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新しい伊藤野枝伝?(その5・終)

栗原氏の本の語り口をたどっていると、この著者は伊藤(や大杉)におけるある種のいい加減さこそを、学ぶべき本質か何かと勘違いしているのではないかと思えてくる。しかしこれも伊藤の名誉のために書いておくと、その後も彼女が単なる論敵への非礼に終始したわけではないことは、「売春論争」から4年後に書かれた「山川菊栄論」(『定本伊藤野枝全集』第3巻)などでも明らかであろう。ここでの伊藤は、与謝野晶子や平塚らいてうらの先輩たちに対する社会主義的フェミニストとしての山川の存在を存分に比較しながら、当時の山川の長所と短所を現在の「我々」から見ても厳密に示すだけの、文章の余裕と月旦の力量を有していた。この一文に限らず、1920年代に入ってからの伊藤については長足の、いや飛躍的といってよい進境をわたしも感じる。日本の女性史研究の先駆者であった村上信彦は、かつて山川について「大正・昭和を通して男性も含めて最も鋭敏な頭脳を持った女性である」とまで評価していたというが(注11)、もし伊藤が横死しなければ、そうした山川の最大の論敵として間違いなくあり続けたであろうし、現在の「我々」にとってさらに興味深い議論が続けられた可能性は高い。ところが栗原氏の本では、伊藤にあると仮定されている不変の「わがまま」が原型質的な核として強調され、それが「圧勝」したと何の論証もなく吹聴されているだけであり、彼女の飛躍的成長が理解できるようにならない。叙述の平板さを「圧勝」といった強度のある言葉の連呼でしか補えない点からしても、この著作は致命的なまでに稚拙である。


『村に火をつけ、白痴になれ』の出版から約半年後、同じ岩波書店からは、田中伸尚『飾らず、偽らず、欺かず:管野須賀子と伊藤野枝』という本も出版されている。わたしが田中氏の著作を手に取ったのは2017年に入ってからであったが、岩波書店はここ1年で、復刊を含めて3種もの伊藤野枝の伝記的著述を出したことになる。これが出版社によって総体的に意図された「伊藤推し」によるものか、単に編集者や部門ごとの出版スケジュールが無計画にバッティングした結果なのかは分からないが、わたしが読む限り田中氏のノンフィクションもまた、瀬戸内氏の小説二部作とは別の点から、栗原氏の著作の存在意義を疑わせる内容を備えている。『飾らず、偽らず、欺かず』はその副題にもあるように、無政府主義陣営の女性論客であり男性配偶者と合わせて官憲に抹殺されたという点で共通している、管野と伊藤の両者の生涯を合わせて論じているところに特色があり、ある意味「一粒で二度おいしい」。栗原氏の本とは別に、過去の伊藤研究の「ここはどうか」という部分を踏襲しているとおぼしき部分もないわけではないものの(注12)、簡潔で緊張感ある文体によって、短い生涯を送った叙述対象を二人同時に描きつつ、一定の質的密度も保たれている。正直、栗原氏は自分の伊藤伝を書く前に田中氏の著作を参照すればもう少し読むに耐えうるものが書けたのではないかと、時系列的に無理なことを思ったくらいである(注13)。


さらに田中氏と栗原氏の本を読み比べ気づかされたのは、後者においては「伊藤野枝と天皇制」という重要な問題系もまた、どこかに行ってしまっていることである。田中氏が長きに渡って反天皇制をテーマとしている希少な著述家の一人であることは知られているが、この問題を重視するのは彼に限ったことではない。田中氏の本のソフトカバーのソデ部分に、伊藤(と管野)が「女性を縛る社会道徳や政治権力と対決し」と書かれているように、彼女らが「無政府共産」を突き詰めれば、確かに「社会道徳」のみならず「政治権力」の問題にも行き当たる。そして、外には十年に一度の帝国主義戦争を行い内には猛烈な警察政治を展開する、当時の日本の「政治権力」の扇の要として天皇が存在していたことは、動かしえない事実であろう。対して、栗原氏の本において天皇(制)の言及がなされるのは、大逆事件についての平板な叙述くらいがせいぜいである。栗原氏の本のソフトカバーのソデ部分では、伊藤は「結婚制度や社会制度と対決した」とされており、田中氏の使った「政治権力」という言葉がちょうど「結婚制度」に置き換わっていることも示唆的である(そういえば、「結婚制度」は「社会制度」に含まれるのではないだろうか)。たとえ本文中には「非国民、上等」とか「反国家」のポーズをとったフレーズが散見されるにしても、そこで当時の「国家」の根幹に据えられていた天皇制への言及がほぼ皆無というのは、彼女らの生きた時代における「政治権力」に対してそうした思想が持っていた具体的な意味を読者に理解させるようには思われない。この点については、例の「あばれる」もマジックワードとして働いている。最初から天皇制への問題意識を持っている、または伊藤にそうした要素があることをあらかじめ知っている読者は、栗原氏本人が全く触れていなくても、伊藤(もしくは栗原氏自身)が天皇制に対し「あばれる」ものであると勝手に読みこんでしまう。その逆に、どちらの枠にも当てはまらない読者は、天皇制に対する記述がないこの本からは、伊藤の「あばれる」の何がそこまで当局に危険視されたのかという問題を見いだすことができないであろう。


栗原氏の著書の冒頭に出てくる、伊藤の郷里である指宿の郷土史家から聞いたという話も、本来ならば「伊藤野枝と天皇制」について改めて読者に考えさせるものであろう。栗原氏が紹介するところによれば、その郷土史家氏は十数年前、当時まだ存命していた伊藤と同世代の老女を、伊藤についてのテレビ取材と引き合わせようとしたのだが、彼女は取材班には何も知らないと言い張り続けた。しかし取材班が帰ると彼女は、郷土史家氏の家に「ここがあの女の故郷だとしられてしまう」と怒鳴りこみ、「あの淫乱女! 淫乱女!」と叫ぶのであった――この一件について栗原氏は、「なぜ野枝がそんないわれかたをしてきたのか」と、それ自体はまったく正しい疑問を提出しているものの、エピソードは彼による伊藤の「(性的な)わがまま」という話に完全に吸収され、「あるのはセックスそれだけだ」という著者の「定式」(と言ってよいか疑わしい何か)にのみ結び付けられてしまう。しかし、仮に「日陰茶屋事件」を頂点とする伊藤の不倫行為がいかにスキャンダル化され、かつての指宿の人間がいかに事件にいたたまれない思いをしていたとしても、個人の「(性的な)わがまま」への怒りが半世紀以上も持続するものであろうか? 


伊藤以降も、単純な性的奔放によって商業ジャーナリズムのエサになった女性たちはいくらでも現れているのに(たとえば阿部定)、なぜ彼女が伊藤だけを恥ずかしがる必要があるのか。また、彼女が単純に伊藤のことを「淫乱女」であったと思い続けていたのなら、テレビ取材に対して直接「あの淫乱女!」と叫んでよかったはずである。取材班には沈黙した一方、伊藤の故郷という「秘密」を破ろうとした郷土史家氏にのみ彼女の怒りが爆発したというのも、重要なヒントであろう。実のところ、この老女にとって伊藤の「(性的な)わがまま」の実態は、問題ではなかったとわたしは考える。真の問題は、おそらく彼女が伊藤について、こともあろうに天皇陛下に逆らう「非国民」「国賊」であり、正当にも誅殺(「虐殺」ではなく)された存在であったと、アジア・太平洋戦争から半世紀も経過してなお考え続けていたらしいことである。「淫乱女!」はその表現であると見た方がよい。天皇陛下に逆らう日本人などあってはならない以上、そんなことをわずかでも匂わせる女は「(自分たちのような)普通の」女ではない。ゆえに「淫乱女!」である。伊藤はまったくの「非国民」「逆賊」であるが、そもそもそんな存在がここで生まれたこと自体が言及をはばかられることであれば、その事実を直接に示す罵倒語すら置き換えられなければならない。ゆえに「淫乱女!」である――老女の権幕を伝え聞いて「ひゃあ」などと呆けた声を挙げるくらいだったら、彼女の罵詈雑言の裏にある近代日本の暗黒について、また万事を伊藤の「(性的な)わがまま」に還元する粗雑極まりない自分の議論(実際には固定観念)について、この著者は省察するべきなのである。


栗原氏と岩波書店による彼の書籍の紹介が声をそろえて言うには、伊藤の「思想を生きることは,私たちにもできること」なのだそうである。しかし、伊藤の行動が誰にでも実践可能であるかのように思えるのは、一たびそれに乗り出せばとりわけ厄介な、敵方のあらゆる手段を用いた報復を食らう可能性が今なお高い、天皇制のような大問題については目をふさいでいるからではないのか。伊藤に限らないが、明治維新から1945年の最終的破局の間に天皇制国家への反逆者として処刑・謀殺された人々にまつわるエピソードの中でも、しばしば彼女ら彼らの墓碑建立が忌避されたり破壊にあったりしたという話は、とりわけ戦慄を催させる。反逆者の中には「主義として」墓の必要はないと言いだすであろう人物も存在するが、そのような個人の思想とは別に、墓にまでおよぶ嫌がらせというのは、死者にすら及ぶ現世の懲罰として実に陰険な仕打ちの一つである。「私たちにもできること」と言うのは、そうした憂き目に遭うという最悪の事態まで想像してのことなのか。もちろん、書き手が読者に「当たって砕けて当たり前、官憲にぶち殺される覚悟をせよ」などと、居丈高にどやしつける必要はまったくない。しかし、伊藤の「思想を生きること」を奨励する著述ならば、単純に彼女の振る舞いが面白いとか痛快とか言うだけでなく、彼女に見出すことが可能なそうした「楽しい」要素の中に、実は「私たちにはそうそうできないこと(しかしそれでもやらなければならないこと)」も多分に含まれていることを、指摘しておく責任があったのではないか。そうした厳然とした認識に基づかなければ、本当の意味で「思想を生きること」など不可能であろうし、労働者/市民にとっての実践的成果を生むこともない。せいぜい、表面的な「思想」の「過激さ」を味わうだけの人々――たとえば「読書人」――が、自分のなけなしのスノビズムを満足させるだけに終わるであろう(注14)。


ここまで読んでくれた諸君もお疲れのことであろうし、そろそろ話を終わらせよう。伊藤が「本能」や「野生」の人であったという種の述懐は、山川や平塚に限らず、男性も含めた同時代人すべて(!)によって繰り返しなされてきた。これに対し、特に瀬戸内・井手のような女性の伝記作家たちは、伊藤の「欠点」と見なされてきた側面を、むしろ表面的な「知性」や「理性」がしばしば秘めている保守反動性を暴くものとして捉え、「感情的」な彼女の行動に生のエネルギーとでも呼ぶべき肯定的要素を見いだすことを通じて、伊藤を再評価していったと言える。ただ同時に、女性伝記作家たちのとった伊藤の再評価の手法は、「本能の人」としての伊藤像を、さらに肥大化させていることは否めない。結局のところ栗原氏の本は、そのような既存の伊藤論のイメージに何ら新しいものはつけ加えず、それを極限なまでにグロテスク化したものであると言えよう。わたし個人としては、これからの伊藤研究は、おそらくこの手の言説と距離を置く必要があると感じた。たとえば、むしろ伊藤は「知性の人」と考えてもよいであろう。確かに彼女の有していたものは、表面的・道具的・機械的な「知性」ないしは「理性」とは遠いが、瀬戸内・井手の評価した「本能」や「感情」といったタームでも収まらない意味でのそれではなかったか。単に「大杉栄の妻」を超えた存在として、伊藤にひきつけられる人が現在でも存在しているのはそのためである。大日本帝国によって踏み潰された伊藤のこうした個性を、栗原氏が自身の専門であるはずの、社会科学の知見を通じて明晰に分析し提示してくれるものであったら、どんなによかったことか。しかし現実の彼の本には、ある人物の実像を蘇らせるための実証としての価値も、独自な事実の発掘も、考察も皆無である。代わりにあるのは、彼女に仮託された著者自身の、恐ろしく軽薄な文体と思いつきだけなのである。





(注11):山川菊栄生誕百年を記念する会編『現代フェミニズムと山川菊栄』(大和書房、1990年)にあらわれた、島田登美子の証言。


(注12):田中氏の本においても、「日蔭茶屋事件」についての記述は、運動内での伊藤と大杉の排撃が当局を喜ばせたであろうという話にとどまっているし、「300円」の件についても、大杉の脇の甘さへの批判的な考察なしに片付けてしまっている。また、本書の最初と最後の部分に現われる「須賀子さん、野枝さん」といった情熱的な呼びかけからは、歴史的人物に対する主観的肩入れが過ぎるのではないかという印象を受ける。田中氏の危機意識は理解できるし、彼が栗原氏と比べてよほど説得的な伊藤像を描いていることは間違いないのだが、後者の「大杉栄が憑依したかのよう」な――岩波書店公式サイトの「編集者のメッセージ」、「伊藤野枝が憑依したかのよう」ではない――文章を読んだせいで、失礼ながら前者にまで「伊藤野枝はオレの嫁」とでも言いたげな雰囲気を感じてしまう人がいるのではないか、と思った次第である。


(注13):田中氏の本の参考文献一覧には、栗原氏の本が載っていない一方、子安宣邦『「大正」を読み直す:幸徳・大杉・河上・津田、そして和辻・大川』(藤原書店)なる本は挙げられている。藤原書店のホームページによれば後者は2016年4月、つまり同年3月発行と奥付にある栗原氏の本より、わずかながらあとに出された本ということになる。この時系列上の問題によって、伊藤を取り上げた先行文献(栗原氏の著作の参考文献表にも挙がっているような)を田中氏が網羅しながら、栗原氏の著作は入れていないのは何故かという疑問が浮かぶ。「存在は知っていた、しかし読む時間がなかった」と素直に考えづらいのは、伊藤を題材にした書籍を書こうとする人は、幸徳や大杉という彼女に極めて近い人物を扱った本が出るにしても、普通は「伊藤野枝伝」を謳った著作を優先して読むと思われるからである。田中氏の著作は10月の出版であるから、その半年前なら自分の原稿の整理で忙しく「出版の情報を見逃した」といったこともありうるだろう。しかし、近年はほとんど岩波書店からのみ著作を出している田中氏が、なじみの出版社で若い書き手が新しい伊藤の伝記を用意しているという情報を得たり、もしくは栗原氏の本が刷り上がった直後に、懇意の編集者から一冊回してもらったりしていてもおかしくはない。よって田中氏の文献一覧には、彼が栗原氏の本を「読んではみた、しかし価値を見出せなかった」可能性を読み取ることもできよう。


(注14):今年に入って、栗原氏の著作は「紀伊國屋じんぶん大賞2017」なる企画で第4位に選ばれたそうである。この企画は書店員と読者が選ぶ「人文書」を標榜しているものの、学問的手続きの不備、雑駁な文体、主題を持ち上げるために都合の悪い事実や先行文献の無視、主題以外の人物に対する不当なこきおろしといった問題が山積している売り物が、果たして「人文書」と呼ぶにふさわしいかのどうか、何ら見当がつかないのは編集者ばかりではないようだ。この本以外にも企画に選ばれた書籍のラインナップを見ると、本年のヴィンテージとしてそれらを楽しむ以前に、むしろ「読書人」界隈総体の知的水準が低下していることを疑ってしまう。正直「本が売れない」と言われても、こんな本ばかりでは売り手も買い手も頭が衰弱してしまうばかりだから、むしろ売れない方がいいと言える。



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引用(32)

鱶がもし人間だったら、と家主夫人の小さな娘が、コイナさんに聞いた。鱶は小さな魚たちにもっと親切にするでしょうか。「きっとね」と、かれはいった。「鱶がもし人間だったら、海の中に、小魚たちのため、大きな箱をいくつも作らせるでしょうね。そして、それらの中には海草だとか微生物だとか、いろんな食物をいれておくでしょう。鱶は、それらの箱に、いつも新鮮な海水が満ちているように、気をくばるでしょう。つまりその、いろんな衛生上の処置を講ずることでしょう。たとえば、一匹の小魚がヒレを傷つけたりすると、さっそく、包帯がまかれることでしょう。その小魚があんまり早く死んで、鱶の眼前から消えてしまったり、しないようにするためですよ。また、小魚が陰気にならないようにと、ときどき盛大な水中祭がもよおされることでしょう。陽気な小魚のほうが、陰気な小魚よりおいしいからなのです。もちろん、箱のなかには学校もあるでしょう。これらの学校で、小魚たちは、鱶のあんぐり開いた口のなかを、どう泳ぐか、ということをおそわるでしょう。小魚たちには、たとえば、どこかにねそべっているものぐさな大鱶を発見できるようにと、地理学の知識も必要でしょう。もちろん、いちばん大切なことは、小魚たちの道徳教育でしょう。小魚がよろこびいさんで自分を犠牲にする、これが最も偉大で最も立派なことであると、教えられるでしょう。また、わけても、鱶たちが美しい未来を世話してあげよう、といったら、鱶たちのいうことを信じなくてはならぬと、教えこまれることでしょう。この未来は、小魚たちが従順ということを習得するとき、はじめて保証されるのだ、と小魚たちは教えこまれることでしょう。低級で唯物的で利己的でマルクス主義的な傾向を、小魚たちは警戒しなければならず、もし一匹でも、そういう傾向を示し始めるものがあったら、さっそく、鱶たちに届け出なくてはならないでしょう。鱶がもし人間だったら、もちろん、外国の箱や外国の小魚を奪いとるため、たがいに戦争をするでしょう。戦争を、かれらは自分らの小魚たちにやらせるでしょう。かれらは小魚たちに、かれらと他の小魚どもとのあいだには大なる相違があると、教えるでしょう。鱶たちは宣言するでしょう――小魚というものは周知のように無言であるけれども、しかし、それはそれぞれ系統のちがった言語で黙っているのであって、したがって、互いに理解しあうことは不可能である、と。戦争において、敵の小魚を、というのはつまり、べつの言語で黙っている小魚を殺した小魚の、その一匹一匹にたいし、かれらはコンブ勲章をくっつけてやり、英雄の称号をさずけるでしょう。鱶がもし人間だったら、もちろん、鱶の芸術があるでしょう。かずかずの美しい絵画は、鱶のぎざぎざ歯を見事な色彩で表現するでしょう。また、鱶のあんぐりとあいた口はきれいな公園であって、小魚たちはそこをきらびやかに歩きまわることができるように、描かれることでしょう。海底劇場は勇敢なる英雄小魚が有頂天になって鱶の大口のなかへ泳いで入る場面を上演するでしょう。音楽はとても美しくて、その楽の音につれて、小魚たちは、子守唄でもきいているように、うっとりと楽しい思想のなかに眠り込み、夢見心地で、楽隊を先頭に、鱶の大口のなかへ、流れこんでいくでしょう。鱶がもし人間だったら、宗教もまたあるでしょう。かれらは教えるでしょう、小魚たちは鱶の胃袋のなかではじめて本当の生活を味わうだろう、と。それはそうと、鱶がもし人間だったら、すべての小魚たちは、現在あるごとく平等であることは、もうなくなるでしょう。ある小魚は官途につき、他の小魚たちの上位におかれるでしょう。わりかし大きいものは、小さいのを食べてもよい、ということになるでしょう。これによって、ますます、鱶たちは大きな肉切れにありつくことが多くなるので、かれらにはいっそう都合がいいのです。役目にありついた、わりかし大きい小魚たちは、小魚たちの秩序維持のためにつとめ、箱の機構のなかの教師、士官、技師などになるでしょう。つまりですね、鱶がもし人間だったら、はじめて海の中に、一つの文化ができあがることでしょう」


ブレヒト『コイナさん談義』
(長谷川四郎訳)


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