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葬儀/予測産業再考

もう二ヶ月近く前の話になってしまうが、昨年12月19日の夕方、わたしの住まいから一番近所にある小さい本屋に行くと、顔なじみで年かさの女性店員がレジ机の上に何かを広げていた。「特報!! 金正日死去!!/どうなる!? 日朝関係/どうなる!? 拉致問題!」とゴチック字体でデカデカと書かれた文句が目に入り、どこのスポーツ新聞を読んでいるのかと思って近寄ってよく見ると、それは河出書房新社営業部を発信元とする一枚のファックスであった。今すぐ03-……に注文数を書き入れて返信すると、太田昌国『「拉致」異論』と田中恒夫『図説 朝鮮戦争』が22日には搬入できるので、「時事、政治コーナーでご展開をお願いします!」と熱心に記されていた。


朝鮮の指導者であった金正日総書記が死去していたというニュース自体は、本屋に行く前に立ち寄った先の人から、昼のうちには教えられていた。教えてくれた人が「金正日が亡くなったそうだ」と穏当な表現を用い、「くたばった」とか「バンザイ」とか勇ましく言わなかったのは、とりあえず人物の表れであったと受け取りたいところである。むしろ驚かされたのは、出版社のこうした痙攣的反応である。これまでわたしは、人が死んだ時に仕事が始まるのはまず葬儀屋だと思っていた。もちろん、誰かが死んだという情報を得て自ら営業をかける葬儀屋はいない。彼らは必ず、遺族などから依頼を受けた後でその元へ訪れ、死者についての儀式を補助・代行するわけである。無理に押しかけるようなことはしないどころか、大きく言えば人間社会が営まれる上で確実に必要である重大事業の一つを司る彼らは、まことに尊敬に値する仕事である。しかし実際には彼らは、しばしば「人の不幸を飯の種にしやがって」などと、クライアントなどから見さげられ、理不尽な罵倒を受けることすらある。一方で出版社は、その日の夕陽も暮れないうちからせっせと自社製品のセールスをかけることができるわけである。わたしは本屋の仕事をした経験はないので、この営業ファックスを見てある種の奇妙さを覚えたのだが、店員の方いわく「何らかの有名人は毎日亡くなっているから、どこかしらから嫌でもこういうものが来る」のだそうである。このファックスの後にも、別の出版社の売り込みが続々届いたことと思われるが、もちろん紙を負担するのは本屋の方である。


「時事問題」に出版産業が目敏いこと自体は悪いこととは言えない。かくいうわたしも半年前には、アンジェロ・デル=ボカによるムアマル・カダフィの伝記を探し求めている。しかし数としては、40年をかけて西欧各国で出版されたカダフィ大佐および彼のリビアについての本より、日本一国でここ10年に出された「北朝鮮本」の方がずっと多いのではあるまいか。ブックオフの100円コーナーを見たり、倒産寸前には「北朝鮮本」を毎月のように出していた在りし日の草思社(注1)のことを考えたりすると、そんな想像にかられずにはいられない。ともあれ「我々」にとって、隣国の指導者の死去という事件は、こうした「北朝鮮本」バブルで出た山のような本のうち何がマトモで何が紙屑だったかを、本来再考するよい機会であろう(注2)。かつて「こんなものかな」と思って漫然と眺めた書籍を再読して、「この程度のものだったのか?」と驚くという経験は誰もが持ち合わせていようが、わたしにとっては上記の『「拉致」異論』も例外ではない。かの本は、ある種の日本人の「良心派」に受けたせいか出版社を変え文庫にもなってはいるけれど、2001年以降今も続く猛烈な反動の中で、在日朝鮮人の権利擁護にどれだけ貢献しているのかどうか。多勢に無勢だった、などと言いたいわけではない。著者の立論のあり方に再考が必要ではないかということである。たとえば著者はこの「異論」の中で「親北朝鮮人士」の何人かを槍玉にあげつつ、両国の間の「健全な相互批判」が今までなかったとしているのだが、その一方で朝鮮からの批判は「全体主義国家」の喧伝としてほぼ無視してよいと言わんばかり(つまり日本からの「批判」のみが健全)である。それでいて、在日朝鮮人の生活状況に対して日本人が背負っている歴史的責任についての指摘には非常に乏しい。結果としてこの本は、縮退を続ける言論市場で延々と争われている、見るに堪えない「左翼」の椅子取りゲームに著者一人が勝利すること以上に機能したとは言い難いのではなかろうか。おそらくここには、たとえば高嶋伸欣『拉致問題で歪む日本の民主主義』(スペース伽耶、2006年)あたりには存在した、日本の公的言論人が負う義務への意識――その副題にある「石を投げるなら私に投げよ」といった――が欠けていたのであった。


『「拉致」異論』の空疎もさりながら、かの本を未だに高く評価する「良心派」がいようといまいと、その売り出しファックスが単に在庫一斉セールのために――少なくとも河出書房新社のファックスには「増刷」とは書かれていなかった――発されていようといまいと、相変わらず大手報道産業における朝鮮報道の質は悲惨の極みであり続けている。10年前からほとんど変わっていないメンツが、かの国で「何が起こるかわからない」「何かが起きる」と、有象無象が親切にも四六時中危険予測をしてくれているわけだが、彼らの外れっぱなしの政治的「予測」は、同じ外れっぱなしでも地震の予測などとはまったく質が異なる。当代一流と目される学者たちが地震の予測をしてもなかなか当たらないのは、現代の自然諸科学がなお未熟である証拠であり悲しむべきことであるものの、彼らの中には「一発でかい地震が起こってくれないか」と願っている人はおそらくいまい。ところが、現在の報道産業で起用されている種の論者による「予測」というのは、一種の純粋な「行為遂行的」発言として存在している。すなわち、そこでの「起こる」という言葉は「起こればいい」や「起こらないなら起こしてやるぜ」と置換可能なのである。学術性が皆無なくせに自他を問わない政治的野心や利権とは地続きになっているのだから、連中の「予測」が当たってこなかったのは当然であり、発言者は相応の懲罰を食うべきであろうが、出版界ほど自浄作用のないところもなさそうである。それに、諸君はこれを嘲笑しているだけであってはならない。現代科学では物理的な地震は起こせないが、何らかの事件を針小棒大に扱う、あるいは完全な虚偽情報を大々的に展開することによって、小国に政治的非常事態を起こすことは確かに可能だからである(注3)。それは昨年のリビアで実証されている。カトリックのジョヴァンニ・マルティネッリ師が、「リビアで何が起きているのか」と聞かれ、「それはNATOが起こしていることだ」と答えたという話を以前引用したが、こうした自動詞と他動詞の区別の重要性はいくら強調してもしすぎることはないだろう。恐ろしいのは、当節の「先進国」はどこもかしこも、この区別がつかない「革命ごっこ」マニアだらけであり、戦争遂行勢力も実に彼らを当てにしているということである。


現状では、朝鮮に対し誰か(もちろん日本がその一味として入ってくるだろう)が何かを「起こした」としても、「民主革命」などと名づけられた「我々」に口当たりのいい生クリームを添えて、それが朝鮮で自発的に「起きた」こととして喧伝されていくことが目に見えている。一方、上記した「行為遂行的」朝鮮論者は、その隠微な目的に従って朝鮮の指導者がいかに無能であるかを論じたてているが、そもそも「起こす」ことを狙った世界大のトラップに対しては、国内において指導者の能力やカリスマが抜きんでていようといまいと、国家の安定的存続の保証にはならないことを当の朝鮮(もしくはイランなど)の指導者は理解しているのであろう。ゆえに彼らは、意味のないおしゃべりをせず、さっさと核ミサイルを持とうとするのである。わたしは同じ「行為遂行的」言説でも、朝鮮の「レジーム・チェンジ」を熱望する生臭い訴えではなく、より高邁かつ穏当な日本国憲法第9条のそれを支持するが、後者の「平和主義」とは、第一に自国政府にコトを「起こさせるな」という命令として理解されるべきものであろう。そうではなく、「我々」の「平和主義」が、他国における怪しげな現象を「革命ごっこ」として興じる情緒と連環している限り、核ミサイルを持たんとする朝鮮政府の判断こそが政治的には「合理的」なものとなるだろう。もちろん彼らの判断は、すべての核利用国と同じ程度に、その管理運営の失敗に伴う災厄の巨大さを度外視している点では「非合理的」なのであるが、彼らの非合理性をどうこう言う以前に、「我々」の世界認識にとりわけ影響している種の産業のの愚劣さこそ問題なのである。





(注1):諸君の中にも、かの出版社は『北朝鮮を知りすぎた医者』なんて出す前に、自分の経営状態を知っておけばよかったではないかと思われた向きは少なくないと思う。そこのところを知っていたからこそあの手の本ばかり出していたとも解釈可能ではあるが、それならそれで当時の彼らには、日本社会に果たすことのできる知的貢献は倒産以外何もなかったことになる。しかしこの貢献も、いまや彼らがゾンビとして現世に舞い戻ってきたせいでまったく台無しである。


(注2):「北朝鮮本」バブルの中で出版された和田春樹・高崎宗司編著『北朝鮮本をどう読むか』(明石書店、2003年)は、編著者の「親北朝鮮性」のせいではなく、むしろその政治的微温性によって成功していないが、それなりに知的なアプローチからの「北朝鮮本ミシュラン」という試み自体には価値があったように思われる。


(注3):これはまったくの余談だが、こうした欧米諸国の「人道的介入」に憤慨しながら、日本列島を見舞った近年の自然災害から、アメリカなどが自国に「地震兵器」を活用しているのだという平凡なSF的想像をたくましくしている人を見かけたことがある。しかしこれほど堂々と「人道的介入」がなんの障害もなくまかりとおる世界の状況において、何者かが日本に対して、露骨な軍事介入ではなくわざわざ隠密裏に「地震兵器」を使って壊滅させようとしているという理由が、わたしには今もわからない。「我々」がアフリカの旧植民地諸国より高等な「先進国」だからか? それとも「神国」だからか?





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