白くなく華麗でもないが、不毛ではない

いわゆる「十五年戦争」が終局を迎えつつある時期にそのキャリアを開始し、敗戦後一気に頭角を現した映画作家たち――その筆頭は無論黒沢明と木下恵介である――が、映画産業の衰退とともに徐々に第一線を退いていく1970年代において、山本薩夫はそこに踏み止まった数少ない一人である(注1)。映像面における閃きこそ少ないものの、重戦車のごとく堅牢な演出とともに、共産党員としての立場からの社会批判意識を持ち続けた山本は、この時期『戦争と人間』三部作(注2)から始まる大作を立て続けに発表し、その健在ぶりをアピールした。これらの映画ではいずれも、日本の政治・経済・軍事を握る支配者たちに焦点が当てられ、その内部の複雑怪奇かつ醜悪な諸相および闘争という、日本映画の歴史上まれにしか描かれず現在でも描かれにくいものが徹底的に活写されていた。それは、特に男性の映画スターおよび新劇系のヴェテラン俳優にとって存分に遊ぶことのできる世界であり(注3)、彼らの活躍を得て山本は、敗戦直後(『戦争と平和』や『真空地帯』など)に続く、第二の創作的ピークを迎えたと言えよう。


さて、察しのいい諸君の中には気づいた向きもいるかと思うが、今回わたしが取り上げたいのは、山本が1976年に映画化した『不毛地帯』が、本年10月よりフジテレビにおいて連続ドラマになるという話である。夏に入る前だったか、「不毛地帯」というテロップだけが掲げられ、それ以外に情報がないという一見不思議なフジテレビの15秒スポットを見た時、「ああ、山崎豊子の小説を原作としたドラマをやるのだなあ」とわたしは気づいた。そしてすぐに憂鬱になった。そのドラマは、かつて山本が映画版で描き出したものとはかけ離れたものになるはずだと確信したからである。もう現在ではテレビ雑誌などに情報が色々出ているので後出しジャンケンのようになるが、賭けてもよい。10月から始まるフジテレビの連続ドラマ版の『不毛地帯』はまたしても、「戦争の敗北の破壊と屈辱から立ち直る日本人再生の物語」の域を絶対に超えない、ありきたりな慰撫のストーリーをあくまで完遂するだろう、と。しかし公平を期すために言っておくと、テレビドラマ版がそうなるとすれば、それはフジテレビというメディア産業のどん底的な保守反動性に原因があるというより、おそらくそれは山崎氏の「原作に忠実」なゆえにそうなるということである。むしろ、「原作に忠実」であることが二次的作品の絶対的な条件とすると、山本の映画版『不毛地帯』こそ問題となってしまうだろう。


日本の敗戦に伴いソ連軍に捕えられた若き大本営参謀・壹岐正は、11年に渡る厳しいシベリア抑留を生き延び帰国し、再出発のため入社した総合商社・近畿商事において、アメリカからの新型戦闘機導入を始めとする商戦にかかわっていく――これが小説『不毛地帯』の大筋であるが、山本は没後に出版された自伝『私の映画人生』(新日本出版社、1984年)で、映画を撮る際に原作をどのように処理し、またどのような要素を新たに付け加えたかについて述べている。たとえば、小説において非常に大量の紙数が割かれている壹岐(仲代達也)たちの虜囚生活については、屈辱的な身体検査や強制労働のさなか雪中に斃れる日本人の印象的なカットもあるものの、全体からすればそれほどの量ではない。3時間強という枠で描ける内容は限られている(実際この映画は情報量の多さゆえ、観客の強い集中力を要求する)し、高級軍人である主人公が味わった悲惨な強制収容所(ラーゲリ)体験は、一般兵などの抑留の悲惨とは同列に描き得ないというのが山本の見地であった。また、大学生となった壹岐の娘(秋吉久美子)が60年安保闘争の参加者となり、そもそもこの戦闘機選定そのものが「国民の意思」に全く反していることを熱弁し、「ジェット戦闘機なんて、わたしたち誰も欲しいと思ってないわ!」と父親に言い放つまでになるのも、映画のオリジナルである。ちなみに、これらを不満とした山崎氏が、自分と監督は精神的な夫婦だと思っていたのにウンヌンと雑誌で書いたのに対し、山本の方は「別に精神的にも彼女と結婚した覚えはなかったので、こういったことはあまり気にもかけないでいた」そうである。


かつての「大日本帝国」の「十五年戦争」と現在の「平和国家日本」の兵器商戦は、反人間的本質において類似した点を持ち、その原因は政・官・軍における戦前と戦後の「連続性」にある――山崎氏の物語の骨子をそのままに、その力点の置き場所を変えることで、映画版『不毛地帯』は支配層の人脈と精神における「連続性」をあぶり出している。一部において山崎氏は「社会派作家」と目されているようだが、彼女が小説で社会における権力闘争を描くのは「社会批判」の意図からではないのは自身でもたびたび言及している。彼女の小説で常に問題なのは、野心に溢れる男たちが権力や名誉を争う際の「闘争の面白さ」そのものであり、さらにその視点は常に「日本国」ないし「日本人」にのみ寄り添うものである。原作小説の壹岐は、優秀な頭脳とともにソ連での「思想教育」にも決して屈しないような、いわゆる「誇りある日本人」としての精神を併せ持ったタフな男で、帰国後もその背骨は変わらないままである。


一方で映画の壹岐の姿は、より陰影に富んでいる。すなわち帰国後の彼は、「14才から35才まで戦争に勝つことだけを学んできた」自分の「人殺しの血」を封印する必要を感じており、「連続性」を自分なりに断ち切ろうと試みるのである。指導者意識を一貫して持ち続け、東京裁判の「不当性」や再軍備への賛同も当然のように口にする原作小説の壹岐と異なり、映画の壹岐は日本国の利益だの将来だのについては語らない。「高度成長期」に入り変化した道頓堀の町並みや、かつての敵国アメリカの繁栄にとまどいながらも、ただシベリアで失った人間としての(「日本人としての」ではなく)プライドを取り戻そうと、また自分の抑留中に苦労をかけた家族に対しよき父であろうと、懸命になる。しかし、彼を採用した社長(山形勲)は「元大本営参謀」のコネと策謀力を当てにしていた。陸軍士官学校以来の友人である川又空将補(丹波哲郎)の懇願もあって、彼は再び「連続性」の世界に引き込まれてしまい、やがて戦闘機導入をめぐる商戦の裏で暗躍し始める(注4)。彼が軍人時代に培ったものが役立つのは、日本社会が変わっていないがゆえである。しかし壹岐の成功に比例して彼の家庭は崩壊し、最後にはその策謀が原因となり友人をも失う(注5)。最後の場面に壹岐――小説ではまさに「再興する日本」そのものを体現している――の勝利ではなく、挫折を置いたこの映画が、原作者の不興を買うのは必然だった。


公式サイトやテレビ雑誌などにおける新ドラマの情報を読む限り、今回の『不毛地帯』は、山本のような換骨奪胎のない「原作に忠実」な設定である。シベリア抑留には大きなウェイトが置かれるようで、ニュージーランドにつくった大規模なオープンセットによる再現も大きな見どころらしい。登場人物などを見てもシベリアがらみの人間(映画版には出て来ない元抑留者の組織「朔風会」関係など)が多数登場する。原作連載中につくられた映画版にはないエピソード(最後の石油採掘事業など)も含めて描かれるであろう、今回のテレビドラマ版は、原作者が高齢ながら存命中ということもあり、一種の「欽定版」となることを意識してつくられているものと思われる(注6)。それゆえテレビドラマ版以後は、昨今の風潮からすると、山本の映画版を「原作の(「左翼的」)歪曲」と強調する言説が必ず出てくるだろう。しかし、現在に続く戦前と戦後の「連続性」という問題を省みる際、いささか生硬な部分(壹岐の娘の演説とか)が見えるにせよ、「原作に忠実」ではない山本の『不毛地帯』は、決して「我々」にとって「不毛」なものではない。





(注1):山本が亡くなってすでに四半世紀が経過しているが、彼についてまとめて読めるモノグラフは未だにない。黒沢・木下といった大巨匠に名声が及ばないのは無理もないにしろ、晩年も一定の興行収入を期待される監督として複数の企画を抱えた「売れっ子」であり続けたこの人物は、上記の大巨匠らとは別の視点から映画史的に検討される価値があると思う。


(注2):最近北大路欣也は、テレビ朝日で主演した長編ドラマ『落日燃ゆ』の番組宣伝も兼ねて『徹子の部屋』に出演した際、若き日に出演した『戦争と人間』に言及したとのことである。北大路はテレビで広田弘毅首相を演じるにあたって、「山本先生」が実現できなかった、東京裁判を全編のクライマックスとする『戦争と人間』第四部(『私の映画人生』によれば、企画時には「五部作」構想)について想起し、30年以上前に出演した映画では描かれなかった時期についての歴史劇の大役を担うことに、感慨深いものがあったという。もっとも、もし城山三郎の原作小説を山本が取り上げたとすれば、その中では言及されていない広田と玄洋社との密接な関係や、外交家としての政治責任についても描いたことだろう。


(注3):このことがとりわけ分かるのは『金環蝕』だろう。実在の政治家などをモデルにした俳優陣の怪演が突出しており、中でも三國連太郎の「政界の爆弾男」と宇野重吉の「金融王」のうさんくささは特筆に価する。


(注4):日本の「連続性」の象徴、また壹岐の中でそれが断ち切れきれない原因として、山本は天皇の存在を示唆している。「戦争の最高責任者は天皇ではないのか!」と迫るソ連側の尋問者に対し「ニェット(違う)!」と断固否認する壹岐の姿(フラッシュバックでも出てくる)や、乗馬する「大元帥」天皇の歴史的フィルムの活用からも、それは明らかである。


(注5):映画において、川又空将補とその上司・貝塚官房長(小沢栄太郎)との争いは大きな軸の一つである。戦友として抑留中の壹岐の家族を長く援助した好人物である川又に対し、内務省系官僚の貝塚は賄賂と権力をこよなく愛する救い難い俗物であるのだが、山本はこの両者をともに突き放して描いている。悪徳政治家と結託して貴様は何をして来たのだと川又は貝塚に詰め寄るが、そもそも「安保反対」を突き詰める壱岐の娘のような立場からすれば、軍拡と並行して隣国を敵に回す日米同盟を当然とする政治路線そのものがインチキだからである。しかし今度の新しいテレビドラマでは、この両者の関係が、まず間違いなく「悪徳官僚」に対する「憂国の志士」みたいな関係として描かれることだろう。もっとも、柳葉敏郎が俳優の「格落ち」を感じさせずに、丹波哲郎ほどの威風を感じさせることが出来るかは定かではない。


(注6):山崎氏の長編作品には人気作が多く、映像化されていないものの方が少ないくらいだが、それらの作品については「盗作」などモラル的問題を指摘する声が何度も挙がっている。『不毛地帯』に関しては、シベリア抑留経験者のいまい・げんじが『山崎豊子の『盗用』事件:『不毛地帯』と『シベリヤの歌』』(三一書房、1979年)において、自分の回想録の「盗作」を実証している。いまいは映画『不毛地帯』の抑えたラーゲリ場面の演出に対し、山本へ肯定的な手紙を送ったという。また鵜飼清の『山崎豊子・問題小説の研究:社会派「国民作家」の作られ方』(社会評論社、2002年)は、山崎氏のその他の「盗作」疑惑も取り上げつつ、山崎作品およびそれを受け入れている日本社会に内在する思想的な問題も広く論じている。山本は山崎氏の小説を原作とする、『白い巨塔』『華麗なる一族』『不毛地帯』の三本を撮っており、メディア・ミックスを通じた山崎氏の「国民作家」化の責任を一定程度は有しよう。ただしそれらの企画は、すべて映画会社側からの持ちかけによるもので、映画化への売り込みは山崎氏自身からも受けていたようである。それにしても、異なる年代に異なる人物によって、二度にわたって「盗作」の指摘を主とする単著をわざわざ出された作家は、日本でも他に例がないのではないか。



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