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日本国民の選挙

先の衆議院選挙は周知の結果に終わったが、これほど「何が起こるかわからない」感がない選挙もかつてなかったのではあるまいか。実際、この選挙の何が面白かったのだろう? 自民党の「大物」どもの相次ぐ落選か? 「我々」は、自分で勝ち取ったわけでもない成果に欣喜雀躍することはない。彼らの敗北は「あらかじめ」決定されていたではないか。一昔前の野球における、リーグ優勝決定後から日本シリーズ開始までの間の消化日程に過ぎなかったのではないか。


これに比べると敗戦後しばらく、すなわち自民党と社会党の棲み分けが確立する「55年体制」の成立以前の選挙というのは、色々調べると面白いものがある。戦犯容疑者や翼賛議員の生き残りどもに、敗戦まで投獄や拷問や処刑の対象だった人々が、表舞台で真っ向からぶつかり合う機会を得たことは実に新鮮だったようで、「民主化」の高揚に伴い勃発した奇妙な事件の数々も、様々な人々によって記録されている。たとえば笑ってしまうのは、羽仁五郎が語る1950年の参議院選挙のエピソードである。まだ闇市の立ち並ぶ焼野原の池袋で、無所属で資金の乏しい羽仁がボロマイクを使って演説をしていた時、立派なマイクを持った別の候補者のトラックがやってきた。音量ではとてもかなわないからと羽仁が引き上げようとすると、「とつぜんどこからわいてきたのか、当時パンパンといわれた女性たちがどっとと現われ」、立派なマイクの候補者のトラックにどんどん飛び乗った。そしてついに彼を退散させると、彼女らは何事もなかったように消えて行ったという(注1)。これぞ「急進的無党派」(ただの「無党派」ではない)の元祖だったと羽仁は愉快そうに懐かしんだが、言葉の真の意味での「自由選挙」とは、抑圧されていた(いる)人々の爆発する無体さをも少なからず帯びたものなのだろう。ご存じの方は、ミハイル・バフチンのカーニヴァル論でも想起されたい。まさに状況そのものが転覆的だった。これに比すれば、今回の選挙など粛々と行われた小中学校の行事である。


ところで、この「パンパンといわれた女性たち」は日本国民だったのだろうか。というのは、新しい日本国の法体系においてようやく日本の女性たちにも選挙権/被選挙権が与えられるようになったわけだが、この敗戦後しばらくの選挙においては、それらの権利を持たないにも関わらず、積極的に選挙運動へ参加した人々がいたからである。在日朝鮮人――当時の彼らの主なる支持対象は、金天海を始めとする同胞のメンバーを有する共産党であった。彼らの大いなる期待に、当時の共産党が応えたとは全く言えない。しかし在日朝鮮人は、屈従を強いられていた立場からようやく解き放たれ、共産党の選挙運動への参加という極めて限定的な形ながらも「政治に参加する喜び」を体感する機会の一つを得たのではないか。だが一方で、それを憎々しげに見ている日本人も大勢いたのは間違いない――1949年の衆議院選挙について、ある非共産党系の立候補者が回想した文章から、わたしはそのように考えた。


共産党はまた、日本の選挙権をもたない朝鮮人の党員を使って、日本国民の選挙妨害を企てたのである。私が高円寺駅の北口で街頭演説を始めると、向う側の商店街のラウドスピーカーが声高に広告放送をやりだした。それがすむと流行歌のレコードが鳴出し、それからまた商店の広告が放送され、倭文の苧環〔しずのおだまき〕くり返していつ果つべしとも思われない。同志の一人が商店へおもむいて、演説の終るまで十五分間か二十分間、放送を中止してくれと交渉すると、近くの朝鮮人団体がやっている仕事だからそこへ行って話してくれという。しかしそこではまた、われわれは外国人だから日本の選挙とは無関係で、そのために商売を中止する訳にはいかぬが、千円出せば三十分間だけ放送を中止しようという返答であった。しかし渋谷公会堂の立会演説会でさかんにヤジを飛ばしていた共産党員は多くは朝鮮人であると、立会の選挙管理委員は憤慨して語った。


前年の選挙の際には、自由に使用できた渋谷駅頭の野外演説会場も、今年は自由に使用できなくなった。プラットフォームには立派なアーチが作られて、衆議院議員選挙演説会場などと大書されているが、これも朝鮮人団体の所有に帰していて、一時間一千円の使用料を払わなければ使えなかった。



「日本の選挙権をもたない朝鮮人の党員」を使った「日本国民の選挙妨害」……諸君はこれを読んで、語り手がどのような立場の人物だと考えるだろうか。まずは右翼、少なくとも相当保守的な人物を想定するだろう。しかし驚くなかれ。この文章を書いているのは、日本の社会主義史に名高い、荒畑寒村その人なのである。かつてなかなかの感銘を受けた彼の自伝(注2)を再読し、一読した時には気にも留めなかったこの部分が目に入って来た時、わたしは愕然とさせられたものである。彼の活動は、幸徳秋水・堺利彦への師事に始まり、鉱毒による谷中村廃村への抗議、サンディカリスムへの接近、ロシア革命に呼応した共産党結成への参加と離党、労農派マルクス主義の指導、戦後の社会党結成への参加と離党など、めまぐるしい転変を重ねるものの、その「解放」への熱情は70年を超す活動歴において一貫していたことは疑いえない。また、この堅忍不抜の革命家は、戦前にトロツキーの『裏切られた革命』を翻訳することで、ソ連の革命政府の変質をいち早く理解し社会主義者として問題化しえた最初の一人でもあった。その荒畑が、である。ここには長年彼が振り回されてきた共産党の路線に対する不信感があるのは明らかだが、それだけではすまされないものがないだろうか。


当時共産党に加入ないしは協力していた在日朝鮮人が、「パンパンといわれた女性たち」によってなされたような、実力行使による選挙妨害に類するようなことを行ったのは、おそらく事実ではあろう。しかし荒畑が、在日朝鮮人のことを一体どういう存在と考えていたのだろうかという疑問は残る。かつて自分が言われていたであろう「非国民」という言葉こそ使わなかったが、「国民外」と思っていたのは確実だ。自身の回想を記す際、「立会の選挙管理委員」の「憤慨」には、かつての従属民への蔑視が含まれていたかどうか、彼は考えなかったのだろうか。何故帝国主義の支配を受けていた旧植民地の出身者に選挙権が与えられていないのか、考えなかったのだろうか。何故多くの朝鮮人が彼の当時属していた社会党ではなく共産党を支持したのか、考えなかったのだろうか。そして、かつての侵略国である日本の選挙は、単に「日本国民の選挙」という領域にとどまるものではなく、かつての被侵略国の人々に対する一種の意志表示ともなることについて、考えなかったのだろうか。


今回の選挙戦についてさんざ空騒ぎしたメディアの情報洪水の中で、ついに浮かび上がってこなかったのは、いわゆる二大保守政党以外の勢力ではない。60年前の選挙において初めてその存在を現したような、意識的ないしは法的に「国民」の領域から放り出されている人々である。このような人々が、わずかでも希望を託すことが出来たような個人はなく、政党(注3)もまたいずれも荒畑の訴えたような「日本国民の選挙」を遂行した。しかし「国民」と「国民外」の格差を前提にした「政治」の枠にある間は、「我々」は「人間」として相変わらず惨めなままだろう。60年前の「国民外」たちに比すべくもなく。






(注1):羽仁五郎『自伝的戦後史』(講談社、1976年)。近年、スペース伽耶から復刻版が出ている。


(注2):荒畑寒村『寒村自伝』下巻(岩波文庫、1975年)。なお、原文の改行は一行開け、ルビは〔〕で表している。この自伝の初版は1947年であり、たびたび増補再刊されたこの本に、どの時点からこの一文が追加されたかはまだ確認していない。引用したのは岩波文庫版だが、存命中の人物の著作がこの文庫に収録されたのは彼が最初だったらしく、その後も羽仁五郎『明治維新史研究』や石母田正『中世的世界の形成』など非常に少ない。


(注3):たとえば現在の共産党議員の相当数は、新たな朝鮮への制裁強化(それにしても、いったい何度目だ?)に賛成の意を表明することで、「国民政党」としての「国民」への忠誠を新たにしている。




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