアソウさん」のような同じ階層とだけつきあっていれば、その中では最初から話はツーカーである。一方彼より「下」の立場の人間には、諸葛謹のような部下ないしは臣下がいないのか、利益供与に群がる亡者ばかりなのかは分からないが、自分から彼のあらゆることを必死に忖度してやる(「真意」探し)人物か、最初から全面平伏して絶対文句を言わないだけの人物かのどちらかしかいない。こうなると、彼の側からの努力を伴う「説得」は、一々しなくてもよいことになる。この感覚をもってして他国の人々と「外交」を展開するとあれば、彼が驚くほど稚拙で無策な言動に終始するのも道理である。


ところがその一方で、愚劣な首相を批判する側の運動の中に、完全に誤った形でたとえ話が使われている事例もずいぶん存在する。その筆頭は、例によって「北朝鮮のよう」的な比喩の濫觴である。少し前から、2020年の東京オリンピックのエンブレムが外国のデザインの盗用であるかどうかが問題になってきたが、これに関してまで「北朝鮮」に引きつけた当てこすりが展開されていたのを見かけたのには驚いた。とある有名な「政治ブロガー」――しばしばそれなりに検討に値することも書いている――の一人は自身のツィッターで、この疑惑のデザインの選定に安倍首相が関わっていると大雑把に推論しつつ、もしこのデザインに問題がなければ「あれはオレが決めたんだと裏話をマスコミに漏らして得意になっていたんだろうな。金正恩みたいに」などと書いていた。


この「金正恩みたいに」という後付けの台詞は、真面目に考えるといかにも変である。朝鮮労働党の第一書記が「あれはオレが決めたんだぞ」と、実際にかの国の国家的イヴェントに関わるデザインの分野において吹聴している、という話は聞かない(安倍首相の話も推論なのだから当然だが)。この「政治ブロガー」が自分で日頃言っている通り、かの国では国家によって情報を強く統制しているので(「我々」の情報産業は、自分を自分で統制しているのでその必要がない)、指導者の側からのリークという政治手法も用いられていない。「得意になって」いる政治家の顔については、アメリカやロシアの指導者群でも普通に代用できる。要するに、安倍首相を攻撃するためなら、まったく無関係のところにまで「北朝鮮」表象を出張させなければ気が済まない、ということである。


とりあえず二点だけ指摘しておこう。まず、「我々」を含めた西側の情報産業が朝鮮について提供する情報は極めて不正確か、悪くすれば徹頭徹尾虚偽や噂話にすぎないものばかりであるのに、そのようなものに基づいた「北朝鮮」像によりかかった話を安易に利用してよいのか、という問題である。例を挙げると、「我々」の側では情報産業の海外消息のネタが枯れるたびに、かの国で最高指導者の機嫌を損ねた取り巻きや政府高官たちが定期的にマシンガンで蜂の巣にされたり犬に食われたり、ともあれどえらい殺され方をするという話が出てくる。しかし、そうした人々がいつの間にか指導者のそばにまた現れているという怪現象を、「我々」はもう何度か見ているのではなかったか。ここしばらくで、かの国の指導者層の粛清が客観的事実として確定されたと言えるのは、張成沢の事件くらいであろう(注3)。朝鮮当局が不必要なまでに秘密厳守なのは事実であるが、外部の資本主義国の情報産業の連中にどんなニュースを流したところで、それをそのままストレートに認識することなど決してないであろうという、彼らの観測も正しいようだ。「マスコミが自民党や公明党に有利なように、低レヴェルな情報ばかり流している」と叫ぶ人々が、そのマスコミやら自民党や公明党やらが蔓延させている低レヴェル(これは文字通りそうである)な「北朝鮮」像を使って安倍内閣を攻撃するとは、極めて奇妙なことではあるまいか。何らかの判断の前提となる情報の質が極めて低く、その扱い方も実にいい加減なままで、彼らはいかに今後の「ポスト安倍」(倒閣できればだが)の国際政治を展望していくのであろうか。


より「北朝鮮」イメージの乱用で問題となるように思われるのは、「邪悪なる北朝鮮」のストーリーに安易に寄りかかっているだけのところに、本質的な意味での知性なり悟性なりの成長はあり得るのかという点である。たとえ話の利点の一つには、一つ一つを時間をかけて逐一語っていくことの煩雑をショートカットするということがあるが、そのたとえが極めて短絡的なイメージにもたれかかっている場合、議論している相手の思考を刺激し触発していくという、それが本来は持っている過程や機能まで条件反射的にすっ飛ばしてしまうのである。2000年代から「我々」には、あらゆる場所と機会において「邪悪なる北朝鮮」のイメージが、悪質な情報産業と政府与党の側から刷り込まれているのであり、まったく彼らの土俵である。そもそも話し手だけではなく、受け手の側も「北朝鮮は悪である」ことはとっくに「知っている」のだから、結果として「自分たちは彼らではない」という一体感は増幅するかもしれないが、それはアベさんとアソウさんのツーカーぶりと似たようなものではなかろうか。


「北朝鮮」のたとえ話を振り回す前に、アジア・太平洋戦争に敗北した日本がいかに長きに渡って、外交の場においては旧被支配国に対する道義的/法的責任を回避し、内政の場においてはファシスト的人脈を温存することに奔走してきたかについて、またそうしたことごとのすべてが、中国なり朝鮮なりのあらゆる層への不信を長年招いてきているかについて、安倍首相の退陣を要求する人々の中核はどこまで真剣に考えているのであろうか。もちろんこうした問題群を承知の上で、最初から噛んで含めるように説くのは軍事法案を葬り去らねばならぬ「緊急事態」には迂遠である、とする人も中にはいるのかもしれない。しかし「邪悪なる北朝鮮みたいにはなりたくない」というショートカットで、一時は他者を説得出来るかに見えても、そういった安易かつ条件反射的に得られた認識は、同じく条件反射的に逆流することも簡単に起こりうる。すなわち「邪悪なる北朝鮮みたいにはなりたくない」が、あっという間に「彼らが邪悪なら我らが打倒せねばならぬ」に転ずる可能性である。2011年、すなわちNATOが仕掛けた対リビア戦争以降、西側諸国の「人道の帝国主義」の犯罪性はますます猖獗を極めているが、日本で平和を希求する人々はこうした「先進国」の醜悪な傾向にもっと目を配り、自国版の「北朝鮮解放のための戦争」的な論理が発展する可能性に警戒しなければならない。ここ10年「リベラル」なり「左翼」なりを自認する日本人の間でも、「日中韓」といった、朝鮮の存在を暗室に押し込めた国際政治の認識枠組みは当たり前になってしまっているが、この手の「平和主義」の欺瞞性は別にファシスト的右翼でなくても十分感知できる。一朝事あらば、そこを突いた日本独自の「人道の帝国主義」戦争のイデオロギーが噴出し、戦争指導者たちに「邪悪なる北朝鮮」表象は徹底的に活用されるであろうが、それと同じ表象に浸っている現在の軍事法案反対者たちは、その時どれだけ明白に拒否できるのか。わたしは寒心に堪えない。


相手の何かを触発し説得するという機能を果たしていないたとえ話なら、嬉々としてしゃべるべきではない。わたしは個人として、何度も何度もこの手の言い草を見聞きしているうちに、部分的には、むしろ日本は「北朝鮮のよう」でなくて残念なのではとすら思えるようになってしまった。実際、「世襲」の実態一つとってもそうである(注4)。安倍首相の先祖は、帝国主義国家の官僚・閣僚として征服戦争を遂行したにも関わらず、その犯罪行為への審判も巧みにすり抜け、ついには「民主主義」体制下で首相にまでなった。これに対して金正恩氏の先祖は、そうした帝国主義国家の征服者と戦い自身の属する人民を救おうと奮闘した――彼の先祖とその周辺の一角だけがそうであったわけではないにせよ――人物には違いない。本当に「北朝鮮のよう」に、自国で反帝国主義闘争を展開した人々やその末裔が、1945年以降の「我々」の政治の中枢についていれば、少しくらいは今日の現実も何か変わっていたのではなかろうか。しかし残念ながら、ここは日本、あくまでも日本、どう転んでも日本、まぎれもなく「北朝鮮」でもなく中国でもない日本である。今回の軍事法案に限らず、現在の「我々」の悲惨は他のどの国家の有するそれとも異なったものであり、いかなるたとえ話も追いつかない種のものではないか――そう何度でも考えてみるべきである。





(注1):「孫権と語り合ったり諌めを述べたりするときには、けっして強い言葉を用いたりすることなく、思うところをわずかに態度に表わし、主張のおおよそを述べるだけで、もしすぐには孫権に受け入れられぬようであれば、そのままにして他に話を移し、やがてまた他のことに託して意見を述べ、物にたとえて同意を求めた。このようにしたため、孫権の気持も往々にして変ったのであった」、『三国志 Ⅲ 世界古典文学全集第24巻』(小南一郎訳、筑摩書房、1989年)。


(注2):藤澤房俊『イタリア「誕生」の物語』(講談社選書メチエ、2012年)。ただしこの比較がおそろしく荒っぽいのは、現在の眼から見れば明らかである。ブルジョワ政治家としてのカヴールと大久保の比較はまだある程度成り立つかもしれないが、マッツィーニの『人間の義務について(人間義務論)』に見られる人民主権論などは、有産市民向け議会の開設にすら死ぬまで抵抗したという木戸の意識とは明らかに異なる。ガリバルディも武士道精神と言うよりはコスモポリタン的精神の持ち主であり、西郷のような征韓論者ではなかった。さらにマッツィーニとガリバルディの二人は、自由主義的運動のみならず社会主義的なそれにも一定の関心を示し、一時は第一インターナショナルに加わっていたこともあるくらいだが、木戸や西郷の方ではそのような潮流を知る由もなかったであろう。


(注3):これはハングルの読める人のツィッターで見た話だが、最近発生した38度線における朝鮮と韓国の衝突に際し、解決のために板門店に派遣された朝鮮側の人員の中には、西側世界で出回ったニュースに従えば今年の5月に粛清されているはずの人物がいたという。当の韓国でも問題になっているというこの手の怪談は季節を問わないものだが、それにしてもこうした情報環境下において、朝鮮政府の説明がすべてデタラメで韓国政府のそれが正確であると信じよと言われても無理がある。「自由」な西側情報産業が、いかに「自由」にリビアについての疑似情報を形成したかも想起せよ。


(注4):ヨシフ・スターリンも毛沢東も自分の子孫に政権を継がせることはしなかった(できなかった)ことを考えると、この辺りに疑問が生まれることは無理もない。ただしこの話は、たとえば自由民主主義諸国の盟主たるアメリカにおいても、次期大統領候補の有力候補として、ブッシュ家の孫とクリントン家の女主人がいるという現実を無視してできるとも思われない。建国初期のジョン・アダムズ親子(第2代&第6代大統領)や、セオドア・ルーズヴェルトとフランクリン・ルーズヴェルト(第26代&第32代大統領)の親戚関係について言っているのではない。ジェブ・ブッシュがその座につけばまさしく「3代目」であるし、ヒラリー・クリントンがその座につけば、昔インドやフィリピンなどであった、元大統領夫人が自ら大統領になるパターンとあいなる。「金王朝」と呼ぶことが許されるなら、「我々」は「ブッシュ朝」や「クリントン朝」がなぜ台頭しているのかについて、大真面目に議論をしてもよいのではないか。




寒い国から来た人から見られた世界(下)

***


承前


ここ近年において、地球の全体的支配への道に立ちはだかるあらゆるものを粉砕する準備を西側が調えていたことは明白となっていた。


しかし突然、力ある四つの国が、そうした強盗行為を野放しにしておくことを拒絶し、グローバル独裁が続くことを許さない決意に到った。その国々とは中国、ベネズエラ、キューバ、ロシアである。現在はさらなる国々が次第に加わっているが、彼らが中核である。


西側は公然かつ恥知らずにも、幾度もの機会をとらえクーデタを組織することで、また「反対派」に、財政援助を与え支持することによって、ベネズエラを破壊しようと試みてきた。一部には、かの大統領の暗殺にさえ支持があったと信じる者もいる。


カラカス政府に対抗して行われた中傷キャンペーンは壮大なものとなった。私はテレスール〔ベネズエラの国際放送局、2005年開設〕のためにドキュメンタリー番組を何度か制作しているが、西側が後援する反革命的暴動の高まりの中で、ある編集者が言った言葉を忘れることはないだろう。「私たちは銃砲の下で働いているんだよ!」。


その時は戦争があった、そして今も、まだあり続けている。それはファシズムと戦う、そして人類のための戦争である。このことに気づいていない人は、もっと注意を払わなければならない。


そして戦争の中では、どの側に立つかを選ばなければならない。


西側の支配者たちは、中国とロシアを不倶戴天の敵と見ている。昼となく夜となく、この二つの巨大で強力な国は、悪意あるプロパガンダ、中傷と憎悪のキャンペーン、挑発、非直接的な攻撃に見舞われている。


アジアにおいて、帝国の目標は中国の孤立化であり、それを挑発し挑戦することである。西側は文字通り、焼けたアイロンを竜の口に突っ込もうとしている。この地域における西側の二つの属国〔two client-states〕である、フィリピンと日本の双方の学術界において、このことは共通の理解である。しかし西側の公衆の中では、このことはほとんど知られていない事実である。


ならば、アメリカとその同盟国によって明らかに脅かされている中国を支持するための、西側左翼知識人による動きはどこにあるのか?


そのような動きはどこにもない! その代わりに、ある種の左派知識人がオウムのように繰り返しているのは、ヨーロッパと北アメリカの両方のマスメディア代理店によって作り出された多くの虚偽である! 中国がアジアやアフリカにおいて、帝国主義的な野望を持っているというナンセンスがそのすべてである!


もし彼らが、アフリカの人々と語るというだけの労をとるならば、彼らは中国が、アフリカの多数派から感嘆を受け希望として見られていることについて聞くだろう。彼らは「中国人はアフリカ人を人間として、同等の者として扱ってくれる初めての外国人である」という言葉を聞くことになるだろう。私が繰り返し、東アフリカ全体に広がるインフラの建設現場で聞かされたように。


しかしロンドン、パリ、ベルリンのような植民地主義の中枢において創造されるプロパガンダは、実際に消費され信頼がおかれているだけでなく、西側左翼の隊列からもさらに拡散されているものなのである! 西側は何千万というアフリカ人を略奪し、強姦し、破壊してきた。彼らは動物のように狩られ、奴隷にさせられた。それが犯してきた無数の虐殺は、レオポルド2世時代のベルギー支配下における1000万人の死者〔コンゴ〕から、ナミビアの原住民に対するドイツのホロコースト、もしくは現在のコンゴ民主共和国で、ウガンダとルワンダの同盟者たちや、自身の錯乱した兵士たちを使うことで、コルタンとウラニウムの供給を保証するために死の労働へと向かわせられる800万人の人々に到るものだ。ソマリアは不安定化させられ、マリも。悲鳴を上げ血の海に沈む国々は二ケタに及んでいる。それでも「中国は同じ野望を抱いている」とされるのである!


こうした西側左翼は沈黙しているか、自己満足にふけるかになる。そのメンバーの大多数は、中国が大きな善をなしている地への関心がないし、旅をしようともしないのである。


中国が主権を主張している地域へアメリカと日本の空軍が飛行機を飛ばし、中国を取り囲むように新しい軍事基地が建設されている時、西側左翼は何もしない。本当に何もしないのだ、北京を支援するためには!


だがロシアが、ウクライナとノヴォロシアに関して対峙を挑まれ、中傷され挑発された時には、ほとんど即座に動きがあった。これはよい、非常に良いことの一つではあった。しかしなぜ西側左翼は突然、実際社会主義的ですらないロシア政府(ソヴィエト時代からの慣性によって、西側の帝国主義に圧迫される諸国のために、なお何らかの大きな仕事をなしてはいるが)の支持を選んだのであろうか? なぜロシアであって他の国ではいけないのか? なぜロシアであって、大きな支援の必要がある、実際の社会主義国家の数々ではないのであろうか?


それはロシアが有力な西側にある「白人の」国家であるのに対し、中国、ベネズエラ、ボリビア、南アフリカやエリトリアはそうではないから、ということはないだろうか?


こうした質問には、真剣で真摯な自己省察をもって答えるべきである。すぐにでも!


***


今日において、ほとんどの西洋左翼知識人はもはや、力を求めることをやめてしまっている。彼らは絶望と憂鬱を楽しんでいるように見える。彼らは定期的に帝国の失敗や犯罪について書き記すが、決然としたやり方で、本当にそれと向き合おうとは望んではいない。彼らはバリケードを築かないし、知的にもほとんど戦わない。


実際にはそれよりもさらに悪いことがなされている。キューバ、ベネズエラ、ボリビア、中国、朝鮮、南アフリカやエリトリアのような、世界中の左派的で反帝国主義的な政府に対する敵対心は、容易に検出可能である。


信頼され支援されている連中は負け犬に過ぎない――すでに敗北した連中である。多くの西側の進歩的知識人は一団となって、そうしていい気分でくつろいでいる。


新植民地主義や協調主義〔corporatism〕に対抗し誇り高く戦う人々、また現在実際に自身の国を運営している(少なくともいくつかはそうである)人々の力は嘲笑され、しばしば悪魔化すらされている。パリやベルリンやロンドンにいる左翼たちには何も満足できないし、何も「尊重」されない。キューバやエリトリア、南アフリカや中国には決定的にそうはなされない。


またも、理想的な運動、政党、社会のための「宗教的」模索!


それは、第二次世界大戦におけるフランスのレジスタンスやセルビア〔ユーゴスラヴィア〕のパルチザンについて、それらが十分に「民主的」ではなかった、あるいは思慮深くなかったという理由で、捨て去ろうとすることに似ている。彼らがそうでなかったのは当たり前だ! なぜなら完璧になろうとするだけの時間はなかったからだ。彼らは誤りを犯したし、イデオロギー的に洗練されてもいなかった。彼らは巨大な悪に対する戦争に専心していたのだ。


西側左翼は、世界史についてすら安全な場所で楽しんでいる。何人かは(もう数十年にもわたって)ソヴィエト連邦とナチス・ドイツを比較しているが、あれこそ帝国のプロパガンダ屋たちに創造された洗脳的プロパガンダの一発の最たるものではないか! 彼らが実際に話題にしているそのソヴィエト連邦は、何十もの奴隷化されていた国家が西側帝国主義からの独立を主張するのを助けているし、そのソヴィエト連邦はほとんど自力で、2000万人を超える国民を代価に、ナチス・ドイツを打倒したのである。そのソヴィエト連邦はすべての大陸の新しい独立諸国における、建設と教育を助けた。ナチスとの比較は歴史的に馬鹿げているだけではない。侮辱であり常軌を逸している! もし西側左翼がドイツ・ナチズムと何かを比較する必要があるならば、西側の植民地主義としての、ヨーロッパの立憲君主制国家、西側の「民主主義国家」そのものと比較すべきである――こうした政治的/イデオロギー的理念はすべて、数世紀にわたり、世界すべての大陸の何億という生命を破壊してきており、今もそうしているではないか!


***


中国の知識人は憤っている。2013年、私は北京の清華大学で、自分の仕事についていくばくかの報告をしたことがある。


ここで私が書いていることのすべては、中国、南アメリカ、アフリカにおいては、十分に知られていることであった!


西側左翼の自己意識の傲慢と独善は吹き上がっており、その結果が、ヨーロッパ/北アメリカの左翼運動と中国との間における、現在の非常に乏しい提携関係である。「なぜなら中国は十分に左翼的ではないから」。ガラクタだ! フィデル・カストロに中国が社会主義か否か聞いてみるがいい。ベネズエラ、もしくは南アフリカ政府に聞いてみるがいい。


実際の主たる問題とは、西側左翼が十分に国際主義的ではない、もしくはまったく国際主義的ではないことである! 私にとっても、また非常に多くの世界の同志たちにとっても、国際主義は真の社会主義の精髄である。


西側左翼は何のために戦っているのか? 第一に自国の人々の特権のために戦っており、世界の他国の人々の特権のためではない。無償医療や無償教育、またはヨーロッパの農地経営者が得ているような補助金のために、誰が本当に支払いを行っているのかについて、何も気にかけてはいない。


植民地時代において、破壊され奴隷化された何億もの植民地の人々は、そうしたヨーロッパの宮殿、劇場、鉄道や公園のために金を支払ってきた。今日においてさえ、それが大きく変わったわけではない。廃墟となった西アフリカの農民たちが死んでいくのは、フランスの農地経営者が助成金を得て、生産するためのものであるかはどうであれ、年に応じて、BMWやその他の高価な車を乗り回すためである。新しい植民地にて、貧窮し過労した何億もの人々は、いかなる医療保険もないまま、ヨーロッパの老人たちが無償の診療所/病院/社交団体を持てるようにするための、支払いをしていたのである。


そして西側「左翼」はヨーロッパの人々のさらなる特権のために戦っている。中国は彼らにとって何も意味しない。中国やヴェトナム……彼らは「“自分たちの”仕事を奪っていく」煩わしいアジア諸国である! 中国やヴェトナムの人々は、まさしくマルチチュードであり、そして非人間〔un-people〕なのだ。


中国が無償医療を再導入する時、その支払いをするのはその国の人々の労働である。そしてもちろん、キューバ、ベネズエラ、チリ、アルゼンチン、南アフリカもそうしている。


***


西側左翼はナルシスト的で、規律なく傲慢で、独善的で道徳的に死んでいる。それが敗北の原因である。何の閃きもない原因である。人々に霊感を与えない原因である。


それが霊感を与えるわずかな人々は、より苦い結果を得て、より辛辣になる。


彼らはソヴィエト連邦を(その死後も)攻撃し、中国を攻撃し、クメール・ルージュについては、カンボジアへの致命的なアメリカの絨毯爆撃によって権力に引き寄せられた農村の錯乱した無法者集団ではなく、共産主義の虐殺軍であったとする、別の西側プロパガンダの一撃を受け入れている。彼らはキューバとベネズエラも「非民主主義的」であるとして攻撃しており、許し難くも不快な一貫性によって、南アフリカも攻撃する。


中国がアフリカでマラリアと戦い、学校や病院を建設している時でさえ、また海面の上昇で完全に崩壊する危機にあるオセアニアの島国を、防潮壁の建造とマングローヴの植林によって守っている時でさえ(オセアニアとアフリカの両方に住むことで、これらすべてを私は自分の目で見た)、その行いはなお誤りなのである。なぜなら世界総体はクソでなければならない、まさしくそれこそが西側とその政策だからだ! この手のニヒリズムは不快であり、敗北主義的であり、西側の人々そのものにすら悪い影響を及ぼしているものである。


衝撃とともに結論しなければならない、西側左翼の残存者の大部分は、実際には反左派であるということを!


その結果として、ラテンアメリカ、アジア、アフリカの人々は、かつての宗主国にいる進歩的陣営よりも、非宗主国同士の方がずっとよいと感じるようになり、次第に霊感をお互いで求めあい見出すようになっているのである。


***


ロシアもまた、自身の道を歩んでいる。こいつはさらに喜ばしい!


現在ほぼ20億の人々が、自身の社会主義的な祖国に住んでいるかそれを建設している。各々の国は文化的かつ政治的なモデルを異にしている。このグループに属している国のうち完璧なそれは一つもないが。彼らはいずれもその市民にとってより良き未来を建設しようと試みており、また彼らは西側の帝国主義およびファシズム――何世紀も前から現在まで、真に我ら人類の生存への唯一の深刻な脅威――と戦っている。


世界は今や希望と自信に満ちている。クレーンが建設を助けタービンがうなりを上げ、新しいテレビ局と出版物が、植民地主義者のプロパガンダを拒絶し戦うための霊感を、何億もの人々に与えている。


よい世界は予見可能な未来のうちに実現するだろう。おそらくはいくつもの戦いを経て、しかし最後には、実現するだろう。


説法の代わりに、西側左翼は自分が失敗してきたことを認めるべきである。攻撃的な西洋文化――かつて偉大なスイスの精神医学者カール・ユングは、それを病理として描いた――が、何世紀にもわたって世界総体を奴隷化してきた文化であることと合わせて。


その上で彼らは、人々が勝利を収めている国々、人類の存続のために戦っている国々に赴き、そこから学ぶべきなのである!








寒い国から来た人から見られた世界(上)

以前この「手帖」において、ロシア出身のジャーナリストであるアンドレ・ヴルチェクの文章を紹介するともに、彼とノーム・チョムスキーの対談に基づく“On Western Terrorism”という本の翻訳が平凡社から出されるという情報を伝えたことがあったが、先日ようやくそれが出版された。ただし、昨年末の「出版ニュース」掲載時に挙がっていた「チョムスキー、西側諸国のテロリズムについて語る」という日本版の仮題は、「チョムスキーが語る戦争のからくり」というものに変更されていた。訳者あとがきによれば「日本語圏読者の関心を考慮して、邦題は少し変えさせていただきました」とのことであるが、「西側のテロリズムについて」という単刀直入な原題を生かしていた仮題が使われなかったらしいことは残念である。“From Hiroshima to Drone Warfare”という副題の方は「ヒロシマからドローン兵器の時代まで」と忠実に活用されているのを考えると、この思いは余計に膨らむ。「チョムスキーの○○」「チョムスキーが語る○○」といった原題ではないのに、邦題ではそうなっている翻訳はすでに何冊もあるわけだが、わたしはこういった題名を見ていると、例の「池上彰の解説」本の「読書人」向け縮小版ではないかと錯覚しそうになる時がある。チョムスキー氏の名で売上げを確保したい(日本においてそこまで知名度があるのかいささか疑問だが)のは理解できるものの、その内容が重要なのは「偉大なるチョムスキー」が語っているからではない。彼のなしている現代政治への批判について、労働者/市民が自前で考え、「チョムスキーが語らなくても」発言していくようになることがより大切なのであるわけで、その意味で「日本語圏読者」のためになっていない邦題のように思う。


それでも、この翻訳の内容自体は非常に面白く読めた。日本語の本で出されているチョムスキー氏の対談・インタビューをあらかた読んでいるというわけではないが、わたしが目を通した彼の本の中では、最も刺激あるものの一つである。そしてこの刺激は、対談者であるヴルチェク氏の個性によるところが非常に大きい。普通の「チョムスキーの本」だと、チョムスキー氏が色々とパンチの利いた話をするのに対して、良くも悪くもインタヴュアーや対談者はその受け手として「大先生にご説拝聴」モードに入ることが多いように見えるのだが、ヴルチェク氏は自身の調査と見聞による話題を相手に負けずどんどん繰り出しており、その意見の猛烈さもしばしばチョムスキー氏以上に際立っている。たとえば「ファシズム」について話題になった際、ヴルチェク氏はそれについて、植民地主義のことを念頭に入れれば特殊な現象でも何でもなく、「ヨーロッパを全般として見れば歴史的にはファシズム国家だと思いますね」とすら述べているのだが、チョムスキー氏でもここまでの「極論」を提示することは少ないと思う。以前からチョムスキー氏の本や発言に触れていて、「いつも同じことを言っている」とか「最近の彼の“アラブの春”評価には違和感を感じる」とか思っている人には、むしろヴルチェク氏の発言を読むためにこの本を買う価値があるかもしれない。


というわけで、“On Western Terrorism”日本版の発売を個人的に記念する意味も込めて、わたしが今回紹介したいのは、アメリカの『カウンターパンチ』誌サイトに2014年11月14-16日づけで発表されたヴルチェク氏の記事「西側左翼諸派は社会主義的諸国を嫌っているのか?」という一文である。日本文に直して10000字近くになるこのエッセイは、本を買おうとする人、または本を買って読もうとしている人にとって、著者の思考や背景を知る材料ないしは補助線として使えるであろう。しかしそこで驚かされるのは、彼の世界への認識が、「我々」の多くが現在持っているそれと大いにかけ離れていることである。わたしもまた彼の文章には、まったくその通りとしか言いようのない主張とともに、どうにも納得しがたい部分も見出しているのだが、「我々」はむしろそのことから学ぶことがあると考え、ネット上で公開されている彼の多くのエッセイの中から、この作品を選んだ次第である。今回は長文につき、拙訳を前後編の二回に分けて掲載した上で、わたし個人の意見については日を改めて書きたい。誤訳についての意見などは、こちらのアドレスにこっそりご指摘願いたい。なお、〔〕内には訳の簡単な補足を付した。


http://www.counterpunch.org/2014/11/14/do-western-leftists-hate-socialist-countries/





『カウンターパンチ』誌サイト
2014年11月14-16日


西側左翼諸派は社会主義的諸国を嫌っているのか?
アンドレ・ヴルチェク



ヨーロッパと北アメリカのマルチチュードたちは、本当の注意を払っていないから気づいてこなかったのだが、世界の数多くの地において左翼は選挙で当選しているだけでなく、自身を権力へと推し進める革命を戦って勝利を収めている。20年前の世界と比べて全く違った世界がここにある。我々は素晴らしいオルタナティヴに満ちた、次第に楽天的になれる時代〔optimistic times〕に生きている。


ここ数世紀において初めて、西側の帝国主義と植民地主義によって定義されることのない世界についての、夢が可能になりつつある時なのである!


非常に多くの場所で、人々が再び自身の国づくりに携わっている。都市や村落に高いビルディングを建て、タワーや橋を築き、力強いタービンを回し、貧しい人々に電気を送り、病気を治療し、何十年にも何百年にもわたる西側の植民地主義と野蛮な資本主義の結果として、暗黒にとらわれてきた人々を教育している。


総じてモダンでエコロジー的な隣人たちは、中国全土で育っている。建設されつつある都市は、広大な公園と公共の運動場、託児所やあらゆる種類のモダンな保健機関を備えており、同様に歩道や信じがたいほど安価でスーパー・モダンな公共交通機関も有している。


ラテンアメリカにおいては、かつてスラムだった場所が様々な文化的拠点へと姿を変え、超超モダンなケーブル・カーで他の都市エリアとつながっている。


キューバは、その極度の収入の低さ(ドルで換算した場合)にも関わらず、国連開発計画の試算によれば、「非常に高い開発指数」を有する突出した国々のグループに加わった。あのグループには、社会主義的政府を有する他のラテンアメリカ諸国――チリとアルゼンチン――も含まれている。


今や普通と考えられている事々の多くは、わずか10年ないしは20年前には想像もつかなかったものである。チリの大統領ミチェル・バチェレトは、二度目の当選を果たした。西側の後ろ盾を得ていたピノチェトの独裁時代、彼女は囚人として野蛮な拷問を受けた。彼女の父親は、軍人としてアジェンデに忠誠を尽くしたことで殺害された、それゆえ彼女は亡命し、東ドイツで医学の学位を取った。バチェレト女史は現在、ファシストの進軍の最中に砲撃され廃墟となったそれと同じ官邸――モネダ宮殿――で執務している。彼女の国はわずか1800万人の住人しか有していないが、アルゼンチン、ブラジル、ウルグアイのように、知的原動力となっている。チリは「純粋な」社会主義国家ではないが、広範な社会主義的改革を推進している。いまやこの国は、職を失った何万というヨーロッパ人が、その都市や農村で仕事を探しているほどには豊かである。


ブラジルでは、かつてゲリラ戦士だった女性〔ジルマ・ルセフィ大統領〕が、何百万もの人々を貧困から救い出し、地球上で最も重要で敬愛される諸国の一つへと変えつつある。この国は「BRICS」の柱の一つである。その知識人、映画製作者、著述家たちは、感情を湧き立たせ、よりよき世界についての夢を生み出している。


こうしたもののすべてが完全に息を呑むような事件だ。もしそれに本当の注意を払い、その場に立ち会わせ、彼なり彼女なりがこうした出来事を追うために寄り道するならば!


南アフリカにおいて、かつての希望なきスラム街は生活の希望や進取性に満たされ、モダンなバス専用車線や列車によって連結されつつある。彼らは競技場、ショッピング・モールやフィットネス・センター、モダンな病院や学校を持っている。多くの尺度において、社会主義的な南アフリカは世界の超一等国であるものの、なお恐ろしい社会的問題の数々を抱えてもいる。それでも、すべての諸問題が、開かれた形でかつ率直に討議されており、印象的な進取性の数々が、この畏怖すべき国を前進させているのだ! 私が最近のレポートで書いたように、南アフリカにおいて、アフリカ大陸が立ち上がっている!


エリトリア、イラン、朝鮮は、西側の経済封鎖と凶悪に立ち向かっている。彼らを略奪し屈辱を与えてきたのと同じ諸国による命令なしに、自分自身の道を進むための自由を主張するために激しく働いている。


そしてロシア、親西側のパペットであったボリス・エリツィンの怪物的政府の時代、一度はその膝を屈していた強国ロシアは、今は自身の座にたち戻り、世界各地の多くの進歩的諸国の側に立つようになっている。キューバへの莫大な、何十億ドルもの債務を放棄して、ベネズエラ、ブラジル、そして他の左派的諸国と力強い同盟を組織するだけでなく、ついには中国との大同盟も築きつつある。


世界はかつてない現実の飛躍に近づいているのである――真の自由に。


***


しかし、西側左翼の多くは、これが人類にとって大いなる好機であると認識することを拒否している。


なぜなら、自分たちが取り残されている、自身の領分におけるとてつもない敗北によって面目を失なっていると感じているからである。


なぜなら、あらゆるレトリックと「政治的正しさ」にもかかわらず、そのメンバーの多くが実際にはショーヴィニストであり、人種主義者ですらあるからである。そして中国の、ロシアの、アフリカの、ラテンアメリカの思想家たちは実際、そのことに気づいている。


西側左翼の認識では、革命――真正かつ純粋な革命――は常にヨーロッパか北アメリカからもたらさなければならないものである。哀れなアジア、ラテンアメリカ、アフリカの人々を解放しなければならないのは西側なのである。


中国革命は「不純」である。それでは誰が考慮しているのだろう。かの国の多数派、何億もの人々が、今では健康的で滋養のある食事ができ、質の高いサーヴィスを伴ったよい住宅に住み、モダンな移動手段で旅行し、非常に良質の教育をうけるようになっていることを? 誰が考慮しているのだろう? 西側左翼の尊師たち〔gurus〕のほとんどによれば、それは「真の共産主義ではない」のであり、うち何人かによれば、社会主義ですらないのだ!


こうした物事を「社会主義」ないしは「共産主義」であるかどうかを定義できるのは西側思想家だけで、アジアのそれではなく、よって「中国型社会主義」は彼らにとって無である。それは単なるポーズ、見せかけである。


何年か前、私はベネズエラを、ある非常に著名な西側知識人とともに旅した。この人物はボリビア共和国で行われている出来事についてレポートしており、それはとてもよくできたものだったと私も認めなくてはならない。ある晩、ビールを何杯か傾けた後、私たちは中国について話し始めた。


「私は中国が嫌いです」と彼女は言った。「中国人は信用しません」。


私は彼女に、中華人民共和国の各地を旅したことで、非常に好印象を受けるとともに、中国が非常に成功した社会主義国であり、共産主義国とすら言えると確信したと語った。彼女は私に、熱烈に反駁し始めた。私は彼女に中国を訪ねたことがあるかどうかを尋ねた。


彼女は、声を上げてはっきり返答した。「私はそこには絶対行かない! 私はその地が嫌いで人々も嫌いなのです」。


彼女の態度は私の印象に残った。少なくとも彼女は乱暴だが正直であり、すべてを開け広げにしていたからである。中国人に対する人種主義は、西側の「進歩的」サークルにおいてはほとんど放たれることはない。その中に存在しているのは偏見にまみれた一連の「分析」である。しかしそうしたものが認められることは決してない。すべては「客観的批判」によって覆い隠されている。


その「分析」は、「西側の我々と同じように、すべての中国人が自分の車やテレビ・セットを持つようになったら、地球に何が起きるか想像できるかい?」という言葉に始まり、「中国人は我々と同じくらい乱暴であり、同じ帝国主義的傾向を持っている」という言葉に終わるものである。


中産階級的な社会主義国家〔a middle-class socialist society〕への中国の変貌は、明らかな奇跡(それは中央計画の優越性と、そのシステムの一般的な利点の実際の証明として、むしろ奇跡以上のもの)であり、ここ100年に地球で起こった唯一の大成功かもしれないものである。一方で、西側左翼は、起こっていることが実際には純粋ではないこと、真に共産主義的ではないこと、そして多くの点においてまったくの災いであることについて、何かしらブツブツ呟いている。


なぜなら彼らの観点によれば、西側でデザインされ実地されているものしか信頼にあたしないからである。彼らは決してそうは言わないだろう、しかし今やこのことは明白だ! 中国、南アフリカ、ベネズエラの偉大な非西洋社会に、そうした軽蔑が向けられている! 悪意ある皮肉だ。何らの支援も欠いたこうした国々が、自国の人々を真に気遣おうとしているのだが!


ほとんどの西側知識人にとって、10億もの人間の生活が快適かつ尊厳に満ちたものになることは、何も意味していない! なぜなら彼らにとって中国人は、個々人としてであれ集団としてであれ、何も意味していないからである。


中国の諸都市に設けられた広大な公園と緑地帯について、誇りと勇気をもって語る代わりに、延々と繰り返されることと言えば、北京の大気汚染についてか、いくつかの「胡同〔フートン〕」――何十もの家庭が一つの穴に排泄をしているような、不潔さと不衛生のたまり場――の取り壊しについてばかりである。つまり、西側の目にとって良いものとは――貧しい人々のあふれた「古き」中国の、ステレオタイプで典型的なものなのだ。その一方で、あらゆる近代設備を兼ね備え、誇らしく、モダンで、かの国の各所において標準となっている上質の高層住宅は、西側にとっては「退屈」であるだけでなく、煩わしくすらある。そして中国人が電話や、上質の衣服や、車すら欲しがっているという事実は、「商業主義」の証拠と見なされ、もはや中国が社会主義国家でないという主張に使われるのである! なぜなら西側左翼は、自分たちが海辺に別荘を所有することには何ら反対していないのに、非西側世界に住んでいる人々は純粋で貧しくなくてはならず、もし彼らがマルクス主義者と呼ばれたいのなら、一種のモルモットのように機能していなければならないからである。


同志はいない! まったくクソだらけだ! そして今や、こうした非西洋の人々のことを本当に考慮しているのが誰なのかは明らかである。


社会主義、もしくは非教条的な共産主義の目標は単純で明快だ――よりよい生活を人民に。より良き都市と農村を、恐怖を軽くし、より高い文化を、教育を、尊厳を、そしてより喜びを!


そしてそうした目標に、南アフリカ、ベネズエラやその他の社会主義国家のように、中国も達しつつあるのは明らかではないか!


(後編へ続く)




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