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「中東革命」は誰のものか、または匪賊対革命ごっこ(その3)

前回に引き続き、イタリア発のリビアについての論考としてもう一つ取り上げたいのは、日本でもその編著『ムッソリーニの毒ガス:植民地戦争におけるイタリアの化学戦』(高橋武智監修、大月書店、2000年)が知られる、植民地史家Angelo del Bocaの発言である。デル=ボカ氏は1925年生まれで、すでに80代半ばであるにもかかわらず、ここ一カ月の間にも多くの媒体からリビア問題の重鎮として取材を受け続けている。というのも彼は、かつてイタリアの植民地だった諸国の過去についての大家というだけでなく、現代への強い関心から(彼は元来ジャーナリストとして出発した)、1996年にはカダフィ大佐へのインタヴューを試みており、1998年には『カダフィ:砂漠からの挑戦』(Gheddafi: una sfida dal deserto)という評伝を著わした人物でもあるからである。この『カダフィ』は、堅実かつ尖鋭的な学術出版で評価の高いラテルツァ社から出版されて以降、好評を持って迎えられたようで、2001年にはペーパーバック版が出され、2010年には初版以降のリビアの動向についての「後書き」が加えられた増補版(注1)が発売されている。


インターネット上で見つかる、2011年2月以降のデル=ボカ氏の発言は複数存在する(現在も少しずつ増え続けている)。たとえば2月22日づけのもの(「共産主義再建党」機関紙『リベラツィオーネ』記事、複数引用されている)、2月28日づけのもの(トリノの非営利文化団体「パラッレーリ」のサイト、デル=ボカは同地在住)などがあるが、ここではそれらの中でも一番分量のまとまった、インターネット誌『ヌォーヴァソチエタ』による、2月25日のインタヴューへの回答の全体を紹介したい(注2)。前回取り上げたビッリ氏の文章と同じ日、つまりリビアに対する「介入やむなし」の流れが決定的となった、同月26日の国連安保理決議の成立直前のものである。翻訳にあたっては、『カダフィ』増補版をはじめとするいくつかのデル=ボカ氏の著作を、いくつか参照にすることができた。参照といっても当然全部は読むことができないので、辞書ないしはアンチョコとして使ったくらいであるが。例によって、イタリア語により通暁している諸君には当方へこっそりご教示してくれるよう願いたい。さらに、〔〕内には訳の補足を付した。


http://www.nuovasocieta.it/interviste/11831-angelo-del-boca-lrivolta-in-libia-figlia-di-antichi-rancorir.html


―――――


《アンジェロ・デル=ボカに聞く 「リビアの反乱は古き遺恨の娘である」》
2月25日(金) ルイージ・ネルヴォ記者


リビアの反乱は決定的段階に到達したように思われる。カダフィは軍隊と傭兵に守られた地下壕に閉じこもっている一方、首都周辺においては反乱勢力が都市を制圧し、最後の攻撃を進める準備に取り掛かっている。リビアの状況について、この国に関する最高の専門家の一人である、アンジェロ・デル=ボカ教授に話をうかがった。彼は元ジャーナリスト兼大学教師であり、アフリカの国家について、またそれらの地と関わったイタリア人について、多数の著作を刊行している。




チュニジアとエジプトの後、アラブの反乱は他国に波及しています。現在ではリビアにもです。こういったことが起こると予測されていましたか?



いいえと言えるでしょう、とりわけリビアについては。かの国をよく知る私にとっても、少々驚きだったのは、一人あたりの年間所得が1万5千から1万8千ユーロ、近隣諸国の実に三倍という国で反乱が起こったことです。それにリビアにおいては、生活必需品が全面的に統制され、公定価格が決められており、万人に必要なものの価格は非常に安くなっています。所得は中の上であり、実際我々はヨーロッパでリビア人が物乞いをしている姿をまったく見かけません。そうしたチュニジア人、アルジェリア人、モロッコ人は見かけられますが、リビア人をまったく見かけないのは、彼らの生活状況がよいからです。〔こうした国に反乱が〕二つの隣国から伝播したらしいことに、非常に驚かされました。さて、このような事態は、トリポニタニアからではなく、キレナイカから始まりました。何かが発生するとすればキレナイカであるとは予測されました、なぜならそこには、サヌーシー派の強い影響力がいまだにあるからです。私は写真で見たのですが、複数の横断幕に「サヌーシー派万歳」と書かれていたこと、もしくはサヌーシー派の旗、すなわち最後の王のそれが掲げられていたことが、それを証明するものです。それから横断幕の中には「オマル・アル=ムフタール万歳」とも書かれたものがありましたが、このムフタールも彼らにとって大事な人物です。彼は同時にカダフィにも称賛されてきた人物であり、カダフィが来伊した時、ムフタールが絞首台に連行される時の写真を掲げていたことが実際ありました。しかし私もこうした事態は予期していませんでした。


カダフィは自分が他の指導者たちと違う、「革命のリーダー」だと言っています。


はい、これも事実です。彼が行ったのは革命であり、一昼夜にしてブルギバを追放するクーデターを計画したベン・アリとも、サダトの死後に権力を襲ったムバラクとも違います。しかし、これらの事件が誤ったものではないとも彼は言っています。同時に彼は「私が辞任出来ないのは、私が何ら役職についていないからだ」とも言っています。これも正しい。彼は案内人(guida)なのです。彼はかつて大佐であり、今も大佐のままです。彼は望めば、将官、元帥、何にでもなれました。しかし彼は「私は革命の案内人である」という標語に満足しています。


こういったことが彼になお力を与えているのでしょうか? 他の指導者たちが没落する中で、彼はいまだ踏みとどまっているという意味でですが。


その通り。まだ彼は踏みとどまっている。こうした彼の革命と『緑の書』を守るために、いまだそこに踏みとどまっているのです。このうち、特に『緑の書』について私は、1996年に彼に会見した際、少々ひっかけとなる質問をしたことがあります。私は彼に尋ねました。「あなたの国において『緑の書』は成功を収めましたか? 世界のあらゆる国において、この本が何百万部も印刷されているのを私は見ました。しかしここリビアでは成功を収めましたか?」。すると彼は、一瞬のためらいもなく答えました。「あれは失敗であった。リビアはいまだ黒の国家であり、緑の国家ではない」。つまり彼は、結局のところ『緑の書』は失敗に終わったことを認めたのです。


あなたはカダフィをご存じですが、彼はどのような人物でしょうか?


私は非常に積極的な印象を受けました。この人物は私に、情報相の立会いのもとでのインタヴューを許可しました。この時の情報相は女性で、通訳も務めてくれました。彼はアラビア語、私はイタリア語で会話しました。約束の時間は1時間でしたが、最終的には2時間15分にもなったのは、彼自らも質問をしてきたからです。彼はまったく的を射た質問をしてきたと言わねばなりません。自分の回答もよく計算している人でした。それから、彼がイタリア語も解するということは、二度か三度「いや違う、デル=ボカはこう言っているだろう」と情報相に言ってさえぎったことから分かりました。第三者が少々質問に手心を加えていたことを、完全に見破っていたわけです。私は目ざましい印象を受けました。目を凝らして彼を観察しました。その服装も分析しました。彼の表情や感情と合わせて、後にそれらを書かせるだけの関心を与えてきたからです。そして最後に、彼は私をテントの出口まで送り出す際、英語で言いました。「貴方が我々に対してなしてくれたことに私は大変感謝したい、なぜなら貴方は我々の歴史を書いたからである。我々には歴史家がいないのだ、我々の歴史を書いた貴方のような」。すでにリビアについての二巻本を私は書いていました。〔その翻訳が〕翻訳者から内容を一章ごとに送らせ、彼が気に入らない部分を取り除きながら行われたということについては、それまで知らなかったことの一つでしたけどね(注3)。第一に〔当時のリビアの〕雰囲気のおかげで、これは並外れた体験となりました。私が目にしたのは、映像で見ていた、アメリカの爆撃された家々でした。私が目にしたのは、大佐の養女がどこで死んだかを屋根の破片とともに示したゆりかごでした。そして、なによりも、この長大なインタヴューによってです。


それではその政治面については、どのような指導者だったでしょうか?


政治面については、彼は一つの地域(Paese)を掌握し、それを一つの国家(Nazione)にまとめようとしたと言わねばなりません。これもまた、一定の意味において成功しています。というのは、彼がリビアに台頭した時期に成し遂げた作戦の一つが、アメリカとイギリスの置いていた軍事基地を追放することだったからです。それから〔植民地時代後にも〕最後までなお在住していた2万人のイタリア人の追放にも成功しました。こうして、植民地主義のすべてのしるしからリビアは解放されたのです。これを行ったのは彼であり、イドリース王ではありません。しかし40年が経過してなお、家門(clan)の廃止には至っていないのは事実です。現在そのすべてが外部に噴出している。ここ何日か私は、1911年から31年にかけての反乱の指導者の孫にあたる、友人のAnwer Fekiniと電話をしたのですが(注4)、彼は自分のRogeban部族(tribu’)が、Zintan、Orfella、Tahrunaといった山岳地帯の部族とともに、トリポリを攻撃するために動いていると言っていました。


虐殺の数については?


エル=アラービーヤが提供した、1万人の死者と5万人の負傷者という数字は、まったく信じられないですね。5万人の負傷者がいれば、リビアとイタリアの全病院を合わせても追いつかないでしょう。それでは、1万人の死者についてはどうでしょうか? 墓地についての報道は我々も見ていますが、私が言えるのは、語りうる死者の数はおそらく最大でも数千人であろうということです。いつものようにここには誇張があり、いつもの誇張はトリポリタニアにおいて特に明白です。288人、後に315人と言われていた、キレナイカにおける死者の数はかなり確実なものです。この数字はおおむね受け入れられます。しかし5万人という負傷者の数は、死者のそれ以上に私を驚かせたデータです。


リビアでの反乱の理由はどのようなものでしょうか?


キレナイカにはより古い怨恨の感情が残っていました。エジプトとチュニジアからの伝播だけではありません。先立つ二つの事件を思い出しましょう。一つはベンガジでの1996年の反乱で、これはカダフィに陸・海・空軍を派遣させ、反乱分子を投獄させるにいたらせました。もう一つは、イタリアの大臣(編集部注:カルデローリ)による、かの愚劣な服装に対する反乱です(注5)。ここには常に中央権力に対する強い怨恨の感情があります。彼らは少々トリポリから忘れ去られていると感じており、それゆえこの地が反乱を育む場所となっていたのです。


その後反乱は、トリポリの手前まで急速にせまりつつあります。


はい、一週間にしてトリポリに迫りました。〔リビア全体の〕失業率は30パーセントです。彼らが非常に高い個人所得を得ているのは事実です。必需品に対する安い公定価格も事実。しかし、この時仕事場だけがない……イタリアの我々は、ここには反乱に立ち上がる勇気がないと見ています。しかしかの地と同じようになりうるでしょう。


イタリアに話を移しましょう。「彼は偉大な殉教者を埋葬した」とカダフィは言い、経済関係が存在しており、ベルルスコーニとカダフィは友人です。両国の現在の関係はどのようなものでしょうか?


昨日までは驚くべき関係がありました。非常に運任せの条約を交わしていたのです。この友好通商条約にあるのは、およそ経済・商業的な背景のみであり、政治的なものはごくわずかです。両者がほとんど熟考していないと私はすぐに批判しました。少なくとも、対話者であるリビアがヨーロッパと同じ水準にはないこと、人権を尊重していないことについて明記するべきでした。これらについては序文では言われてはいますが、そこからは何も起こりませんでした。なぜなら我々に関心があったのは、我々の会社をリビアに設立して確実に利益を上げることでしかなく、またリビアの側でもイタリアでの事業に参画することにしか関心がなかったからです。すなわち、理想的な関係でした。むしろ、理想的に過ぎました。私はこういった理由からこれをもっぱら批判してきました。それで現在、野党の何人かの主要人物は条約が破棄されることすら要求しています。友好通商条約を破棄したところで、得るものはわずかでしかありません。そもそも、誰に対して破棄するのでしょう? 旧政府はまだ踏みとどまっており、新政府は存在しません。誰が我々との対話者なのでしょうか? この点について私はFekiniと話しました。「私に何人かの名前を挙げてはくれないか? 君たちは、カダフィの古い家門とは何らかの妥協をするつもりは絶対にないと言っている。そう望んでいるのは誰なのだね?」。彼は言いました。「我々は新しいリビアの、新しい民衆を欲しているのだ」。そこで私は言いました。「なぜ君は地位につかないのかね?」。すると彼は「いや、わたしは弁護士としての助言はできるし、彼らを助けることはできるが、政治生活には興味がない」と言うのです。なるほど、彼は大富豪ですから。


視点を拡大しますと、カダフィは「アメリカの悪魔」に対するアラブの集合を呼びかけました。イランはこの状況に探りを入れるため、スエズ運河に艦船を通過させています。国際的文脈においてどのような事態が起こりうるでしょうか?


深刻かつ大規模な事態が何も起こらないとは思いません。なぜなら国連に何か出来るでしょうか? 何もできません。何年にもわたって行っていたような、制裁を実施することもできます。そうした制裁もすでに終わっています。再開することもできますが、私が考えるに、カダフィは三・四年の間にはもういなくなっているでしょう(注6)。すると誰に対する制裁になるのでしょうか? すでに苦しんだリビア人に対して? 私には信じられない。バカバカしいことではないでしょうか。つまり、私に言わせれば、現時点において有効な介入は何もありません。何も。なぜなら、決定を下す唯一の組織は国連であり、この組織はカダフィが政府に残る限り制裁を行うことしかできないからです。しかしながら、何が起こっているのか正確な情報を自分が持っていないという十分な疑いもありますし、彼が耐えきることができるとも思えません。



―――――


諸君は、この文章を読まれてどう感じたであろうか? 今回の拙訳は少々長いと思われるので、わたしのコメントは改めて記すこととしよう。


(つづく)





(注1):裏表紙に記された宣伝文句を以下に引用する。


「私はアラブのリーダーの中のリーダー、アフリカの王の中の王にして、ムスリムのイマームである」――ムアマル・アル=カダフィ、41年に渡ってリビアを導き、活発で、明晰で、エネルギーに充ちあふれ、あらゆる手段をもって権力を維持することを決意している人物。その近年の政治的成功もまた記憶に新しい。彼はアメリカの「ならず者国家」のブラックリストから外され、完全な国際社会への復帰を果たした。彼の最後の大望は統一アフリカの実現であるが、それはようやく緒についたばかりである。イタリアの植民地主義についての、最も高名な歴史家であるアンジェロ・デル=ボカが、なおも活動を続けている人物の伝記作成という挑戦を受け入れ、リビアのリーダーの多様な側面――経世家、煽動家、政略家であるとともに、綱渡りに長けたベドウィン、機知に富んだ砂漠の語り部――について語る。


(注2):なお、日本の「APC通信」2011年3月号にもデル=ボカ氏の発言が翻訳されているそうだが、これは参照することができなかった。


(注3):『リビアにおけるイタリア人』(Gli Italiani in Libia)全二巻は、1980年代に初版が発行された、デル=ボカ氏の代表的著作の一つ。『カダフィ』序文によれば、この本はリビアでも翻訳されたものの、初版ではカダフィ政権に対し留保または批判を示した部分が、リビアの「上層部の判断により」著者の了承なしにカットされてしまった。デル=ボカ氏は再版の際の復元を約束させつつ、第二次世界大戦中に設置された「地雷で傷ついたリビアの子供たちのために、著作権を放棄する」ことを翻訳側に申し入れたという。


(注4):2007年にデル=ボカ氏は、Anwer氏から提供された史料をもとにして、約20年にわたって対イタリア闘争を展開した、彼の祖父Mohamed Fekini(1858-1950)の小伝『絞首台を傍にして:愛国者Mohamed Fekiniの回想録における、イタリアのリビア占領の残虐と醜行』(A un passo della forca: atrocita’ e infamie dell’occupazione italiana della Libia nelle memorie del patriota Mohamed Fekini, Baldini Castoldi Dalai)を発表している(同著中では、AnwerはAnwarと表記)。その最後の章によれば、1951年にキレナイカを中心とするリビア王国が成立すると、Fekini一族は大臣や大使などの高官を輩出したが、カダフィ大佐の王政廃止によって政治の中枢から外された。新政府にとって彼らは、反植民地主義の先駆的役割を果たした一族である一方、国家としてのリビアの統合という観点からは障害となる強力な地盤を持っているわけで、その存在は敬して遠ざけるべきものとして扱われていたようである。なお、2009年のインタヴューにおいてデル=ボカ氏は、革命40周年の記念行事に「リビアの友」として自分が招待されるのと同時期に、当のリビアでは『絞首台を傍にして』が回収処分になっていたという奇妙な事件について、遺憾の意を表している。


(注5):2006年2月15日、右派政党「北部同盟」に所属するロベルト・カルデローリ大臣は「言論の自由」を擁護すると称し、昨年秋から国際的に問題となっていたムハンマドの風刺漫画をプリントしたTシャツを着て、イタリアの国営第一テレビ(RAI1)に登場。この行為はリビア国民全体を憤慨させたが、中でもキレナイカの住民が特に反発し、同月17日にベンガジのイタリア領事館は数千人ものリビア人に襲撃された。リビア側の警官隊は、イタリア人とその財産を保護するという名目で発砲し、11人もの死者を出した。同大臣は翌日引責辞職に追い込まれている。ところで、数週間前にサイト「マガジン9条」に、リビア育ちの青年に対するインタヴュー記事が掲載されたのだが、この記事にはいくつか明白に誤った点がある。まずこの青年が、領事館に対する「デモ」を「2005年の2月17日」としている。これが彼の記憶違いによるものか誤記によるものかはわからない。しかしさらに問題なのは、領事館襲撃事件に対する「注釈」として、襲撃のきっかけを「ベルルスコーニ首相がその風刺画をプリントしたTシャツを着用した」ことにしている上に、「首相のTシャツ事件」がいつ起きたのかを記していないことである。そもそも登場人物が間違っているし、「デンマークでのムハンマド風刺画」⇒「イタリアでのカルデローリ」⇒「これらを受けて突発した、リビアでの領事館襲撃」という、明快な時系列および関係性があいまいになっているしで、かえって「注釈」の体をなしていない。編集部が自身で真面目に調査したのかも疑われるが、哀れなのはベルルスコーニ首相ではないか。彼が無教養でスキャンダラスな成金であるのはまったくの事実であるが、厳密な再検証もされていないことにまで「あいつならやりかねない」という印象だけにもとづいた「注釈」をされては、彼でなくてもたまったものではない。そして目下、「カダフィの悪逆」に対して行われている「注釈」は、あらかたこの手のものばかりであるように思われる。


(注6):『カダフィ』増補版後書きには「セイフ・エル=イスラムの抑えることはできない興隆」という、ベルトルト・ブレヒトの戯曲『アルトゥーロ・ウイの抑えることはできた興隆』とは逆の表現を持った副題が付けられている。つまり、2009年にカダフィ氏が政権のナンバー2に指名した次男のセイフ・エル=イスラムは、その「イスラムの剣」という勇ましげな意味を持つ名前とは裏腹に、適切な法治主義の浸透や人権状況の改善といった課題への関心を示しており、長期的にリビアがこういった方向に向かうことは「抑えることはできない」ものであろうということである。その最後の節では、セイフ氏がかつてロンドン大学のスクール・オブ・エコノミクスに留学し、そこで「より公正で民主的なグローバル・ガバナンスの諸制度をいかに築くかという問題について」を中心とした、リビアにおける「市民社会」の形成について扱った博士論文を提出したことを紹介している。もっともデル=ボカ氏は触れていないが、この論文は剽窃ばかりであり、大枚をはたいて学位を買ったのだという説も根強い。ただし、彼が実際に政治犯の減刑などを推進して政府内守旧派の反感を買っていた形跡は見られるし、仮にこの二代目が家門をいいことに学業をサボっていたとすれば、西欧でもジョージ・ブッシュ・ジュニアに似たようなゴシップが伝えられているので、それもまたセイフ氏が「西欧主義者」であることの証拠かもしれない。しかし一方でデル=ボカ氏は、リビア内外の形勢が流動的であることも認めており、最後の一文では「いま一度、カダフィが舞台に現れ、ジャマーヒーリーヤ・リビアの未来を描くこともあるだろう」としていた。ある意味で、彼の予言は当たったと言える。





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