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「中東革命」は誰のものか、または匪賊対革命ごっこ(その4)

少々遅くなったが、前回紹介したデル=ボカ氏のインタヴューについての私見を記していきたい。まず内容を一読して明らかなのは、彼が「民主化」なる毎度おなじみのキーワードを一度も使っていないことである。ここで反乱勢力の中に見いだされるのはむしろ「古き遺恨」、すなわち部族集団による社会的結合がいまだ残る国家の中で、王制時代に政治の中枢にあり、歴史的には外部勢力に対する反骨精神を示し続けてきた、キレナイカ地方の家門が立ちあがったのだとしている。ここには、「市民」としてのリビア人がインターネットなどの現代的ツールを通じて立ち上がったという話が介在する余地はない。80才を過ぎた老人だからそういったものがわからないのではないかとうがった見方もできようが、彼ほどの著名な歴史家には当然弟子やアシスタントがいるはずだから、その方面の知識のある人々からの情報提供を受けた上で、総合的に可能性が低いと判断したのだと思われる。反政府側の一族に属するFekini氏が、自身たちを含めた具体的な家門の名前を列挙した上で、部族単位での動員があることをデル=ボカ氏に伝えたという部分からは、特に2月の時点では各種情報産業によって強く寿がれていた、リビアの「色彩革命」の実態についての再解釈を提起するものである。


またデル=ボカ氏は、自身のインタヴューの経験から、カダフィ大佐が単なる「狂人」ではありえないことを示唆している。少なくとも、彼は「奇矯」であると同時に「知性的」でもあるのであり、「奇矯」なだけで「知性的」でも何でもない政治家が「我々」の社会にも山ほどいることを考えると、このアラブ・アフリカの指導者が飛び抜けてリーダーとしての資質に欠けているとは考え難い。少なくとも1996年のインタヴューの時点の「独裁者」には、国民にすら『緑の書』が無視されている実情を率直に認める度量があり、的確にインタヴューへ応答し、しかも外国語を理解している様子すら見せ(注1)、ここからデル=ボカ氏は「非常に積極的な印象」を受けたとすら述べている。自著の翻訳版にリビア当局の手により削除がなされたこと(この事実を翻訳家から知らされたのは、インタヴューのすぐ後であったという)、また最近では翻訳が回収処分にされたことによっても、こういった「印象」は変化していない。確かに個人の著作に対する恣意的な統制は、西欧ではそうそう起こらないことであるし、例え「リビアの友」と公式に呼ばれようと、そもそも歴史家として屈辱的なことであろう。しかしデル=ボカ氏は、こういった体験から個人的な「カダフィ憎し」に走るわけでもない。


彼はいまもって、カダフィ氏の統治がもたらした功績として少なくとも二点を明白にしている。一つは、石油資源のもたらす富を国民に還元し、他のアフリカ諸国と比較して高度の経済的安定をもたらしたことである。もう一つは英米の軍事基地を追放し、彼らによる自国および近隣諸国に対する植民地主義の再来を拒絶したことである。「これを行ったのは彼であり、イドリース王ではありません」。しかしこのような評価は、デル=ボカ氏が考えているカダフィ政権の問題点を指摘することを妨げるものではない。30パーセントという失業率(わたしも日本外務省およびCIAが提示しているデータを見なおしたが、この明らかに高すぎる数字はここ数年変わっていない)は、その経済・社会構造のいびつさを示してもいる。また、セイフ・エル=イスラム氏のように、政権の内部からですら「人権問題」に関心を持つ新世代の指導者が台頭するのは「抑えることができない」ものであり、今回の事態の原因も、政権が「部族社会」的な社会構造を「市民社会」的なそれに転換するまでには至っていないところに一つの原因がある(注2)。


ここで重要なのは、西欧の外部であるとともに、かつて自国が植民地支配を展開していたリビアという国に対する、デル=ボカ氏の慎重なアプローチのあり方である。彼は西欧で発展した形態の「市民社会」に生きる人間として、「人権問題」には高い価値を見いだしているし、リビアにおけるこの問題の解決は、かの国の内外両面における今後の安定的発展に欠かせないと明らかに考えている。イタリア―リビア間に2008年に結ばれた友好通商条約が、リビアにとっては「人権状況」を改善するきっかけとしうるはずであったとする彼は、自国が一種の「人権外交」を展開する余地を認めてはいる。しかしこういった「人権外交」の展開には、自国における植民地主義の清算が必ずセットにならねばならないこともまた、歴史家にとっては大前提である。この点、ベルルスコーニ首相は単なるビジネスマンにすぎなかったが、一方でイタリアの「中道左派」も問題を有している。彼らは実際にリビアで起こっていることの精査ばかりか、イタリア・リビア間の歴史的経緯についての再考を行わないまま、「カダフィ打倒」を叫ぶとともに、彼とベルルスコーニ首相を結びつけて攻撃している。ここには、自国の植民地主義の歴史についての考察が欠如しているとともに、抽象的な「独裁者対市民」という構図が、自国における政局打破(倒閣)の道具として機能しているだけという無残さしかない。


2月下旬の時点における西欧の報道では「カダフィ絶体絶命」が伝えられていたが、その点についてはデル=ボカ氏も追認し、注2で挙げた同月28日のインタヴューにおいても、大佐の運命は二つに一つであろうと予見している。いまだ支配下にある空軍基地から亡命するか、それともトリポリの兵営にとどまりそこで最期を迎えるか、どちらかであると(注3)。ご存じの通り、ここから逆にカダフィ派は反乱側の拠点であるベンガジに迫るまでに盛り返し、それがフランス・イギリス政府を中心とする「人道的介入」という名の空爆作戦につながっていくのだが、このような軍事介入もまた西欧の歴史的植民地主義の再演にしかならないとして、デル=ボカ氏は反対している。第一の課題は人民の流血を最小限にすることであり、明らかに誇張された情報で「人道的介入」を決定していくことは、かえって苦痛を拡大することに他ならない。カダフィ政権が勝とうと反カダフィ派が勝とうと、リビア(アフリカ)という地域およびその人民がどう幸福な方向に進むかというのが問題なのであり、かつての支配者たちであった西欧諸国がそれに関わる方法は、限られたものでなければならないし、実際に有効な手段も明らかに限られているのである。


『カダフィ』序文に書かれたところによると、大佐との会見までの待機時間に、デル=ボカ氏は自分のジャーナリスト時代を思い出していたという。アフリカ大陸の旧植民地だった諸地域が続々と独立国家となる1960年前後という時期に、彼はエチオピアのハイレ=セラシエ、セネガルのレオポルド・サンゴール、コートジボワールのフェリックス・ウフエ=ボアニーといった様々な人物と会う中で、今後のアフリカの発展を大いに期待した。しかしその後のアフリカに起こったのは、新たな植民地主義の展開していく様であった。すなわち、同時代のアメリカ、ソヴィエト連邦、中国(注4)の間の角逐が、アフリカ大陸にも持ち込まれ、「軍事独裁」ないしは「自称社会主義」を大量に生み出し、後にこういった状況に西欧諸国が提示した介入策もまたさらなる災厄を招いたのである。ただし、往時の自身も含めた「第三世界論者」もまた、この責任の一端を負っている。自己の願望(たとえば「社会主義」など)を対象に強烈に投影することで、植民地主義とは別の意味で、独立したアフリカ諸国に対する分析の誤りを引き起こしていたからである。デル=ボカ氏の場合は、特にギニアのセク・トゥーレ(一緒に自動車で国内をめぐったという)に期待をかけていたが、彼もまた後年には劣悪な牢獄を反対派で一杯にすることになったのであり、当時の自分が「無邪気に書いていたものに対しては、今日でもなお嫌気がさす」とまで言っている(注5)。しかし彼は、こういった「嫌気」から離脱したいという欲望から、アフリカへの失望や憎悪へと転じてはいない。むしろ、問題の根の深さや「独立」や「革命」が一筋縄ではいかないことを深く学ぶとともに、そういった事象を捉える自己の立場について問い直す機会を得たのではないだろうか。以前わたしは近代朝鮮史の開拓者であった梶村秀樹の本について取り上げたが、他者を描くまたは理解する前提としてまず自身の過去と現在に対する厳格に問い直そうとしている点で、梶村とデル=ボカ氏は共通するところが多いように思われる。


3月中旬に、デル=ボカ氏はジャーナリストおよび研究者の有志とともに、リビアへの軍事干渉への反対についての共同声明を作成した。大手の新聞には掲載されなかったようだが、インターネット上では複数の引用が見られる。それぞれの掲載のタイミングによって、署名者の増加や事態の進展を受けた前半の数行の変更(3月19日の「人道的介入」開始以降の)はあるものの、ここでは有志の一人であるGennaro Carotenuto(ジャーナリズム研究者)が、早い段階の3月18日の午前づけで自身のサイトに発表したヴァージョンの訳出を付したい。改行は一行開けに直しているが、太字による強調は原文を踏まえたものである。


http://www.gennarocarotenuto.it/15217-no-allintervento-militare-in-libia/


―――――



「リビアにおける軍事干渉への反対」


受け入れ難い投票の結果、国連安全保障理事会が飛行禁止区域とともに、「必要なあらゆる手段」(事実上空爆への道を開く)への依拠を許可したことにより、リビアに対するイギリスとフランスの切迫する軍事干渉(哀れなアラブイチジクの葉をまとった)についてのニュースが増大している。


我々、かの国に生じた歴史的な状況に対して重大な責任を有している一国の市民は、流血を阻止しこの危機の政治的解決にたどり着くことへ寄与する、すべての合法的活動を支持する用意があることを表明するのと同時に、主権国家に対して外部から指導されるすべての軍事行動に対する、確固とした我々の反対を表明するものである。どのような政治体制であろうと、どのような組織がそれを動かしていようと、リビアは主権国家として存在している。一つの国家が分断され、非常に重大な内戦の中にあり、すでに数千もの犠牲者を出していようとも、もつれてしまった結び目を合法的に解くことができる外部からの裁判権、ましてや軍事権はない。もし試みられたとすれば、そのような企ての中にいかなる合法性も存在しないのである。


この目的は、主要なエネルギー資源の供給業者として信頼できる一パートナーに、リビアを引き渡すことにある。飛行禁止区域が、毎度おなじみの「外科手術的な」ものとしての、爆撃の口実として設けられるであろうことを我々は知っているのであり、この空爆は軍人であれ市民であれ、リビア人民にさらなる死者を代価として払わせることになるであろう。運命の悪戯か、かつてのスエズ危機において果たしていた不吉な役割を、またもイギリスフランスが果たそうとしている。当時の彼らは、あからさまにそれぞれの権益のため活動していた。今日の彼らは、「人道的理由」によってそうするふりをしているのである。


Marino Badiale/Gennaro Carotenuto/Angelo Del Boca/Giulietto Chiesa/Massimo Fini/Maurizio Pallante/Fernando Rossi/Alex Zanotelli



―――――


(つづく)





(注1):それにしてもこのエピソードは、高貴なまたは特殊な力を持つ人間が、それらを隠して周りの人間に接することで、その真実の姿を見出そうとするという種の昔話を想起させないだろうか。わたしはこれを読んで、「カダフィ=匪賊の頭領」という自身のささやかなメルヘンを再確認した。


(注2):前回の文章でもわずかに触れた同月28日のインタヴューの中で、デル=ボカ氏は王国旗について、王制時代に採用されていた「多党制議会」の象徴として使われているのではないかと分析している。しかし彼はそれに戻る/戻すべきだとは明言していないし、それが「民主化」の印とも呼んでいない。彼は情報産業にとって口当たりのいいキーワードを意識的に避けているとともに、「民主主義」なり「人権」の要素は多元的なものであると考えているのではないだろうか。たとえば、安価に生活必需品が手に入るということは、他のアフリカ諸国ではなかなかないことであり、その意味で「生存権」については確保されているのだ、というふうに。こうした再配分の「権利」が確保されつつ、カダフィ政権によって蓄積された国富がより有効な事業や投資に使われること、またその決定プロセスが独占的または恣意的なものでないようにすること、さらには安定した社会基盤をバックに国家機構の過剰な治安装置を解体していくことについては、デル=ボカ氏もそれらを「民主化」と呼ぶであろう。しかし反乱側にそういった具体的な見通しがあるかどうかは不明なままである(むしろそのような実情を糊塗するのが「民主化」という言葉になっている)し、ましてや西欧諸国による「人道的介入」は、今後のリビアの「民主化」に活用できるこの国固有の様々な資源を破壊することに他ならない。


(注3):伝記『カダフィ』によれば、インタヴューの際にデル=ボカ氏は二冊の自著を贈呈している。一冊は日本でも紹介されている『ムッソリーニの毒ガス』で、もう一冊はファシスト政権による侵攻に対抗したハイレ=セラシエの生涯を記した『皇帝ハイレ=セラシエ:最後の「王の中の王」の生と死』(Il Negus: vita e morte dell'ultimo re dei re, Laterza, 初版1995年)であった。彼がエチオピア皇帝の伝記をわざわざ贈ったのは、「ハイレ=セラシエは、確かにカダフィのように専制的人物(autocrate)であったものの、彼の賢明さと歴史的功績に関しては議論の余地はない。その一方で大佐のそれについては、すべてがいまだに検証の過程にある」ことを相手に暗示したかったのだという。これは逆に言えば、「民主主義」や「人権」に重きをおく西欧の歴史家が、「専制的人物」でも「歴史的功績」を残しうると認めているということであろう。デル=ボカ氏のカダフィ大佐に対する予測が悲観的なのは、西欧での報道を十分に踏まえたものであるとともに、ハイレ=セラシエの運命――晩年にはその専制に対する不満の広がりが彼の改革のスピードを上回るようになり、最後には軍部のクーデタによって廃位・処刑されることになる――と彼のそれを重ね合わせていることにもよるかもしれない。


(注4):これは余談であるが、この一節はアフリカ大陸への外部介入の害悪を説くという意味では理解できるものの、冷戦期における二大超大国であったアメリカおよびソヴィエトの対アフリカ戦略と、同時期には限定された力量(特に経済力)しか有していない中国――かつては相応の豊かさを有していたが、植民地化によって地域総体の貧困が強まったという点でアフリカ諸国と共通する――のそれを一緒にしているという点で、若干の留保が必要なように思われる。かつてチェ・ゲバラもコンゴに渡っているが、これはアメリカやソヴィエトの事例と同列には諸君も見なし得ないであろう。


(注5):デル=ボカ氏は、2008年に『私の20世紀』(Il Mio Novecento, Neri Pozza)という自伝的著作を発表しているそうで、こういった話は詳しくその中にも書かれているだろうが、参照する時間はなかった。それにしても、80才を超した人間としてはおそるべき健筆ぶりではある。





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