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もどかしきかな内的葛藤

半年ほど前のことになるが、ある古書店の閉店セールで、中島健蔵『回想の文学』全5巻(平凡社、1977年)を見つけて買い求めた。その頃なんとなく昭和初期の「文壇」について興味があったのとともに、各巻の副題に惹かれたためである。「疾風怒濤の巻」「物情騒然の巻」「猪突猛進の巻」「兵荒馬乱の巻」「雨過天晴の巻」……まるで講談本ではないか。著者については、いわゆる「十五年戦争」後の文芸・社会批評を担った「リベラル」評論家のひとりであるとしか聞き及んでいないものの、こんなサブタイトルをつけるからには、少なくとも教科書的な文学史記述とは違う、破調の読み物として愉快な本に違いない。さもなければ、およばずとは言え著者を含めた往時の「文学者」たちがファシズムの強大化する時勢に対し、「リベラル」なりの戦闘的な抵抗を試みたことを堂々と記したものである――そうてっきり思ったのであった。ところが、黄色くなったビニールの封を破って最近読み始めた「堂々二千五百枚に及ぶ昭和文学とその時代の証言」(第1巻の帯の言葉)は、ずいぶんとわたしの想像とちがったものであった。昭和初年から24年までの期間において、彼がいかに文壇に関わりその活動が時世とどう関わってきたかについて、当時のメモやら日記やらを膨大に差し挟みつつ話が進んでいくのであるが、そこで描かれる彼の研究・文壇生活の語りを読んで、わたしには何とも言えない「もどかしさ」ばかりがつのった。それは作者の筆の進みがいかにも鈍重であるというような、スタイルの問題にのみ起因するものではない。


中島が本格的に時局への危機意識を抱き始めたのは、『回想の文学』の第2巻以降にあたる昭和9年頃からのようである。東京帝国大学のフランス文学の非常勤講師として生計を立てるかたわら、『文学界』の編集を通して「文壇」仲間を増やし、三木清との交友から「昭和研究会」に顔を出し、国際ペンクラブの日本支部設立にも関わる。しかし刻々と日本の状況は悪化し、国際状況も悪化し、あれよあれよと言う間に太平洋戦争が勃発、彼は南方へ徴用される。そんな状況の「文壇」生活というものの有り様はあまりにも呑気、でなければグダグダにしか思えないのである。馴染みのバーやら料理店やらに足を運び、親しい仲間内で不平を言い合ったり、酒をかっくらいクダをまく。これが「文士」というものなら何ともだらしのない連中に見えるし、この中から少なからぬ人間が翼賛体制の機構に飛び込んでいく姿には、べつだんこの時代の文学のほとんどに愛着のないわたしには共感のしようがない。そうした周囲に対し中島自身は(自己引用を見る限り)批判的で、それなりに「誠実」に生きようとしていたように見える。しかしこの公開には「当時の自分を素直にさらけ出している」要素もありつつ、エクスキューズ的な要素が強すぎるのも確かである。


彼は右翼の横暴に鬱屈した怒りを抱きつつも左翼の稚拙さにも閉口してみせ、そこでどちらにも属し得ない自分というものについての内的葛藤を、それこそ何年にもわたって展開する。転向者となった亀井勝一郎が、自分や同世代の人間(太宰治)は左翼運動に対する選択を迫られるという「思想的煩悶」を味わったのだと主張するのに対し、中島は「旧左翼共通の癖だが、左翼運動に直接加わらなかった人には、思想的煩悶などには全く縁がなかったとかんたんに考えてしまう。なぜ左翼運動に加わらなかったかについて、無自覚とか、意識の低さとかで割り切ってしまう結果、左翼エリートとでもいうような気もちがいつまでも残るのであろうか」(1935年の記述/第2巻)と返す。野呂栄太郎や小林多喜二が抹殺され、残りの共産党幹部も次々投獄されている時期の「左翼エリート」とは何ぞやという疑問はさておき、「リベラル」も他者を「無自覚とか、意識の低さとかで割り切ってしまう」ことはあろうし(これはむしろ21世紀的問題であるかも知れない)、さらに中島(と亀井)に感じるのは、誰があなたがたに「思想的煩悶」をしてくれと言ったのかということである。ファシズムを阻止しえなかった政治的責任は共産主義者も分かち合わねばならないという主張は丸山真男のものでもあったが、この主張が一定の真理を含むとすれば別の問題も提起されよう。仮に「左翼」でなくても、労働者市民と比較すれば相対的に独立性を強く有するはずの、大学人や「文壇」の人間――広義の「知識人」と見なしてよかろう――の責任はどうなるか、ということだ。中島の大著には、この点についての理論的分析がない。むしろ「内的葛藤をずっと持っていた私」についての自己語りに流れがちという印象を受ける。


こうして若干『回想の文学』に倦み出したわたしは、気分転換として、それを購入した古本屋をつぶす一原因となった近所のブックオフ支店をのぞきに行ったのだが、そこでちょうど『近代の超克』(冨山房、1979年)を見つけ購入した。1942年の『文学界』に掲載された論文と座談を単行本化したものの復刻だが、改めて眺めるとこの本の登場人物には、中島に最も近しい人物たちが多い。彼が雑誌の同人だったので当然と言えば当然だが、中でも小林秀雄と三好達治は東京帝国大学仏文科の同期生である(注1)。また河上徹太郎と中村光夫も東京帝国大学仏文科の出身である。現在の東京大学フランス語フランス文学研究室は、中島の同僚であり中世文学研究に隠遁することで戦争協力を極力回避した渡辺一夫を、その弟子大江健三郎とともに挙げ、「社会や制度に対する批判的なスタンスを持ち味にして活躍する」研究室の気風を謳っているが、かの時期の小林たちや研究室の内実についてはどう考えているのか聞きたくもなる(注2)。この仏文出身の4人に、少年期からの友人である作曲家・諸井三郎を加えると、彼と共有するところの深かったであろう5人もの人間が、かの悪名高い連載に参加したことになる。この件について『回想の文学』に言及はない。中島は1942年1月からほぼ一年間にわたり、井伏鱒二らとともに陸軍報道班員として徴収され南方を転々としていたので、彼らのウンザリさせられる発言の数々には直接のかかわりはないが、「お前ら何をしとるんだ!」と交際の謝絶はしなかったのだろうか。それとも、これら企画の参加者も中島のように真剣に「思想的煩悶」をしていたのだと、読者はすすんで読み取らなければならないのだろうか? ますますウンザリさせられる話である。


ところで、まさに講談的(注3)と称してよい羽仁五郎の『自伝的戦後史』(講談社、1976年)において、中島は林健太郎や清水幾太郎とともに繰り返し否定的に言及されている。かつては羽仁の友であったものの、すでに保守イデオローグの典型となり果てていた林や清水が攻撃されるのは仕方ないとして、少なくとも中島に対してはとばっちりもいいとこではないかと最初読んだ時には苦笑したのだが、『回想の文学』を全巻読んでその理由がようやく理解出来た。羽仁は、知識人の内部における葛藤やら煩悶やらの存在それ自体は「抵抗」たりえないとみなし、まったく価値を置いていないのである。彼は自身の責務として、諸問題とその解決のカギを、「学問的」かつ「明快」に見つけ出し、普遍的諸価値――羽仁の場合は「人民」――に基礎を置く言説として展開することを何度も明言しており、その過程で国家や社会と対立関係が生じれば「知識階級は牢獄に入ることに意義がある」ことになる。別に当局にホイホイつかまれと言っているのではない。共産党の人間が「獄中十八年」を転向せずに耐え忍べばえらいことではあるが、その経歴だけで政治的機能を果たせるわけではない。しかし、活動家ではない知識人の投獄は、それとはまた異なった社会的意味を持ちうるということである。羽仁は年を経るごとに、論の正確さよりは明快さ=単純さを強調する傾向を強め、その発言はますます大調子の講談になってしまうきらいがあったが、こうした彼の瑕疵は内的葛藤に埋没するタイプの知識人の価値を一銭も高めるものではない。


「抵抗」には基盤が必要である。たとえば資産について言えば、父親を早くに亡くし苦労もあった中島と、生家も婿入り先も裕福であった羽仁とでは大きな差がある。しかし中島は「知識人」であることを自負する人であり、そうあろうとする限り職能への忠誠が問われるのである。彼は、生活の基盤として東京帝国大学の「万年非常勤講師」の椅子を敗戦まで確保し続けたが、容易に当局の網にひっからないように存在し続けたことのみを「抵抗」とするならば、羽仁の言う通り「どこに抵抗と抵抗の回避の区別があるのか」。さらに、彼が社会活動の基盤にしようとした「昭和研究会」、『文学界』、日本ペンクラブなども、ほとんど「抵抗」の集団的組織体とはならなかった。その結果として彼は、ずるずるシンガポールまで引っ張られ、日本軍による華僑の虐殺を知ることになる。むろんこの失敗を中島が理解していないわけではないだろうが、内的に悩める自分自身をひたすら強調することにとどまっている。これが羽仁には、思想的煩悶それ自体に価値を認めて下さいよと泣き言を言わんばかりの文章に見えたのであろう。「芹沢〔光治良〕君も中島健蔵君も、羽仁五郎も、同じ臆病な人間だ。しかし、つかまることだけが問題ではなく、戦争に抵抗するほうが問題だと思っていた人間はいたのだ。なぜ逃げるほうの組に入ったのかということが問題なのだ」。属していたはずのアカデミズムの支援も受けられぬまま自身の研究への弾圧と戦う、津田左右吉や矢内原忠雄といった個人の存在にむしろ勇気づけられた彼は、思想的方向性が本来は異なる彼ら先達への賛辞を惜しまなかった(注4)。羽仁は、心情を軸とした組織化――実際には馴れ合い群れているだけで、「逃げるほうの組」を形成することになる――を求めなかった。


敗戦後に中島の秘書を務めた蘆野徳子の『メタセコイアの光:中島健蔵の像〔かたち〕』(筑摩書房、1986年)によれば、後半生の彼は「肩書きだけで名刺が埋まる」ほど文芸および大衆運動の団体へ加わるが、無償の献身があまりにも多く、逆にそれらの累積する会費が払えなくなるほどであったという。中島は彼なりに(ある意味では羽仁以上に)、自分たちの敗北を痛感した結果、ドン・キホーテ的な滑稽さすら若干漂わせながらも、文学活動と社会活動を結びつけることに奮闘したのであろう。しかし、そうした人物が晩年の回想として、とても「抵抗」を見出し難いかつての諸集団の行動(様式)にまであいまいに「抵抗」の色をつけようとするのには、やはり看過すべからざるものがある(注5)。培地にうごめいているアメーバに「抵抗」を錯覚してはならないのである。





(注1):それにしても小林の名声は謎である。わたしの読む種の本ではなぜか、酒をかっくらっては他人にからむという、迷惑防止条例の対象になるレヴェルでしかない人物としての小林ばかりが登場する。『回想の文学』でも彼のそんな姿が何度も描写されているが、このシリーズの最終巻において中島は、敗戦直前の小林が「「どうしても負けるのかねえ、どうしてももうだめなのかねえ……」/とつぶやいたおろおろ声が、耳に残っている」(改行はスラッシュに直した、引用者)とも書き残している。真実の小林秀雄は、単に無内容かつ小心な人だったのだろう。しかし戦後、ふたたび彼が自己を卓越化する振る舞いを始めると、それと共依存してしまう人々(平野謙や埴谷雄高らに代表される左翼「文壇」の一部も含まれたようである)とあいまって、彼の威光は知識人界全体へと及ぶようになった。小林の没後も、この種の怪奇現象に類するものはたびたび見受けられるようである。


(注2):『回想の文学』第2巻において中島は、以前の著作『昭和時代』(岩波新書、1957年)では書けなかった「つらい記憶」として、二・二六事件の際研究室の教授であった辰野隆が「よくやった! 腐敗した人間どもをよくぞ殺した! もっと殺せばいい!」などと快哉を叫んだという事件に触れている。これには、岩波茂雄が原敬の暗殺の際に示した態度と似たようなものを感じるが、辰野と鈴木信太郎(助教授)との共訳による岩波文庫『シラノ・ド・ベルジュラック』の愛読者としては、やはり当惑させられる記述である。左翼のレヴェルを問題にするのもよいが、中島の言う通り、かつては「度量が広く、リベラリストと認めていた人でさえ、こんな程度の認識であった」ことを「我々」はよく記憶しておくべきはないか。


(注3):羽仁の発言を「講談」と呼ぶのは比喩/揶揄ではない。実際彼は、『ミケルアンヂェロ』(岩波新書、1939年初版)を「新歴史講談」という触れ込みで売り出したかった由の発言もしているし、最晩年には『父が息子に語る歴史講談』(羽仁進との共著、文芸春秋、1983年)というタイトルの対談を出版している。『自伝的戦後史』は『月刊現代』の連載をまとめたものだが、同時期に『心』で連載されていた『回想の文学』に羽仁が目を通しているのは明らかである。


(注4):「知識人」として同時代を生き抜いた人々に対し、戦後の羽仁が送ったオマージュは『羽仁五郎戦後著作集』第3巻(徳間書店、1981年)に詳しい。特にこの点で印象的なのは、河合栄治郎についてのエッセイ「忘れえぬ人 河合栄治郎」(1966年)である。「その人に会った思い出はただ一度」と始まるこの千字足らずの短文には、わずか一回の邂逅からも「ファシズムに反対してともにたたかうものの友情を実感」することが可能であるという羽仁の確信が端的に表れている。もっともこの確信は、しばしば対象への過剰な思い込みとなる場合があったようである。たとえば羽仁の三木清への評価は、ドイツ留学時代の交友および彼の獄死という事実によって極めて高いものの、実際に日中戦争前後からの三木の言説の質が「ファシズムに反対」したものと言えるかについては、大いに議論の余地があるだろう。


(注5):中島の『昭和時代』には、1935年の日記として以下の文章が引かれている。


Tのファッショくさい雑文には閉口していたが、それだけならばいい。つまり一方では平気で帝国万歳を唱え、一方ではきわめて自由主義的なものを書く。そこに彼の自由主義の本質があるのだ。だれだかが、彼はつぎからつぎへと論旨の撞着にかまわずにいろいろなものをよく書く、といっていたのはたしかだ。順調に暮しているディレッタントのくせだろう。自分の心に警戒があれば、あれほど天真爛漫にはなれないはずのものだ。左翼が彼を敵と考えるのは当然だが、真の自由主義者も、彼の中に半分の味方と半分の敵とを感じる。そして、おそらく右翼は、彼を自分たちのなかまとは見ないが、便利な人間、利用できる人間と考えるだろう。自由主義と、右翼くさいものとが、雑居しているならばまだいいが、結婚しているのだからどうにもならない。われわれの年長者の中には、こういうタイプが意外に多い。


この手の連中は現在でもよく見かけられる(増加傾向にある)のだから、1930年代にはさぞ多かったことだろう。しかし「こういうタイプ」の生態を冷ややかに見ていた彼は、一方で彼らの存在と「雑居」することをあえて「抵抗」と思い込む道を進んだのではないか。しかし中島は、『昭和時代』においても『回想の文学』においても、この点についてほとんど考察を突き詰めないのである。





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引用(10)

成功してはいないが、研究する価値ある試みが存在するとしても、研究の殻に閉じこもり、群から脱出しようとすることを理解できない人々には物笑いの種になってしまいます。思想を断言する人間に対して私は絶対怒りませんが、思想を断言する力のない人間に対しては怒ります。


ロッセリーニ、1962年のインタビューより


※アプラ編『ロッセリーニ 私の方法』(西村安弘訳)


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