新しい岩波茂雄伝?(後編)

こんなことを書いていると、中島氏の立場からは「戦後のパラダイムから岩波を演繹的に見ている」と言われてしまうかもしれない。わたしはただ安倍の認識に賛成しているだけなのだが、敗戦後の岩波書店の基幹雑誌となった『世界』から一線を画していたはずの安倍もまた、「戦後のパラダイム」に従っていると言うのであろう。それでは、アジア・太平洋戦争のさなかにおいて、日本の「リベラル」と呼ばれる知識人は一般的に、岩波のごとく頭山満のような右翼にシンパシーを感じていたのであろうか。ここで思い浮かぶのは、安倍・岩波より少し年下の世代にあたる、批評家の清沢洌〔きよし〕である。『岩波茂雄傳』に彼の名前は登場しないものの、彼の『暗黒日記』(橋川文三編、ちくま学芸文庫版、2002年)には、岩波と時々接触があったことが確認される。わたしはずいぶん昔に『暗黒日記』を読んだ時、著者が一種の「内的葛藤」を日陰でこねくり回している様子に正直ウンザリさせられたし、清沢の同時代認識自体、実は近衛文麿のような重臣連中のそれと大差ないのではないか(彼が戦後まで生き延びたら、緒方竹虎のように有力な自民党系代議士になれたであろう)と思ったものだ。しかし、彼が同時代の御用ジャーナリズムに対して抱いていた批判については、今見ても大いに説得力がある。そこで清沢が克明に記録しているのは、民間右翼のデタラメな放言を新聞が垂れ流しにしている醜悪な数々の事例であり、とりわけ頭山は、徳富蘇峰に次いで清沢の憎悪の的となっている。すなわち頭山が死去した1944年10月の日記において、清沢は「愛国心の名の下に、最も多く罪悪を行った男だ」とまで書いたのであった。清沢が紹介する「頭山翁の談話」の内容は、どれもこれも日本の戦時状況を完全にすっ飛ばした愚劣な(そうでもなければ、完全に認知症的とでも言うべきである)ものであり、それに対する同時代人の批判もまた「戦後のパラダイム」では済まされないはずだが、いくらでも浮かぶ疑問をすべて脇に置くことで中島氏の著作は成り立っている。


さらに、岩波茂雄と「戦後のパラダイム」の関係をもし真剣に考えたいのであれば、岩波と親交を持ち清沢にも高く評価されていた「自由主義者」の一人である、正木ひろし〔旲〕のような存在を考えあわせる必要があるだろう。正木が1937年に創刊した個人雑誌『近きより』は、天皇とその国家を「奴隷の言葉」で賛美するという外見を取りながら、当時の状況下においては最も徹底的に軍と官僚組織への「否」を展開し続けたものとして名高いが、彼はこの雑誌に必要な用紙の提供において岩波の支援を受けていた(注4)。『近きより』の1943年4月号でなされた読者アンケートで、岩波はこの雑誌を「地の塩、世の光」という聖書の言葉を使って高く評価しており、1945年の貴族院補欠選挙に岩波が当選した際には、正木もその記念会合に参加している。しかしそうした交友は、敗戦直後の『近きより』において、正木が岩波をも批判の対象にすることを妨げるものではなかった。「恰も若き学徒が特攻隊員となって敵機敵艦に体当りを刊行した如く、死を決して主戦論者に反対したならば」戦争を食い止められたかもしれないとした、『世界』創刊号における岩波の感傷的な述懐を、正木はまったく非現実的なものとして一蹴している。しかし、敗戦後の正木が岩波をより驚愕させたのは、その猛烈な天皇制への攻撃ではなかったか。天皇制国家の国民は「家畜」であったと言ってはばからないそれは、弾圧から復活した共産党とその周辺も顔負けの、稀に見るレヴェルの激越さを有するものであった。とりわけ正木は、岩波が自身の指針/防壁として尊重した「五箇条の御誓文」についても怒りの舌鋒を緩めない。彼に言わせれば、その最後の条文に「大〔おおい〕に皇基を振起すべし」という言葉がつけられていることで、一見開明的な「御誓文」も全体としては結局「皇室の利己主義」を優先するだけものとなっており、ここから「自由」や「民主主義」を引き出そうとすること自体が間違っていたことになる。


安倍の『岩波茂雄傳』は、こうした反「五箇条の御誓文」の主張を岩波本人も認めるに至ったという正木の側の証言を一応取り上げつつも、正木の持論のダシとして岩波が使われているのではないかとして、「かりに正木の言ふ如くウーンとつまつたとしても、正木の説に参つたかどうかは分からない」とやんわり否認している。岩波が敗戦から間もなく亡くなったこともあり、実際に彼の天皇制認識がどう変化したか、あるいはしなかったかはよく分からないものの、敗戦後もなおも天皇を支持した安倍の立場からは、当然の岩波(と「御誓文」)の擁護と言えよう(注5)。しかしそうすると、中島氏によれば「戦後のパラダイム」にとらわれているはずの安倍が、岩波個人だけでなく「五箇条の御誓文」という一種の「戦前のパラダイム」を支持しているのはなぜかということになる。それとも中島氏にとっては、「五箇条の御誓文」が「戦後のパラダイム」ということになるのであろうか。こうした疑問を惹起することになるからか、安倍による正木への反駁についても、やはり中島氏の本では検討されることはない。だが、岩波が体現していると仮定されるところの「戦前のパラダイム」について比較対象を定めるのであれば、安倍ではなく正木のような人物の方が適当なのは明らかである(注6)。後者の反天皇制思想は、敗戦後の日本でもついに主流にはなっていないが、民主主義が天皇にその根源を置くものではないという種の考え方は、少なくとも1945年以降多くの人間に共有されていったはずのものであり、それこそが「戦後のパラダイム」と呼ぶにふさわしいであろう。頭山満のような人物を「左右両翼を超越して天地の大義に生きる國賓的存在」として抱擁できるか否かという点で、確かに岩波と安倍は感覚を異にしている。しかし、天皇制や民主主義の根源の問題について言えば、岩波と(戦後の)安倍の拠って立つ「パラダイム」の差はまったくなかったのではないか。安倍の著作を「戦後のパラダイム」に位置づけることによって、本来存在しない自分の著作のオリジナリティを強調するだけでなく、中島氏は分析そのものを破綻させているのである。


ここまで挙げてきた興味深い問題点の数々に対して、まったく論評らしい論評をなしていない『岩波茂雄』という本は、「左右の「バカの壁」」を自分から掘り崩して、何が何でも「右」(だけ)を取り入れようとせねば気がすまない種の社会運動や、現在の明仁天皇が大衆より「民主主義的」であると、それがどうしたとしか言いようのない羊の鳴き声ばかりあげる知識人があふれている、日本の世情には見合った、あるいはそれに合わせた作品と言えるかもしれない。しかし、日中戦争の時期の岩波について中島氏は、「熱烈なパトリオットとして振る舞うことで、排外主義者を牽制した。しかし、岩波の愛国は、微温的なものとして非難の対象とされた。「愛国」をめぐる闘争は、ますます厳しい状況に突入して行った」とも書いている。それでは、岩波の「「愛国」をめぐる闘争」がつまるところ失敗に終わったのではなかったかという、現代にも通ずる意味を持つ問題に対する歴史家なり伝記作家としての判断が必要であると思われるが、またしても、またしても例によってその辺りの明言を中島氏は避ける。わたし個人としては、「リベラル」なり「左派」なりは、そもそも「愛国競争」ではなく別の土俵で勝負しなければ話にならないと考えているのだが、中島氏の上記の記述を見ていると、現在行われている「「愛国」をめぐる闘争」が実はすでに敗北に終わりつつあることを、中島氏自身も意識的ないしは無意識的に理解しているのではないかと思う。


といったわけで、よくもこんな本が当の岩波書店から出せたものだと思うにつれ、わたしはほとんどグロッキーになったが、とどめの一撃は『岩波茂雄』読了後にのぞいた岩波書店のサイトから飛んできた。馬場公彦「編集者メッセージ――浮かび上がる新たな岩波茂雄像」がそれである。『岩波茂雄』の「あとがき」では中島氏に「実は馬場さんの大らかさの中に、時折、岩波を重ねることがあった」と持ち上げられ、中島氏の著作とほぼ同時期に発売された十重田裕一『岩波茂雄 低く暮らし、高く想ふ』(ミネルヴァ書房/注7)の「あとがき」でも言及されている、岩波書店の幹部である馬場氏の一文を眼にして、わたしは精も魂も尽き果てた。馬場氏によれば、岩波書店に入社した社員には必ず安倍の『岩波茂雄傳』を渡しているそうだが、本当に岩波書店の人々がそれをきちんと読んでいたなら、中島氏の原稿がその出来の悪い書き換えに過ぎないことはわかったはずである。また彼は、『岩波茂雄傳』を「正史」、『惜櫟荘主人』を「私史」と位置付けたうえで、「気鋭の政治学者の手になる」新著を「評伝」であるとしているが、そもそも中島氏の本には「評伝」らしい厳格な対象への「評価」など何もなく、あるとすれば、現在の岩波書店の方針にあわせるように、創業者についての記憶を外部の筆者に書き換えてもらおうとする歴史修正主義的な試みである。


そして、「われわれ社員にとっての茂雄像は、もしかしたら戦後の左右対立的な思考回路によって、戦後の自社の出版活動から類推して、都合良く切り取られた茂雄像だったのかもしれない」。これは何たる言い草か? この編集者にとって「自社のイメージ」というものは、大きな船舶が輸送やら漁労やらをこなす中で知らぬ間にこびりつかせている、牡蠣やフジツボのようなものでしかないのであろうか。確かにイメージというものは、他者が勝手に貼ることもままある。しかし、戦後のある時期の(あるいは現在も)岩波書店は、むしろ大いに自分の牡蠣やフジツボを喧伝しながら、つまり自分たちに「都合よく切り取られた」イメージとともに、本を売っていた(いる)のではないのか。また様々な筆者に本を書いてもらっていた(いる)のではないのか。「私どもが「リベラル」とか「左派」とかだなんて! それはあなたたちが勝手に思っていたことに過ぎません!」とでも言いたいのか。こういう発言が、多くの長年の読者と筆者を瞞着していると思われても仕方がないであろう。


この馬場氏は、学術分野への参画者として岩波書店の外で自身の本を出しているようだが、彼のやるべきことは、まずは自社から出る他人の本の水準を高めることであろう。確かに、編集者から文筆家として名を挙げた人はいくらでも存在する。敗戦後の岩波書店だけを見ても、小林勇は随筆家・セミプロ画家としても著名になったし、長田幹雄は竹久夢二の研究で名を馳せている。しかし現在の岩波書店には、先人たちの優雅とも言える文人的な活動を許す余裕はあまりないはずだ。確かにわたしは、「リベラル保守」なるマントラあるいは処世術を駆使している中島氏のような人物を個人として好んでいない。しかしここでの問題はそういうことでない。岩波茂雄という人物の「リベラル・ナショナリズム」を論じている中島氏の本が、「学問的」な見地から見て明らかに、著しく低い水準にしかないことである。


安倍能成が岩波茂雄についてもっとも強調していたこととは、彼が「リベラル」あるいは「ナショナリスト」であったことについてではなく、彼の「学問」への貢献についてである。安倍は、大正期より岩波がマルクス主義的書籍の出版をも積極的に行ったことを、中島氏が仮定するところの「リベラル・ナショナリズム」とは結びつけていない。それは「彼の社會的公正の理想と、精神とに基づくものであつた。彼は學者でなく學問をよく知つて居たとはいへぬが、學問の意義と價値とを信じたのみならず、この信念を出版に於いて実現した。彼はこの點よき意味に於ける進歩主義者であつた」。さらに下記の一文からは、安倍が生涯の友人に見出したのが、現在にも通ずる一つの理想的な出版人の姿であったことが分かる。


原理の學としての哲學を尊重し、民族や世界の文化財の最も重要なものとしての古典を認識し、眞實の論理と現象を開示するものとしての、人事については歴史學、社会科學、自然現象については數學、自然科學の探究及び普及に貢獻しようとした岩波の基本的見識は、實に正大であり確實であり、この點に於いて彼は、世間のいはゆる學者よりも更にしつかりと、眞の學問的精神を把握し、しかもこれを自家の出版に於いて力強く実現し得たといつてよい。


しかし、中島氏の非学問的著作を、過去の関係者による有力な著作を乗り越えたことを僭称・吹聴しながら売り出す現在の岩波書店とその文化(注8)は、こうした岩波の志からとてつもなく遠く離れてしまっているのではないのか。100周年を迎えた出版社に必要なのは、自転車操業的に精度の低い本を量産することではなく、創業者の抱いていた種の「基本的見識」や「眞の學問的精神」を、もう一度取り戻すことではないのか。





(注4):中島氏の『岩波茂雄』を読んだ後、わたしは初めて『近きより』の大半を復元した全5巻の文庫本(社会思想社版、1991年)を手に取ったのだが、前に読んだ本の反動もあってか「これをなぜ今まで読まずに来たのか」と後悔すら覚えるくらい面白く感じた。岩波の発言の非現実性を批判する際、正木は自身の過去の言説について「もちろん、言論統制という非人道的な枠に入れられていたので、直接法を以って表現し得なかった場合が多いのではありますが、〔中略〕戦時中における一国民としての最高度の善であったと確信するのであります」と豪語しているが、清沢のように「内的葛藤」へ逼塞した「自由主義者」がほとんどの時代に、これだけの「抵抗」が見せられたということは確かに誇るに足る。彼の戦時期の文章の数々から、わたしはベルトルト・ブレヒトの『コイナさん談義』の主人公の振る舞いを想起する。歴史の確認および読書の楽しみという意味で、安倍および小林の岩波伝と合わせて、未読の読者にはこちらもおすすめしたい。


(注5):ただし安倍は、戦時中における正木の批評――もちろん天皇制の枠内での――についてはむしろ支持していた。『近きより』1942年8月号には、正木の箴言をまとめた著作『人生断章』への読者の反響が掲載されているが、その中で安倍は「その御趣旨も殆ど同感といってよく、殊に現下の日本人に触れた所は満腔の同意を惜みません」という十分な賛辞を送っている。安倍が正木の読者であったのは、岩波の介在に加えて弟の恕〔はかる〕が裁判官として法曹界にいたことも影響していると思われるが、「満腔の同意」という言葉には社交辞令を超えた賞賛が含まれている。ところで、この安倍の言葉のそばには、なんと清沢と蓑田の感想が並んで載っている。清沢が三行の簡潔な言葉で正木の著作を褒めているのに対し、蓑田は皇国の興隆を祈願するポエムとも祝詞ともつかない意味不明な長々しい代物を寄稿している。「大御心」の尊重を装ったレトリックによって、蓑田のような右翼人士まで自分の雑誌の読者に抱えていたことが、正木個人の安全を確保するものになっていたことは想像に難くない。しかしその一方で正木は、残された「自由」を極限まで活用すればするほど、天皇を盾とする「奴隷の言葉」を通じた発言の本質的な虚しさや限界についてもまた悟っていったのではないか。そうして鬱積していったものの爆発が、人気の民事弁護士から冤罪事件の弾劾者へと転じていく、「日本には珍しい非マルクス主義的共和主義者」(家永三郎『正木ひろし』、三省堂、1981年)としての、敗戦後の正木の活動につながっていったと考えてよかろう。


(注6):もっとも、岩波が正木に対してアドヴァンテージを保っていると感じられる部分がないわけではない。東京第二弁護士会の会長であった古賀正義による『近きより』の解説(「注4」に挙げた文庫本の第1巻収録)では、発刊初期における正木の文章が矢内原忠雄の発禁事件などに極めて冷淡であっただけでなく、「各行に見られる中国および中国人に対する侮蔑的言辞」の存在を指摘している。正木の中国を軽侮した記述は、1939年の中国旅行を契機に雑誌からは次第に影を潜めていくが、それまでの期間については「人間類型的にも多少似たところのあった岩波茂雄が徹底的に中国侵略に反対(公然とではないが)したのと比較して、中国認識の点において大きな遜色があることを免れない」という、ちょうど岩波を引き合いにした古賀氏の意見に、わたしも同意する。わたしが中島氏であったら、この古賀氏の記述には大いに注目するところであろう。つまり「戦後に断固たる反天皇制を主張した正木のような人物においてすら、中国蔑視を当たり前のように披歴していた時期において、岩波はなんと先を行っていたことだろう!」と、中国への姿勢という点から岩波独自の「リベラル」ぶりを評価することもできるからである。もっとも、現在の日本で「リベラル」を自負する人々には、たとえ自国の荒廃はなんともならなくとも中国や朝鮮だけは適度に小馬鹿にしておくという、1939年までの正木のような振る舞いこそ「リベラル」としてのフォーマットになっているようではあるが。


(注7):本稿は中島氏の著作について集中しているため、こちらを合わせて詳しく分析する余裕がなかったのは残念である。ざっと読んでの私見を述べるならば、十重田氏によるこの伝記にも岩波個人に関する新知見はないものの、専門である文学研究やメディア史の成果を援用し、安倍の古典的著述で強調された「哲学書肆」像とは異なった、戦前の岩波書店の側面を提示することには成功している。この本が収録されている「ミネルヴァ日本評伝選」シリーズは、編集委員の多くは保守的、評伝の対象となる人物の多くも保守的、執筆者にいたってはしばしば反動的ですらあるというしんどいシリーズ(たとえば支倉常長については田中英道、森鴎外および小堀鞆音については小堀圭一郎といった、「新しい歴史教科書をつくる会」人脈に平気で書かせている)なのだが、その中では比較的マシな方である。


(注8):余談だが、中島氏のこの著作の初版――再版されているかは知らない――をわたしより先に読んだある知人は、ドイツの哲学者ハインリヒ・リッケルトの名前が本文・索引の両方で「リットケル」となっていたことから「この本はやっつけ仕事だ」と断じていた。リッケルトという人物は三木清をはじめ、1920年代における多くの日本人留学生と関わることで、この時代の「岩波文化」に大変な影響を与えた人物であり、著者と編集者が本当にこの本を真面目につくっていたら、または「岩波文化」に敬意を払っていたなら、そうした重要人物の名前を間違えるはずがない――その知人はそう主張していた。リッケルトの重要性については、わたしも生松敬三『ハイデルベルク:ある大学都市の精神史』(TBSブリタニカ、1980年)などで読んだ覚えがある。たかだか一か所の誤植ではないかと諸君は思われるかもしれないが、この著作の本質は、案外こうした細部に現れているのかもしれない。




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引用(25)

日本国民は日本国が「自分達の国」だということを忘れるように子供の時から教育されている。だから愛国心といってもお互い同士を愛し合うことではなく、何か特別なことをするように考えている。


日本人は物資の欠乏に悩まされているのみならず感情の欠乏に悩まされている。日本人には敏感な神経はあるが感情が足りない。自分の屋敷の塀を高くして庭園を掃き清める神経質はあるが、塀を低くして衆と共に楽しむという感情は希薄である。


日本独特の銭湯と称するものは、既に三百年を経過した今日でも、なお銭湯道徳なるもの確立されず。蛇口(カラン)の前に立ち塞がってあぐらをかき、一人で桶を多数占領し啖を吐き、手鼻をかみ、立って湯をかぶり、風呂の中で身体を擦って垢を落し、無暗やたらに湯を浪費し、脱衣所で衣類をはたいて、塵を狭い場所に充満させ、ゲップをしながら出ていく。


歯槽膿漏の子供に、
「お前の口は臭い臭い」といって
叱っている親があった。
日本人には「叱る」ことの効用の限界を知らない人間が多い。


口を開けば「日本主義」とか、「日本思想」とかいう人があるが、日本が本当に日本らしかったのは紀元何年から何年までを言うのか。大抵の時代、日本人は事大主義者であり機会主義者ではなかったのか。それとも斬捨御免の封建時代が日本主義的だとでも言うのか。斬り捨てる方は愉快だったかも知れないが、斬り捨てられる方は、たまったものではなかった。



『近きより』1941年6月号、正木ひろし「私のメモより」抜粋


新しい岩波茂雄伝?(前編)

中島岳志『岩波茂雄 リベラル・ナショナリストの肖像』(岩波書店)を読む。もう一年も前、岩波書店の創業100周年にあたる昨年の秋に出版されたものであるが、ようやく近所の図書館に配架されたからである。わたしは中島氏について、デビュー直後から今は亡き『論座』あたりでもてはやされていたこと、「保守リベラル」なる現在の日本で最大公約数的に受けるポジショニングをしていることなどに強いうさん臭さを感じており、「絶対にロクなもんじゃあるまい」とまったくその著作を読んでこなかった。「左右の「バカの壁」を崩していかなければなりません」という触れ込みのもと、彼が2009年に編集委員の一人となった『週刊金曜日』も、その頃にはほとんど読むのをやめてしまっていたので、かの雑誌における彼の活動もほとんど知らない。しかし、この中島氏の新著についての情報を、今年に入って遅ればせながら知った時には、まずは一読せねばという気が湧いた。以前からわたしは、岩波書店の創業者である岩波茂雄について関心を抱いており、彼の事績と人となりを知る上で極めて重要な二冊、すなわち安倍能成『岩波茂雄傳』(初版1957年)および小林勇『惜礫荘主人』(初版1963年)を、この「手帖」でも紹介したことがある。しかし、この両書はともに名著とは言え、出版からはすでに半世紀が経過している。一方、100周年をむかえる出版社が創業者についての著述を出すから、それなりに念の入ったものにはなっているだろうし、対象についての新しい情報や知見が得られることだろう――そう期待したのである。わたしは岩波茂雄の研究者でもなんでもないが、彼についての知識を深めたいと考える限り、関連文献とされるものは一通り追ってみるべきである。中島氏についての先入感もまずは捨てて、可能な限り虚心坦懐に作品を一度読んでみるのが公正というものであろうと、偏見あふれる自分なりに考えたのである。それでも自分の財布の中身と著者への信用ゆえに、今年の7月まで手が出なかったのであった。ようやく読了して3か月、可能な限り虚心坦懐に感想をまとめたい。


インターネットの検索エンジンを使うと、『日本の古本屋』のメールマガジンに、中島氏自身が書いた「拙著『岩波茂雄』について」と題する自著紹介が見つかる。そこで中島氏は、安倍能成と小林勇という「身近な二人」が書いた岩波伝について「非常に精度が高く、愛情にあふれています」としつつも、「一読して感じたのは、身近であるがゆえの甘さが、記述に反映されている」という欠点があり、「戦後のパラダイムから岩波を演繹的に見ている側面があるため、岩波の重要な部分が意識的に(もしくは無意識的に)捨象されていることがどうしても気にかかりました」と言っている。彼に言わせれば「これまでは、彼のリベラルな側面ばかりが強調されたため、彼のナショナリストとしての側面は脇に追いやられていました」。一個の統合された「リベラル・ナショナリスト」としての岩波を見ましょうという主張が、ここに提示される。


わたしはまず、この主張の前提に疑問を抱いた。本当にこれまで岩波の「リベラルな側面ばかりが強調」されてきたのであろうか、またそうであったとすれば、それは誰のおかげか、ということである。私見では、少なくとも安倍と小林の手によって、岩波の「リベラルな側面ばかりが強調」されたわけではない。まず安倍の『岩波茂雄傳』であるが、この本では「ナショナリスト」や「ナショナリズム」という言葉そのものではないにせよ、ほぼ同じ意味あいを込めて「愛國」という表現がたびたび使われている。「彼が内に向かつては日本に嚴しい批判をしながら、外に向つて日本を宣傳する煩を厭はぬ愛國者であつた一面」、「まあ彼くらゐ熾烈な愛國者は我々の友人連中にも稀だつたといつてよい。しかし斎藤茂吉や藤原咲平などの素朴な愛國心に比べて、彼の愛國心は世界的、国際的の光に照らされて居たといつてよからう」(強調は引用者)といった記述からは、安倍が率直に「ナショナリスト」として岩波を評価している様が伝わってくるではないか。ただしその「愛國」には「世界的、国際的の光に照らされて居た」といった留保がなされており、こうした「世界的、国際的の光」といった表現からは確かに、岩波の「リベラル」な側面の強調を感じることができるかもしれない(注1)。そうすると、安倍は中島氏の50年以上も前から「岩波はいわゆるリベラル・ナショナリストだった」と主張していたことにもなりそうだが。


また小林勇も、岩波が「リベラル」であったとだけ強調したいのであれば、原敬を暗殺した少年を「えらい」と褒めたという、強烈なエピソードを紹介する必要はなかったであろう。安倍も原の暗殺犯に対する岩波の「同情」を記しているが、「君には到底こんなえらいことはできないだろう」とまで若き店員に語っていたという話は、まさしく『惜礫荘主人』だけのものであり、中島氏もここから引用している。小林の著作は年代記的スタイルで個人的に知りえたことのみを紹介しており、岩波の言葉を聞いた時に自身がどう感じたかについては記していない。それでも、義父である人物の暗部とも取られかねない発言は、個人の思い出にだけ収めておくこともできたはずである。「リベラル」の観点からはマイナスととらえられそうな事柄まで率直に語っていることが、その簡潔な文体と合わせて、語り手としての小林の価値を高めていると言えよう。しかるに、この率直な証言に対する中島氏の考察は、「岩波にとって、財閥や首長を殺害した一連のテロ事件は、ネイション(国民)の苦境を代弁する革新的行動と捉えられ、「えらいこと」と認識されていた」などと、まるで他人事のようだ。こうした岩波の「リベラル・ナショナリズム」のパーソナリティというものは、大変現在の「我々」が自分を省みる上でも示唆するところが大きいと思われるが、そうしたものへの分析をわずか二行で済ましておいて、先人の「身近であるがゆえの甘さ」を指摘できた義理であろうか。


一方で、岩波茂雄の興味深いパーソナリティを描き切るためには、この本は正直紙面が足りていないように思う。かつての『岩波茂雄傳』の本文が500ページを超すのに対し(注2)、中島氏の『岩波茂雄』の本文は250ページ弱と、ほとんど半分である。それゆえ中島氏の著作には、過去の文献ですでに何回も紹介されているような逸話に対して省略がしばしば施されている。しかしそこで捨てられたものの中には、中島氏が主張する岩波の「ナショナリストとしての側面」を取り上げる上で、興味深い情報も含まれているように思われる。たとえば、戦時下の1942年に行われた岩波書店創業30周年のパーティの際に披露された、高村光太郎の作詞による「店歌」の歌詞がそれである。高村が戦時期に書いた詩の残念っぷりについては諸君も御存じであろうが、この「店歌」の一番の出だしは「あめのした 宇〔いへ〕と為す/かのいにしへの みことのり」、すなわち「八紘一宇」のスローガンそのままであり、さらにその二番は「おほきみかど」とともに「五箇条の御誓文」に言及されるものである。現在もこの「店歌」が岩波書店で唄われているとは聞かないが、もし今でも愛唱されているとしても、現在のドイツ国歌のように一番の歌詞は飛ばしているものと思われる(注3)。安倍や小林の著作だけではなく、山崎安雄『岩波茂雄』(時事通信社、1961年)のような古い本もまた、この印象的な歌詞を紹介しているが、それらの本では内容までには踏み込んでいない。中島氏はナショナリズム研究を看板にしているのであるから、こうした材料はスルーせずいくらでもおいしく料理できたのではないか。


中島氏は自著の「あとがき」で、「史料の読み解きは、岩波との格闘であるとともに、安倍との戦いでもあった。〔中略〕そのプロセスで分かったことは、安倍の突出した力量とともに、彼が避けて通った史料の存在だった。安倍が描いた岩波像と、私の描こうとする岩波像が衝突した。時間を超えた無言の討論は、スリリングであった」としている。人がこの部分だけを読めば、いかに若き研究者が最も手強い定説に反論を挑んだことかと思うであろう。しかし中島氏の『岩波茂雄』の中身は、奇妙なことに、安倍が「避けて通った史料」とは具体的に何なのかを、まったく指摘していない。わたしが読む限り、中島氏が使用している岩波書店所蔵の資料のほとんどは、安倍の『岩波茂雄傳』でも何らかの形で使われているとおぼしきものである(そもそもこの本には、安倍と小林の直接的な引用が相当多い)。確かに、安倍の使っていない資料として、ファナティックな右翼イデオローグとして悪名高い蓑田胸喜(「むねき」であり「きょうき」ではない)の著作集(柏書房、2003年、全7巻で22万円という驚異的な価格)や、『岩波茂雄への手紙』(岩波書店、2003年)からの引用があるものの、これらは著者が独自に発見した新資料というわけではない。もちろん、同じ資料を活用していても、着目点やアプローチの違いによって異なる結論が出る可能性はいくらでもある。しかしそれ以前の話として、「安倍はこう言っているが、彼の解釈は……のような理由によって受け入れがたい」といった論証が、この本には一つもないのである。「時間を超えた無言の討論」が読者にとっても「無言」でしかなければ、それは「スリリング」でもなんでもない。「安倍(または小林)が避けている」とされる事柄は、本質的にはすべて『岩波茂雄傳』、あるいは『惜礫荘主人』に書いてあるのだが、それに先回りして「私は先人と戦った!」としておけば、著者は自分のオリジナリティを強調できるらしい。以前わたしは安倍の伝記を「冗長なところがある」と評したが、それはあくまで小林の記述と比較しての話であった。中島氏の著作のスカスカぶりと比較するならば、伝記作家としての「安倍の突出した力量」は一目瞭然である。


満州事変以降の岩波について、中島氏は「明治維新→自由民権運動→政教社と続く明治ナショナリズムによって、昭和の軍国主義的・膨張主義的ナショナリズムを批判するというスタンスを鮮明にした」とし、とりわけ蓑田のそれとの対立を強調している。岩波がナショナリストでありつつ、単純にファシスト的・国粋主義的なそれとは一線を画していたという主張については――安倍の伝記も示唆しているところであるから――とりあえず文句はない。しかし岩波の「明治ナショナリズム」と「昭和の軍国主義的・膨張主義的ナショナリズム」がそんなにスッパリ切り分けられるのか(司馬遼太郎の「明るい明治/暗い昭和初期」論でもあるまいに)という疑問は残る。さらに、蓑田とは対立した岩波がなぜ頭山満のような別の右翼イデオローグに傾倒したのかという、より大きな疑問は相変わらず未解決のままである。「一たい岩波は頭山がこの事變に對して何を志し何を爲したか、を知つて居たのであらうか」、「翌一七年の初夏頭山の米壽の祝宴には、頭山が大井憲太郎や中江篤助(兆民)の如き自由主義者と親善だつたことを、恰も岩波の左右相會して圓卓會議をやれ、といふ主張にかなふものであるかの如くに速斷して、頭山を「左右両翼を超越して天地の大義に生きる國賓的存在」とまで讃美して居るのは首肯しがたい」(強調は引用者)といった、岩波の頭山びいきに対する安倍の強い批判について、安倍との「対決」を公言している中島氏は、その存在自体を黙殺している。


岩波の頭山びいきに劣らず、中島氏の頭山びいきもなかなかのものに感じられる。玄洋社が「西南戦争の敗北によって言論闘争に転じ、自由民権運動を闘った」といった部分は、ほとんど玄洋社が一般的な言論機関であったかのような描き方ではないか。しかしわたしが聞き及んでいる玄洋社とその周辺の活動は、どう考えても「言論闘争」の域を超えている。かの大隈重信の右脚を爆弾テロで吹っ飛ばしたのが玄洋社のメンバーであったことは、早稲田大学の学生でなくても知っている。また、頭山が顧問をつとめた黒竜会は、明治憲法下において相対的に自由民主主義が盛り上がった大正期においてすら、朝日新聞社の記事に難癖をつけて――おや、いつの話?――その社長の拉致襲撃に及んでいる。これらは蓑田の「言論闘争」とは別に罪深い。中島氏は現在の朝日新聞に「クオリティペーパー」としての価値を認めていると聞くが、ただでさえ専制的な大日本帝国の国家機構の別働隊として、そうした「クオリティペーパー」の萌芽を無理矢理抑え込み、言論空間の質を決定的に悪化させたうちの一人が頭山ではなかったか。安倍は頭山について「我々には得體の知れぬ人で、政界人と言つてよいかどうかは知らぬが、政界を動かす陰然たる勢力の中心だつたとはきいて居る」と書いているが、現在の「我々」の多くもこれとまったく同じ認識を抱いていることであろう。そうした理解が全くの誤解であり、玄洋社がガンディー(岩波がその執務室に写真を飾っていた一人である)にならった非暴力・不服従の言論結社にすぎなかったとでも主張したいのなら、必要なのは単なるレトリックではなく、十分に説得的な証明である。しかしそうした説明の代わりにあるのは、「岩波にとって、頭山は思想的に共感できる相手だったのだろう」といった、またしても他人事のような書きぶりである。


(後編へ続く)





(注1):ただし『岩波茂雄傳』を改めて読み直してみると、むしろ安倍は「岩波が自由主義者としてすばらしかった」と積極的に評価しようとしていないのではないか、とすら思わせるところがある。というのは、安倍が岩波の出版業について褒める際には、「眞理」や「正義」を追求しようとしたなどと、繰り返し安倍自身の評価を与えているのに対し、岩波の自由主義について述べる際には「岩波自身も自分はリベラリストでソーシァリストではないといひ、勿論コミュニストではなかつたが」、「彼は前にも述べた如く、自分自身で社會主義者でもなく共産主義者でもなく、自由主義者だといひ」(強調は引用者)といった書き方をしているからである。安倍が「岩波が左翼ではなかった」とはっきり否定する一方、自由主義者かどうかについては遠回しな表現を用いているように見えるのは、いささか不思議な感じがする。


(注2):これは『岩波茂雄傳』の旧版の話であり、新字・新仮名遣いによる「新装版」(2012年)の段組みでは、本文は450頁を下回っている。個人的には旧仮名の方が時代的味わいもあって好みなのだが、現在の読者には当然今の仮名遣いの方が読みやすいだろう。3200円という価格は、旧版の古書市場価格(「日本の古本屋」で検索できる)を考えると随分強気な設定だとは思うものの、写真や人名索引もついてくるので甘受されるべきか。しかしこの新版の存在は、中島氏の著作の意義に対するより強い疑問を呼び起こすものでもある


(注3):岩波書店の「社歌」については、最近の同書店のパンフレット『本と岩波書店の百年』(2013年)にも、岩波、高村、信時潔の三人が写った写真のキャプションの中で、その存在自体には一応触れられている。なお、写真のキャプションでは「信時氏は作曲家で」と余分な説明がされているが、そこまでマイナーな人物ではないだろう。かの「海行かば」を覚えている高齢の岩波書店の読者も、まだ死に絶えていないはずである。