二つの岩波茂雄伝

安倍能成『岩波茂雄傳』と小林勇『惜礫荘主人』はともに、岩波書店の創業者・岩波茂雄についての代表的伝記として知られている。内容的にはずいぶん重複している所があるが、文章としては後者のほうが読んでいて面白い。第一高等学校以来の友人だった安倍による伝記は、岩波の生誕から死去までの個人的・社会的事績がみっちり書いてあるものの、それだけにしばしば冗長な部分がある。一方、店番から頭角を現して岩波の娘婿となり、最後は会長にまで出世する小林の記述は、彼が入社した1920年以降の時期に限られるが、描写は簡潔でより生き生きしているように思われる(注1)。


小林特有の話題としては、「唯一の取引銀行である第一銀行に五万余円の預金しかなく借金は三十一万余円」(1929年)、「負債十万に達し株式会社に改組するという流言が飛んだ」(1935年)といった経営状況の推移に関する回想が目につく。また、初期の岩波書店にあった昔ながらの丁稚制度についての語りも面白い。これ自体への言及は安倍の本にも出てくるが、被雇用者の立場を実経験している小林の証言からは、岩波書店を含めた出版界全体が円本ブームで拡大していく前の、現在から見ればずいぶんのんびりした感じが伝わってくる。忘年会の席で社員たちに「先生」とは呼ぶなとフランクさを示した岩波に対し、酒の入った未成年の丁稚たちから「それでは旦那様だ」「親分だ」しまいには「はげだ」と好き勝手に返されたというエピソードは、ほとんど落語の世界でありほほえましい。


ところで、この二書がわたしにとって一番興味深いのは、西洋の高級文化を紹介した(今もしている)、「リベラル」な出版社の創業者が、精神的にはある種の「アジア主義」と大きく共鳴していた事実に関する記述であった。岩波茂雄にとって、植民地の朝鮮や中国へ常に同情的関心を示したことや、1932年の時点ではかなりの危険を伴った『日本資本主義発達史講座』の出版を引き受けたことは、たとえば原敬の暗殺事件を一種の「義挙」として捉えることと、必ずしも矛盾していなかったようだ。暗殺という行為を岩波が否定しなかったという話は、どちらの本にも出てくる。安倍は岩波の政友会嫌いを原因に挙げているが、小林が岩波と交わしたという会話からは問題がそこにはとどまらないことがうかがえる。一緒に銭湯へ行った後に入った洋食屋で、小林が原を刺殺した中岡少年と同年齢であると聞いた岩波は「君には到底こんなえらいことはできないだろう」と言い、「私はたとえ世の中のためになると思っても、人は殺さない」と小林が反論すると、「先生は面白そうに笑った」そうである。二書でもう一つ目についたこととして挙げたいのは、太平洋戦争期の岩波が国家へ飛行機を献納するとともに、民間右翼の最長老であった頭山満を賛美していたことである。岩波の右翼嫌いと頭山賛美の矛盾について、より厳しく批評したのは安倍のほうであった。「一たい岩波は頭山がこの事變に對して何を志し何を為したか、を知つて居たのであらうか」とした上で、「翌一七年の初夏頭山の米壽の祝宴には、頭山が大井憲太郎や中江篤助(兆民)の如き自由主義者と親善だつたことを、恰も岩波の左右相會して圓卓會議をやれ、といふ主張にかなふものであるかの如くに速斷して、頭山を「左右両翼を超越して天地の大義に生きる國賓的存在」とまで賛美して居るのは首肯しがたい」〔強調は筆者〕と安倍が喝破したのは、彼が保守的自由主義者としての筋を通していることを超え、現在の日本でも見られる何かしらの思想の惑乱について語っているようでもある。1945年3月、岩波は政局に直接介入しようと貴族院の補欠選挙に出馬するが、日本敗戦は時間の問題という状況においていまさらという感は否めない。なお、かつて「岩波講座」に協力し編集にたずさわった林達夫は、この岩波の行動を「ナンセンス」と一蹴し、「日頃のラヂカルな政治論と矛盾も甚しいし、例の支那問題の所見にしたって支那事変以来氏のやって来たことは完全な支那工作へのサボタージュにすぎないと思ひます」と、彼の「親中」のあり方そのものをこき下ろしている(注2)。


諸君も、いわゆる「言論の自由」の観点から見て、特に暗殺ウンヌンの件は物騒極まりない言い草だと思われるだろうが、これは必ずしも岩波個人の酷薄さや好戦性から出たのではないだろう。わたしが見るに彼の中には、高い徳性を持ち目下のものも含めて広く周囲に仁愛を施していく「東洋の大人」的とでもいうべき理想像があり、それに自分を近づけることに努めていたのは明らかである。この辺りは、旧制高校の文化であるとともに、安倍をはじめとする岩波と交わりの深い研究者が紹介した種のドイツ系哲学(特に倫理に力点を置いた)とも入り混じっていよう。ともあれ、彼の「リベラル精神」と言われているものは、「器の大きさ」とも言い換えられそうだ。後者は出版社の主人としては明らかにプラスの役割を果たした(そうでなければ今日の岩波書店もない)ものの、それは「言論の自由」をはじめとする各種の「権利」への自覚を深め擁護することと直接にはつながりを持たない。対米戦争の頃の岩波書店は、右翼に対する一種の防波堤ないしはカムフラージュとして「五カ条の御誓文」を掲げていたそうだが、明治日本における権利は結局のところ、偉大な君主である(ことになっている)天皇の政府に源を発するものであった。つまり「温情」としての権利である。関東大震災の際に朝鮮人を気遣い、朴烈事件の際も被告を擁護した彼の「アジア主義」にも、このような「温情」の要素が多分にあったように思う。西洋が東洋をすべて飲み込もうとしているという問題設定から、「西洋を学び西洋に伍する」という意識が生まれるわけだが、そこには「西洋に伍することが出来るのは日本だけである」ないしは「東洋諸国を導くのは日本だけである」という大前提への疑いがない。彼のアジアへの温情の感覚は、帝国主義的価値観にこそ横滑りはしなかったが、それと共存しえるものであった。対中戦争には疑問の強かった岩波も、対米戦争にはむしろ肯定的であったのは、この辺りに由来しよう。


「古きよき」丁稚制度を終わらせた、書店始まって以来のストライキ(1928年)も、彼の「温情」を考えるヒントとなろう。岩波および当時の幹部は、社員たちにこれほど眼をかけていたのにと、「権利としてのストライキ」が起こったこと自体に納得がいかなかったようである。安倍はこのストライキについて、左翼勢力が指導していたのではないかと推測しているが、当事者の小林はそれを否定している。当事者といっても、彼はストライキを打つ仲間には入れてもらえず、むしろ労働者意識がなく社長と仲のいい不埒な輩として糾弾対象となっていたのだが。後年の彼の解釈においては、この労働争議の発生は岩波書店が近代的出版社になる過程の一環であり、丁稚制度もまた確実になくならなければならないものだった。小林は事件の結果、しばらく岩波書店を離れて、6年間に渡って自身の零細出版社「鐡塔書院」(注3)を運営することになったが、そこでよりラディカルないしは左翼的な人士と付き合いを深めるうちに、その辺りに気づいたのかもしれない(注4)。


敗戦後まもなく岩波が世を去り、小林が会社の運営を担うようになると、岩波の出版物全体の論調は『世界』を統括した吉野源三郎らのリードにより、安倍のような戦前の岩波の枠を超えて大きく「左」にシフトする。この時の「左」の内実は、今から見れば粗雑な部分が少なからずあったかも知れない。しかしそれは、創業者が志向していた種の「リベラル」および「アジア主義」の精神が戦争で事実上破産したことを乗り越えるために、この出版社にとっては新しく展開されなければならない活動でもあったのである。





(注1):安倍能成『岩波茂雄傳』(岩波書店、1957年)、小林勇『惜礫荘主人』(岩波書店、1963年)。ただし、後者に関しては『小林勇文集』第3巻(筑摩書房、1983年)の版で読んだ。


(注2):谷川徹三宛の書簡より。『林達夫著作集 別刊Ⅰ:書簡』(平凡社、1987年)。


(注3):まったくの余談だが、このいかにも当時の左派出版社らしく聞こえる社名は、小林の敬愛する幸田露伴がつけたという。しばしば東洋性を指摘される露伴だが、彼の「五重塔」は鉄骨製だったのかもしれない。


(注4):ただし現在の出版・新聞界の状況からすると、丁稚制度とは別に、中卒または高卒の人間を一定以上の割合で編集者ないしジャーナリストとして採用するシステムは必要だろう。現在この分野は、いわゆる「一流大」卒の人間を最も集中的に集めているはずだが、それにもかかわらず本屋やキヨスクの棚の中身は諸君もご存じの通りである。そもそも、「業界」が企画や報道の透明性なり個性なりを本気で高めたいのなら、それこそ自分たちの構成要素を多種多様にしなければならないのではないか。



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引用(5)

政治家と西洋諸国に従う新聞によって「移民問題」(フランスでは、この表現はル・ペンに由来する)と呼ばれるものが、すべての関係諸国で、国家政策の根本的な与件となったのはなぜか。というのも、来仏しそこで生活して働くすべての外国人たちの存在が、「市場とインターナショナルな共同体」が実現する世界の民主主義的統一、というテーゼの完全な誤りの証明だからだ。もしもこのテーゼが真実だとすると、われわれはこれらの「外国人たち」を、われわれと同じ世界の住人として受け入れなければならないだろう。われわれは、別の地方から来てあなた方の村で休息をとり、そこで仕事を見つけ居住する人々が扱われるのと同じように、彼らを扱わなければならないだろう。だが、これは実際に生じていることではまったくない。政府の政策が絶えず強化しようとして最も普及した信念は、「これらの人々は別の世界から来た」ということだ。そこに問題がある。彼らは、支配力を持つ資本主義秩序の支持者にとっても、われわれの先進民主主義世界が、人間の唯一の世界ではない、ということを証明する生きた証しなのだ。わが国には、それぞれが同じようにフランスで生活し、働いているにもかかわらず、それでも別の世界から来た者と見なされている人々がいる。お金はどこでも同じだ。ドルやユーロはどこでも同じだ。外国人が持っているドルやユーロを、すべての者が喜んで受け取っている。にもかかわらず、人格、出自、生活の仕方によって、彼、彼女はわれわれの世界に属していない、とわれわれに言わせようとするものがいる。国家当局とその下僕たちが、外国人を管理し、滞在禁止を押しつけ、民族衣装、その着用の仕方、家族的ないし宗教的慣行を情け容赦なく批判している。恐怖に駆り立てられ、この恐怖の中で国家によって組織化された多くの人々は、わが国にどれだけの外国人がいるのか、別の世界からやって来た人々がどれだけいるのか、不安そうに問うことだろう。一万人か? 百万人か? そう考えれば、恐ろしい問題になる。迫害、禁止、全員追放を当然のように準備する問題。状況が違えば、大量殺戮〔エクスターミネーション〕を準備する問題でもある。


もしも世界の統一が事物と貨幣記号による統一だとすれば、民主主義だろうとそうでなかろうと、生きている者にとっては、世界の統一など存在しない。あるのは、貧民窟、壁、絶望的な旅、侮蔑、死である。したがって、こんにちの政治の中心問題は、まさに世界の問題であり、世界のあり方の問題である。


多くの者がこの問題を民主主義の拡大と理解している。世界の正しいあり方を、西洋の民主主義の中で、あるいは日本で存続している世界のあり方を世界中に拡げなければならない。だが、この見方は馬鹿げている。西洋の民主主義世界の絶対的な物質的基盤は、事物と貨幣記号との自由な流通である。その最も根本的な主観的原則は、競争、つまり富の優越と権力の道具を押しつける自由競争である。この原則の運命的な帰結は、富と権力の特権の断固たる防衛によって、またそのために人間〔いきもの〕を分かつことである。




バディウ『サルコジとは誰か? 移民国家フランスの臨界』(榊原達哉訳)



※改行は一行アケにし、ルビ部分は〔〕におさめた。