神の風

私の通っていた高校は男子校で「文科系」の部活が少なく、たとえば演劇部などという洒落たものもなかった。しかしわたしが2年生になった事だろうか、突如それが発足することになった。Aという教師が「演劇部つくるぞ、お前たちついてこい」とぶち上げたのである。学生の方からそういうものが欲しいという要求があったのではない。A氏は多くの教師仲間から「指導力」および「知的能力」の不足がささやかれており、そのような評価を(特に校長から)払拭するための発案だと、別の教師からは聞いた。もっとも「演劇部」というアイディアそのものは生徒に新鮮だったため、「一丁演劇でもやってみるか」と入部した生徒もいるにはいたが、それだけでは頭数が足りなかったため、A氏は自身のクラスから人間を無理やり徴募した。幸いにしてA氏のクラスにいなかったわたしと友人連中は冷ややかにこの動きを見ていたのだが、これが笑ってもいられない事態となった。まんまとA氏の目論見に校長が引っ掛かったらしく、彼らの体育館での初舞台をわたしたちの学年全員で見る事になったのである。この芝居に匹敵する代物を、私は生涯見る事はないであろう。志願組は実に生き生きとはしていたが、あいにくみんな大根。徴募組は当然ながら、やる気もなくダラダラ。学生時代に舞台をやっていたというだけで演出経験はゼロのA氏が、パイプ椅子の客席前方に「世界のニナガワ」よろしく鎮座する背後で、わたしたちは居眠りしたり失笑したり飛んで来る蚊をつぶしたりで、苦痛とともにただ時が過ぎるのを待つのであった。


前置きが長くなったが、この時の演目は『ウインズ・オブ・ゴッド』であった。「現代」の売れない若手漫才師の二人が、交通事故をきっかけにタイムスリップし、昭和20年8月初頭の時点の特攻兵に転生してしまうという話であるが、先日わたしはその映画版(奈良橋陽子監督)をDVDで見る機会を得た。原作を書いた、自衛隊勤務の経験を持つ俳優・今井雅之が自ら主演を演じている。流石に出演者の演技はわたしが見させられた舞台よりうまいが、まあこれは当たり前であろう。舞台での演出(プロの)を流用したと思しきオープニングは悪くない。また、二人が初めてプロペラ機で自由に空を飛び、訓練や実戦とは関係なく子供のように飛行の喜びを味わうシーンも、映画でしか表現出来ないものであろう。映画内での「現代」は公開当時の1993年で、「PKO」がキーワードになっており、もはや自衛隊の海外での活動そのものは少なくとも「公的空間」では問題にならなくなっている現在と比べると、「隔世の感」という言葉では済まないものがある。ちょっと前にこの作品がテレビドラマになったものは見逃してしまったのだが、この辺りはどう演出していたのであろうか。


ところで諸君は、この『ウインズ・オブ・ゴッド』以外にも、戦争の経験のない「現代」の青年が、何らかの形で過去の特攻隊員になりかわるという筋の、小説やマンガを見た覚えがないだろうか。それぞれの青春を有するが今は死へ向かわねばならない若き特攻兵たちに、「現代」の感覚を持った主人公たちがそれをそのままをぶつけるものの、逆に彼らとの対話を通じて自分の価値観を逆に問い直される――この手の話では、そんな展開が必ず起こる。別にどれが本家でどれが分家だという話をしたいわけではない。ふとわたしが思ったのは、そのような作品において、何故主人公は戦局が絶望的になりにっちもさっちもいかなくなった大日本帝国の特攻兵にばかり転生するのか、ということである(注1)。「特攻」というのは、満州事変の勃発から太平洋戦争の敗北までのいわゆる「十五年戦争」の軍事政策の帰結であり、窮極的には明治以来の富国強兵政策が到着したすべての帰結ではあるわけだが、これが15年に渡る戦争総体を象徴した現象とは言い難いし、そこから「我々」のたどった歴史的経緯の性格を読み取る事は不可能である。というのは、特攻の組織化が決定されたのは1944年10月で、それが強大なアメリカ海軍相手に展開された期間は一年足らずに過ぎない。しかし、この外敵(「皇軍」そのものを含めた、日本に属する抑圧装置ではなく)の圧倒性が強調される事で、主人公たちが素朴に「何故こんな戦争が!」とたびたび憤慨するにもかかわらず、個人ないし青春の死を迫る「極限情況」が、人災というよりは宿命のように見えてしまうのである(注2)。これで、未来から来た主人公も過去の特攻隊員も「悲劇」の主人公となる。一方で、アメリカとの開戦に至る10年もの間、またアメリカとの交戦中もずっと日本が戦ってきたのは中国(さらには朝鮮のパルチザン)であった事実が抜けてしまう。「特攻」という設定自体が、物語内の登場人物だけでなく、物語の受け手の思考力をも著しく拘束するとも言えよう。


一度「我々」は、過去の戦争がどのようなものであったかという事を真に考えるために、特攻兵ではないものに転生する必要がある。例えば、物語の主人公が満州事変の始まった時点の中年男性に転生し、そこから1945年の最終局面へと向かう時間の流れの中を過ごすなら、そこで彼は市民生活のすべてがグロテスクに変貌していく過程を見るだろう。あるいは、主人公が日中戦線の陸軍兵に転生すれば、行く地行く地で殺戮と略奪を繰り広げる加害の主体として現れるだろう(注3)。上記のような特攻の物語から「我々」が「戦争反対」を導き出す場合、その内実は「日本人が死ぬ戦争に反対」「日本人の財産を破壊する戦争に反対」のレヴェルにとどまりがちなのではなかろうか。もしそうだとすれば、今度自民党なり民主党なりの政府によって外国との変事が起こされた時(現在その対象となる可能性が一番高いのが朝鮮なのは、誰の目にも明らかである)、「戦争反対」を貫徹できる人は、約70年前と同じくやはり少数派になるだろう。当局の恐るべき政治的弾圧がなくても、である。今度はこちらがかつてのアメリカの立場になるから特攻は生まれようもないし、核ミサイルのような裏技を相手方が活用でもしないかぎり、ほぼその戦争には100パーセント勝てるのだから(注4)。「北朝鮮人の人権擁護」という大義名分も活用可能か。すると、現在の「戦争反対」に必要なのは、特攻の記憶という部分的な認識を超えた、かつての戦争における史実に対する総合的な批判意識ではないか。






(注1):ここでは考察しないが、男性主人公が男性兵士に転生する事で「戦争」を考えさせられるという図式そのものには、大いにジェンダー的な問題が含まれている事には留意すべきである。


(注2):『ウインズ・オブ・ゴッド』の終盤で、はじめて主人公は特攻命令を下す小隊長(六平直政)に猛然と特攻作戦への怒りを噴出させるが、この小隊長もしょせん末端の人間に過ぎないし、彼自身も部下をむげに殺すのが忍びなく自ら特攻に赴こうとすら考える人物として描かれている。彼の怒りは袋小路に陥ってしまうのだが、実のところ彼らに圧し掛かる政策を実行する「暗黒の権力」は、「ちゃんと名前も住所も顔を持っている」(ブレヒト)はずだ。


(注3):改めて考えると、この時期の日本には抑圧的な権力に対するプロテストないしレジスタンスの層があまりにも薄かった。個人的なものもさりながら、組織的なものは皆無である。かつて「我々」が「日本」に対してほとんど主体的に戦わずして敗れたという事実を反省するよりは、美しい青春を運命的に失ったという自己慰安的イメージを自ら受容するために、「特攻」のイメージが活用されているのかも知れない。



(注4):「相手が核ミサイルを使っても勝ちそう」という声もあったが、あちらの核ミサイルが本土命中、あるいは普通のミサイルでもこちらの原発に炸裂すれば、たとえ平壌で金正日を縛り首にしても「勝った」と言えるのかどうかは微妙であると思ったので、このままにしておく。


[※文意の曖昧な部分を一部修正、および注4を追加した(2009年9月13日)]




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