「あらゆる必要な手段を用いて」行われる便乗商法【追記】

前回の「付記」に記したとおり、『図書』2010年2月号を入手し、荒このみ「マルコムXからオバマへ」を読んだ。結論から先に書くと、彼女の著書に対する見解を修正する必要は一切ないようである。


「オバマの演説の魅力は何なのだろうか。演説するオバマはなぜ魅力的なのだろうか」という自問から、荒氏は2009年におけるオバマ大統領の「歴史的に重要な演説」、すなわち「大統領就任演説」(1月)、「プラハ演説」(4月)、「カイロ演説」(6月)、「東京演説」(11月)を順に取り上げ、基本的に絶賛している。自国民の大国意識をくすぐるだけではない「バランス感覚」がある、非を認めることのできる「誠実さ」、アメリカをアジア・太平洋諸国の一員として印象づける「テクニックは巧み」……ますますもって荒氏はオバマ大統領にぞっこんらしい。


わたしは、オバマ演説を逐語的に読めばこのような評価は決してなしえないと確信しているが、それ以上に不可解なことがある。オバマ演説にこれほど注目している荒氏は、それとアメリカ政府の政策(特に対外方針)との整合性や、展開されている政策自体の是非について、まったく検討していないのだ。大統領就任からはや一年であり、その演説だけで彼を語る時期は過ぎたと言ってよい。かの国の外交=軍事ドクトリン自体がいかに変化したかについて、オバマ氏の「チェンジ」について、具体的なバランス・シートをつくる必要がある。彼女は実のところ、大統領を支持する理由を実際の彼の政策に見つけられていないのではないか? もちろん、いかに大統領が意欲と能力を持っていたとしても、彼が置かれた客観的条件(別にフィデル・カストロのように「それは資本主義そのものである」とまで言う必要もない)を考慮せずに、その行いの限界をあげつらうのは不公平と言える。だが荒氏の文章には、大統領が直面しているそのような障害についての指摘もない。すると荒氏は、オバマ氏がその演説の通りに政策を進めていると本気で考えているのであろうか? 


仮に個人としての「オバマ自身の人格、人生観」がいかに素晴らしかろうと、オバマ大統領の前任者によって破壊され占領者の銃の下で暮らさなければならない、イラクやアフガニスタンといった国々の人間にとっては、彼の「人格、人生観」それ自体はどうでもよい代物ではないか。「我々」にとってすらそうである。たとえば沖縄の米軍基地をなんとしても維持しようと躍起なアメリカ(これは日本の民主党の大方も同じようだが)の方針について、わずかでも考えるならば、大統領のスピリチュアリティのみを賛美することの空虚さは明らかである。荒氏は「共通の人道性〔コモン・ヒューマニティ〕」という言葉を繰り返す「オバマ演説に感動するのは、基本的にこの言葉を大統領自身が信じているからではないか」などと言うのだが、そんなことはない。彼女がその言葉を信じたいだけである。アメリカの実際の政策には一切触れぬままで。そしてこのような演説マニアの信仰が、マルコムXと結びつくことによって、限りなく空想的で支離滅裂な性質を帯びる。スパイク・リーが映画『マルコムX』の終幕において、ネルソン・マンデラに特別出演してもらうことで、映画の主人公と現代(1992年)とのつながりを強調したのとは、あまりにも似て非なる話なのである。


この映画『マルコムX』(何度見直しても素晴らしい!)で、短いものの印象に残っているカットがある。白人女性の学生が、ネイション・オブ・イスラムの導師となったマルコムXに対し、「私のような善良で、偏見を持たない白人に、何かお手伝いできることはないのでしょうか?」と呼びかけるのだが、冷たく「何もない」と返され愕然とする――というものである。監督はこのエピソードで、当時のマルコムXが思想的にまだ未成熟だったことを示していると思われるが(注1)、よく考えてみれば白人女子学生の言葉にも問題はある。この言葉は黒人への彼女なりのシンパシーを示すものとはいえ、本当に彼女が「善良で、偏見を持たない」かどうかを判定すべきなのはマルコムXのほうではないか。言ってみれば、彼のような被差別者には「善意の人間を愕然とさせる権利」が留保されるべきなのである(注2)。


荒氏の『図書』のエッセイは、「今、マルコムXが生きていたら、そして八四歳のマルコムXが、オバマ大統領の演説を聴いたとしたら、どのように反応しただろうか」という一文で締めくくられている。わたしと彼女の出すそれぞれの答えはまったく異なろうが、この問い自体は興味深い。荒氏にならって、わたしも一つ問うてみたい。今、マルコムXが生きていて、そこにオバマ氏の演説(だけ)に目を奪われた「善良で、偏見を持たない日本人」がやってきて、大統領の先達としてのあなたの伝記を書きたいと言ってきたら、彼はどのように反応しただろうか? わたしの予想では、マルコムXはこう答える――君に書いてもらうことなど「何もない」と。





(注1):映画ではカットされているが、『メイキング オブ マルコムX』(東本貢司監修、ビクター音楽産業、1993年)に収録された脚本においては、このエピソードに対応する別のシーンが後に置かれている。ネイション・オブ・イスラムの脱退とメッカ巡礼を経て、すべての白人を敵視すべきではないと考えるようになったマルコムXは、帰国後に別の白人女子学生からほとんど同じような問いを受けるが、今度は「誠実な白人たちに、同志の白人たちを集め、人種差別をしている白人たちに非暴力を教えるように言いなさい」と、丁寧に諭すことになる。


(注2):「善意」を持つ人は、それを及ぼしたいと考えている対象にアプローチを拒絶されることがあるが、その時にどう反応するかが問題なのではないか。「愕然とさせられる」ことには多かれ少なかれ不快感を伴うが、「善意」の質はこういった遭遇によって鍛えられるべきであり、拒絶に学ぶことのない「善意」ならばむしろ不要である。こちらの「善意」をはね返す相手の不寛容なり無能力なりをあげつらったり、大仰に失望したりするのがみっともないのは言うまでもない。ましてや逆ギレは論外である。






[付記:第3段落および注2において、文意の曖昧な部分を一部修正した(2010年3月27日)]




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引用(7)

勝てば官軍なのではない。勝っても賊は賊である。正義の破壊者、人道の敵は、勝っても、何百年繁栄をつづけても、賊であり、敵である。歴史の審判とは、そういうことを言う。


弓削達『歴史家と歴史学』




「あらゆる必要な手段を用いて」行われる便乗商法

最初に言っておくが、バラク・オバマがアメリカの大統領に就任したことは、西欧社会の生み出した達成である自由民主主義が、一つの偉大な約束を果たしたものとして慶賀されなくてはならない。この政治思想の画期的な点の一つは、有産市民階級の一員であり、さらに自身の階級総体の勢力を維持・拡大する指導力を持っているとみなされる人間ならば、誰でも平等に政治の頂点の座へと選出しますよ、と約束した部分にある。「神意」や「血統」などといった封建的かつ不合理な理由づけから、一国の最高指導者をもはや選ぶべきではないという言明は、確かに「歴史の進歩」をもたらすものではないか。ところが、自由民主主義の看板を掲げている諸国は、実際にはこの約束をなかなか果たしてこなかった。「現実の自由民主主義」は、宗教的ないしは「科学的」人種主義的観念をなお操作することで、「肌の色」をはじめとする差別をなお温存し続けた。しかし少なくともアメリカにおいては、ようやく昨年のオバマ大統領の当選によって、200年あまり反故にされていた約束が果たされたのである(注1)。これは確かにめでたい。「我々」が二等市民としてかつて遇した被植民地の人々の子孫から、いまだにほとんどの政治的権利を剥奪し続けているのと比すれば、「肌の色」による奴隷の子孫から、遅まきながらも大統領を選んだアメリカはよほど偉いと言わねばなるまい。この点をわたしは、何度でも強調しよう。しかしながら問題は、この事件がアメリカにとって名誉な話ではあれ、あくまで人類全体の先行きとは何も関係ないところにある。大統領は変わったが、世界各地に自国の兵隊をばらまき「悪の枢軸」を日に影に圧迫するという、かの国の外交=軍事ドクトリン自体についてはどこまで変わったと言えるか。諸君の中には、フィデル・カストロとまったく同じ感想を抱いた向きも少なからずいるだろう。すなわち「米国では今後、オバマよりひどい大統領が出てくるにちがいない。だから、オバマの批判をしなければならないのは残念なことである」(注2)。


ところでわたしは最近、荒このみ『マルコムX――人権への闘い』(岩波新書、2009年)を読んだのだが、何とも奇妙な気分にさせられた。わたしのマルコムXについての知識といえば、スパイク・リーの伝記映画と何冊かの本によるものでしかないが(注3)、そんな自分にもこの著者の見解は奇妙なものに感じられたのである。かのアメリカ黒人の歴史的リーダーと大統領が、密接に結びつくと主張されているのであるから。オバマ氏の名前を、マルコムXについて語るためのいわゆる「まくら」として出すのみならず、終章においても「二一世紀を代表してその影響をもっとも受けた」アフリカ系アメリカ人として彼が推されるのである。この章の最後の三つの小見出しに至っては「オバマの心に響いたマルコムXの言葉」「オバマの複眼的思考」「地球市民の連帯を望むマルコムXとオバマ」などと題され、何かしら彼岸的な雰囲気さえ漂っている。これではマルコムXについての本ではなくオバマ氏についての本ではないか。さらに荒氏は「マルコムX→オバマ影響説」を唱えるにあたって、本文中では1995年に出版されたオバマ氏の自伝しか挙げていない(注4)。大統領選にあたってオバマ氏は、かつてそのアメリカ批判を深く尊敬していたという黒人教会のジェレマイア・ライト牧師に対し、極めて否定的な態度に豹変したと聞くが、彼の自伝はその大統領選の10年以上前のものである。「二一世紀を代表してその影響をもっとも受けた」とするには、根拠薄弱と言うほかなかろう。


加えて彼は、12月に行ったノーベル平和賞の受賞記念スピーチにおいて、マルコムXについては何も語っていない。マルコムXのよき競争相手であったマーティン・ルーサー・キング牧師には四度も言及しているのに、である。このスピーチを走り読みした人は「ああ、大統領はキング牧師に敬意を払っているのだなあ」と見るだろう。しかしさらに、このスピーチを走り読みせずよく読みこんだ人は、「ああ、大統領はキング牧師に敬意を払っているだけだなあ」と考えるだろう。「国際問題」の解決を図る際には「私はキング牧師の理想を尊敬しますが、絶対に彼のようには振る舞いませんよ」と言わんばかりに、軍事力の行使を結局完全に肯定しているではないか、と。なお、今年に入って岩波新書からは、別の編者による『オバマ演説集』という本も出ているのだが、それを読んだ方からの報告によれば、収録されているすべての演説を調べても「マルコムX」の名前は一度も出てきていないそうである(注5)。


荒氏はマルコムXの「精神的遺産」として、アメリカの大学制度において「ブラック・スタディーズ」のような分野が完全に定着したことを挙げる一方で、彼を継承することを掲げたブラック・パンサーのような強く自律的な(時に武闘的な――この側面が当局のネガティヴ・キャンペーンに利用されたのは事実にせよ)「運動的遺産」そのものは、むしろ解体されてきたことについては分析していない。この「運動的遺産」への視点の薄さは、「不器用な男」「いかにもナイーヴ」「組織の運営は不得手」といった言葉による、マルコムXへの評価と呼応している。自分の主人公を集団的な「政治」に汚れていない聖人的人物として強調したいのであろうが、いかにも情緒過多な表現ではある。著者の図式ではマルコムXとオバマ大統領が等号に結ばれている以上、後者もまた聖人的ということになる!


マルコムXは、かつて彼がスポークス・パーソンを務めていた「ネイション・オブ・イスラム」に代わる、黒人団体の設立を模索する中で暗殺された。この暗殺には、何らかの形で「ネイション・オブ・イスラム」も関わったと見られており、荒氏も同組織の現在の指導者であるルイス・ファラカンには露骨に不審の目を向けている。しかしこの事実をもって、マルコムXをとりたてて「非政治的人間」として描く必要もないのではないか。彼が自身の運動について「古典的」な意味での組織化を否定したわけではないからである。後にキングもまた、マルコムXの死によって行きどころを失った急進層と自分の従来の支持母体である穏健層を、統合するための運動体を形成しようとした矢先で暗殺された。両者の暗殺は、カリスマ的リーダーを黒人から奪ったのみならず、かつてない規模での自律した黒人運動が創造される可能性を奪ったということではないか。その結果にもかかわらず、オバマ大統領が出現したのは一体何故なのか?――そういう風に設問を立てるべきであろう。


もう一つわたしに、マルコムXとオバマ大統領の間の決定的な違いについて考えさせるのは、両者の植民地主義への認識である。晩年のマルコムXは、アフリカや中東の旅行中における講演で、アメリカ黒人の問題を、アフリカにおける脱植民地化と関連させて捉える視野を示している。彼は明白に、同時代のアフリカ諸国の独立運動の高揚と共鳴しながら、新たな思想的展開を進めていた。ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ大統領がアメリカの若者を第三世界に文化使節として送り出した「平和部隊」に対して、アフリカ諸国の若者とともに「奴隷化」の意図を見出し、世界中に散らばる「ブラック・マン」の連帯を訴えたのはその一例である。このような事実について記していながら荒氏は、それが現在のオバマ大統領とどれだけ離れた営為なのか、まったく分かっていないようだ。残念ながら、マルコムXが期待をかけた当時のアフリカ諸国は、現在さまざまな原因により苦境に沈んでいる。しかし彼はオバマ大統領と異なり、それらの国々を「失敗国家」などという言葉で罵倒することはないであろうし(むしろ自身の人種問題を解決出来ないアメリカを「失敗国家」であると喝破したのである!)、自国が彼らに軍事介入し利権を確保する権利に執着することもないであろう。荒氏は、晩年のマルコムXが「人権」を運動戦略のキーワードにしたことと、オバマ大統領の「人権」外交にも等号を引きたいようであるが、大統領に話を転じると植民地主義の話は煙のように消えてしまう。そもそも「人権」を隠れ蓑にした外交=軍事ドクトリン自体は、少なくともここ数代のアメリカ大統領が持ち続けているものではないのか。マルコムXの「人権」論とは、そのような射程に基づくものなのか。


この新書の帯には「オバマに影響を与えた言葉の魅力を探る」とあるが、マルコムXであれキングであれ、彼らが現大統領に何らかの影響を与えたと主張するのは、先人に対する侮辱ですらある。これは単なる「黒人つながり」に基づく便乗商法ではないか。オバマ氏の大統領当選をマルコムXの理想の実現として描くのは、悪質な詐術に過ぎない。オバマ大統領の誕生にもかかわらず「いかにマルコムXの理想が実現していないのか」こそが書かれねばならなかったのだ。





(注1):ところで余談だが、自由民主主義に比べると、社会主義がなした約束の数はずいぶんと多く対象も広い。たとえば高度な教育や医療サーヴィスの無償化、労働の短時間化・低強度化をはじめとする各種福利を、生産手段を私有化しないすべての人間に惜しみなく解放するという発想は、社会主義者の突き上げを食う以前の自由民主主義者にはまったくなかった。むしろ社会主義の問題は、約束のしすぎにあると思われる。上記のようなもろもろの大事業を整備しつつ、その有力な調整機関たりうる国家の「廃絶」まで謳っているのだから、これはどう考えても矛盾なしに済む話ではない。実際、20年ほど前まで東欧諸国に存在した「現実の社会主義」においては、こういった約束がほとんど守られないことに対して住民が業を煮やし、ついには社会主義の看板を政治指導者たちに投げつけたのである。だが、社会主義を掲げた国家がはじめて地球上に現われてまだ100年もたっていない一方、「現実の自由民主主義」は黒人大統領の誕生ひとつに200年以上もの時を必要とした。とすると、社会主義のあまたの約束に対して、別段その看板の下に暮らしているわけでもない「我々」は、あと200年ばかり猶予を与えてしかるべきということになるのではなかろうか? 


(注2):フィデル・カストロ「空想科学物語」(木田誠也訳、『社会評論』第160号、スペース伽耶、2009年)。「子ども時代、侮辱と人種差別に耐えねばならなかった、聡明で反骨精神あふれるオバマはそのこと〔現在の経済危機以前に、資本主義総体が維持し難いものであること――引用者〕を知っている。しかし、高等教育を受け、自分を合衆国大統領へと押し上げた体制とその手法に組み込まれたオバマは、他者を威圧し、脅迫し、欺けばよいという誘惑を払拭できずにいるのだ」。


(注3):黒人作家アレックス・ヘイリーの介在によってなされた『マルコムX自伝』上下巻(浜本武雄訳、中公文庫、2003年)は、読み物として最大限に面白い上に、20世紀に生きた人間の伝記の中でも、最も知的啓発に富む作品の一つであることは間違いない。ただし、「我々」がアメリカにおける白人と黒人の関係を他人事として賞味して終わりとしないためには、たとえば金九の自伝『白凡逸史』(梶村秀樹訳、平凡社東洋文庫、1973年)も併せて読まれるべきであろう。また、ジェイムズ・コーン『夢か悪夢か・キング牧師とマルコムX』(梶原寿訳、1996年、日本基督教団出版局)は本文だけで二段組み400頁超を有する大著だが、先鋭的な黒人キリスト教学の立場から、全く相対すると考えられがちな二人の歴史的黒人指導者の相互補完的要素を、豊富なエピソードをもとに位置づけており興味深い。


(注4):そもそも荒氏によるこの自伝の引用部分を見る限り、オバマ氏がマルコムXを肯定する理由にも注意しなければならない。すなわちマルコムXは、アメリカに見切りをつけて外国に移住したり国内で隠遁したりする、他の黒人知識人とは違っていたと考えられたゆえに評価されている。つまり、マルコムXは「アメリカの国民」であろうとしたゆえによい、というわけである。


(注5):自分で目を通していないまま語っていて申し訳ないが、「マルコムXの名前を一つ見つけるごとに百円を進呈する」という約束で読んでもらった結果である。





[付記:ここまで書き終わって、岩波書店のPR誌『図書』2010年2月号に、荒氏による「マルコムXからオバマへ」なる一文が掲載されていることを知った。近所の書店をいくつかまわったが、すでに3月号しか置いていなかった。近日中に入手し、本稿に付け加えるべき、ないし誤認を改めるべき点の有無を確認したいと考えている。]


[付記2:『図書』を読んだ。それへの見解については別稿を見られたい(2010年3月18日)]