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「中東革命」は誰のものか、または匪賊対革命ごっこ(その5)

ここまで、リビアへの「人道的介入」に関して、かの国の旧宗主国イタリアにおける懐疑的意見を紹介しつつも悠長に論じてきた。英・仏・米を中心とする「人道的介入」が開始されてすでに一カ月も経過したものの、いまだ我が国の情報産業――具体的には毎日新聞が典型的である――では、このような大変な事態を当然視しているか、そのようなニュアンスを加えなくても事実上の許可を与えているかのどちらかである(何の分析的・批判的視座もない速報ないしは「客観報道」なるものは「黙認」の別称に過ぎない)。念のため言っておくと、わたしは特別に「カダフィ支持」を訴えたいのではない。今回の文章を準備するうちに見かけた、日本人の運営するサイトの中でも、堂々とそのように公言しているところがわずかながらあったのだが、なぜかそれらには「アメリカ・ユダヤ人の金融資本による巨大な陰謀が」とか、「その世界支配を打破することができるのは小沢一郎しかいない」とか、わたしにはまったくもって理解不能な発言が並んでいた。ともあれ当方が考えたのは、カダフィ氏についてであれ反乱側についてであれ、確信するに足りる情報を持っていない(逆にそうでないものが洪水のように押し寄せている)状況下で、どちらかを明白に「支持する」などとそうそう言えるものではないし、ましてやそのような状況下において「中東革命」に欣喜雀躍できる外部の人々とは、果たしていかなる存在なのかということである。


すべての発端となった、カダフィ政権による「市民への爆撃」の実態は、結局なにも明らかにはなっていない。一方で「民主派」は、カダフィ政権による抑圧の責任の一端を担っていたことであろう元内務大臣や元法務大臣や元軍司令官のような人々を平気で合流させているが、これについても説得的な解説は何もない。明らかに奇妙なことが多すぎるのだが、情報産業はこうしたことに対する説得的な解説はしない/できないがゆえに、わざわざ別の未確認情報を取り上げ、読者の記憶と感情を上書きしようとしているようにすら思える(注1)。たとえば最近では、カダフィ政権側がクラスター爆弾を使ったとヒューマン・ライツ・ウォッチが訴え、これについての「国際社会の反応」を報道産業は当然のごとく取り上げていた。しかしこうした人々は、「人道的介入」を進める側が劣化ウラン弾を使用している可能性については検証を進めていないようである。ここでは最近の、イランの公的な日本語報道サイトのものを挙げておくが、クラスター爆弾の話題にさかのぼること10日以上前の時点から、西欧でもようやく高まりつつある反戦運動の間では噂になっていた。このサイトに挙げられている別の記事では「リビアの民衆抗議デモの徹底的な弾圧により、現在まで、少なくとも1万5千人が死亡、数千人が負傷しています」とある。すなわちイランの報道機関は、リビアで起こっていることを未だに「民衆抗議デモ」とみなしているものの、彼らにとっても劣化ウラン弾の使用は看過しがたいトピックであるということだろう。それにしても、長い悪影響を及ぼす可能性の極めて高い劣化ウラン弾が同胞に使用されることを「民主派」が黙認しているとすれば、「狂人」が非人道兵器を使うことよりもよほど驚くに値することではないか。


それでも、外部における「中東革命の支持者」の中には、仮に反乱側に「民主派」としての内実が薄かろうと、カダフィ氏を除く(イギリス政府界隈ではすでに、その「殺害」が明白に語られている)ことは、とりあえずリビアにおける「民主主義」を前進させると考えている向きがいまだに存在するのかもしれない。「それでも、カルタゴは滅ぼされなければならない」という言葉で知られる、古代共和制ローマの政治家・大カトーにならえば、トリポリもまた滅ぼされなければならないということになる。ならば、カダフィ政権が英・仏・米の大規模支援を受けた「民主派」に倒されたとしよう。すると、仮にそのこと自体の是非を問わないにしても、重大な二つの論理的帰結が導き出されることになる。


一つは、「独裁国家」「非民主主義的」と定義された国家に対しては、その国の「民主派」なる人々の要請があれば、問題の吟味もなしに、大国がほとんど無限定に介入してもよいという先例が築かれるということである。今後、イスラエル国内で迫害されているパレスチナ人が「こちらでもわたしたち「民主派」が虐殺されておりますので、彼らを空爆し、当方にも資金や兵器を援助し、そして政権を転覆するのを手伝ってください」などと、国連に泣きつく姿が見られるのだろうか? もっともイスラエルの側は、パレスチナ難民の政治的意思をほとんど何ら反映しないことを除いては非常に「民主的」な多党制議会を持っているので、空から爆弾の降ってくる心配はしなくてよいだろう。もう一つは、こうした「人道的介入」の流れは、大国の庇護=管理をよしとしない小国の軍事主義への傾斜を確実に招くであろうということである。2000年代に至り、核兵器を放棄することを公言したイラクが、その所持を口実にアメリカに攻め込まれた。さらにリビアは、イラク以上に自発的な核兵器放棄の姿勢を示していたにも関わらず、やはり西欧諸国に攻め込まれた。これでは、たとえば朝鮮が自身の「安全保障」としての核武装政策に自信を持っても当たり前ではないのか(注2)。以上二つの点より、「人道的介入」の成功は、カダフィが行ったとされる「虐殺」よりよほど大きい禍根を生み出すように思われる。


「人道的介入」の開始から一カ月が経過したが、未だにリビア政府は徹底抗戦の姿勢を見せており、決着はついていない。逆に言えば、今からでもこうした内戦を「国際世論」で止めるのは、決して遅くないということである。実際わたしは、止めることが可能であると思っている。停戦を実現するための国際環境という客観的な条件も、それを願う勢力にとって完全に不利というわけでもない。国連理事会においてイギリス・アメリカの反対に回ることの多いロシア・中国は、今回の介入にも概して批判的であるのに加え、EUの中ではドイツがフランスとはっきり対立している。こういった要素は決して小さくない。むしろ問題は、戦争行為を遂行している西欧諸国政府において野党的立場に現在ある人々――その多くは「中道左派」ないしは共産主義者を名乗っている――が、国家間のパワーゲームに走っている亀裂を有効に活用できぬばかりか、むしろ「中東革命」を疑問もなく喜んで受け入れているところにあるのではないだろうか。たとえばフランスについては、アメリカの左派報道誌「カウンターパンチ」のサイトに3月8日づけで発表された、ジャン・ブリクモン「リビアと人道の帝国主義の再来」で、その知的状況をうかがい知ることが出来る。


http://www.counterpunch.org/bricmont03082011.html


ブリクモン氏は、アラン・ソーカルとの共著『「知」の欺瞞』(田崎晴明ほか訳、岩波書店、2000年)での、いわゆる「ポストモダン」哲学の度を越した衒学性への警告とともに、近年では国際政治における「人道の帝国主義(Humanitarian Imperialism)」の批判者としての活動でも知られている。彼に言わせれば、各種左派政党に加え、日本のマニアの間でも知られる環境主義者ジョゼ・ボヴェ、その同盟者でかつての「新左翼」の旗手ダニエル・コーン=バンディからトロツキー主義者に至るまで、こと「人道的介入」についての態度は、新保守主義の哲学者であるベルナール=アンリ・レヴィと変わらない。彼らはリビアへの動向により慎重なラテンアメリカの左派を、カダフィ氏に「都合のよい馬鹿ども(useful idiots)」として見下しているが、こうした「都合のよい馬鹿ども」こそ、今後事態が自国に波及することを恐れ、可能な限りリビアへのアメリカの介入を食いとめようと懸命なのである。日本でも、ベネズエラのウーゴ・チャベスが停戦の仲介を申し出た(が蹴られた)という話は流れていたが、他にも「ジミー・カーターを国際特使として担ぎ出す」というアイディアが出ていたとは知らなかった。元アメリカ大統領としての権威はもちろんのこと、朝鮮やキューバへの特使にもなったことがある彼なら、「民主派」側にもカダフィ政権側にも一定の説得力が生まれえようし、実際にスペインが提案に興味を示したというのも理解できる。ならば西欧諸国の「左派」は、ラテンアメリカの左派を上回る問題の具体的解決に寄与しそうなアイディアを何か出しているのかというと、まったくそうではない。彼らは「独裁者」や「人権侵害」といったタームを振り回すばかりの「モラル的批判」しかできず、結果として戦争遂行勢力の「受動的チアリーダー」と化しているのである。「何よりまず、政治的営為とは何をすることを意味するのかを学びなおすがいい(first of all, relearn what it means to do politics)」という、ブリクモン氏の文章の最後の一節からは、戦争遂行勢力にとって「都合のよい馬鹿ども」はどこの誰なのかという彼の苛立ちが伝わってくる。


わたしは、前回の文章で書いたような意味での「民主化」――「再配分の「権利」が確保されつつ、カダフィ政権によって蓄積された国富がより有効な事業や投資に使われること、またその決定プロセスが独占的または恣意的なものでないようにすること、さらには安定した社会基盤をバックに国家機構の過剰な治安装置を解体していくこと」――について、誠実に考える人間が反乱側にはゼロであるとも思わない。しかし外部の人間が「中東革命」という言葉に浮かれるだけで、そこで起こっていることの実態を把握できず、また今後世界に展開しうる事態をまったく予測できない場合、そうした人々は他人の「革命」の尻馬に乗った「革命ごっこ」に興じていると思われても仕方がないであろう。「人道的介入」が始まる段階に至って、西欧の各種「左派」の間ではようやくカダフィ氏に対する罵倒が収まりを見せ、軍事行動への反対もある程度には広がった(注3)。しかし、現在反戦デモにいる平和主義者や「中道左派」、また多くの共産主義政党の多くは、2月下旬の時点では怪しげな情報を鵜呑みにして「イドリース王の旗」を掲げる人々と一緒に、各国のリビア大使館の前に詰め掛けていたのであった。「空爆」の通るカーペットを敷いておいて、あとからそのカーペットを引っ張って相手を転ばそうというのは、難しいし二度手間ではある。しかし、この過ちは何としても正されるべきである。


最後にもう一つだけ、諸君とともに問題を再考するための材料を提供したい。これまでの話の中でも少しだけ出てきた、エチオピアについてである。第二次世界大戦に先立つ1935年の秋、ムッソリーニのイタリアは、当時アフリカにはリベリアと合わせて二つしかなかったこの独立国への進軍を開始したが、その際に口実の一つとなったのが「人道的問題」であった。すなわち、1924年にエチオピアが国際連盟へ加入する際には「奴隷制の撤廃」が条件とされており、いまだそれが徹底されていなかったことにファシズム政府は目をつけたのである。単なる国境紛争をきっかけとした征服ではなく、奴隷制支配に苦しむエチオピア人を救うための戦争であるという口実に従い、ファシスト党の最古参幹部の一人であり開戦当初の総司令官であったエミリオ・デ=ボーノ将軍は、征服地において「奴隷解放宣言」すら発布したという。しかし今日、この戦争が「奴隷解放戦争」だったと考える人間は、当のイタリアにすらほぼ皆無である。また、当時イタリアの宣伝機関は、エチオピア軍が国際条約で禁止されていたダムダム弾を使用したとして喧伝して回ったが、その一方でイタリア軍が活用していたのは、圧倒的に優勢な空軍力と、同じく国際条約で禁止されていた糜爛ガスであった(注4)。さて、このようなエチオピア戦争に、当時存在した各種の共産主義者、社会民主主義者、自由民主主義者、無政府主義者たちは、どのように反応していたのだろうか。ぜひ諸君も各自で調べられたいと思うが、わたしの見るところでは、彼らは残念ながら不正きわまるファシストの戦争を阻止するには十分強力ではなかったようである。しかしながら、少なくとも彼らの大半は現在の「左派」と異なり、不正な戦争を「解放」として糊塗する仲間にもまた入らなかったように思われる。もちろん当時のイタリアの指導者と違い、ニコラ・サルコジやデヴィッド・キャメロンは「ファシスト」ではない。しかし彼らが戦争の遂行者であることは確かであり、その片棒担ぎをしている人々が、どのような政治的存在価値を独自にアピールできるのかということである。





(注1):それにしても、2月末に敗北は時間の問題であると伝えられていたカダフィ氏が完全に反乱側を圧倒するにいたったというのは、どういうことなのであろうか。彼がアフリカ各地から金に糸目をつけず傭兵をかき集めたからとか、王制を打倒した時に発揮された戦略家としての彼の勘が未だに鈍っていないからとか、それらしい説明はしようと思えばできるだろう。しかし、そもそも最初からカダフィ氏の側が客観的に見て劣勢でも何でもなく、現地の記者たちが情勢の綿密な分析もなしに思い込みと予断だけで書いていただけだとしたらどうだろうか。「カダフィ劣勢」情報そのものが、「報道」というより、「民主化」という言葉を美食家的に愛する顧客のためにシェフとしての記者があつらえた「料理」だったのではないか、ということである。かつてサダム・フセインという魚は、至極おとなしく珍味として料理された。すでに1991年の湾岸戦争で下ごしらえは済んでいたためである。しかし今回、マナ板の上の鯉だと思われていたカダフィ氏は、実際には銛を何本突き刺してもなお生きているサメであり、厨房内でいまだ飛び跳ねているのであった。以降、介入=空爆が始まるまでの記事は、彼らの希望的観測を隠密裏に軌道修正していたに過ぎないのではないだろうか。また、こうした西欧の情報産業による「反カダフィ派の勝利は間近」とした報道が、反乱側なり「民主派」に対して自身の力量への過剰な自信を持たせ、たとえ政権転覆とはいかずとも適当な仲介者を経ての相手の大幅な譲歩を引き出す「手打ち」をするための、決定的なタイミングを逃させることになったという考え方もできないだろうか。


(注2):少し前にわたしは、「石原慎太郎とカダフィは似ている」などと書いている日本人のツィッターを見かけたことがある。何か気の利いたことを言ったつもりなのかもしれないが、わたしに言わせればこの両者に共通点など存在しない。石原都知事は、石油収入を還元して国民の生活水準を大幅に改善しなくとも、もしくは「民主派を弾圧」するために「空爆」しなくとも、軽々と「民主的」に1000万人の頂点に立つ権力者――リビアの人口は600万以下である――として、四度も当選が出来るのである。しかしより驚かされたのは、在日朝鮮人の書き手(韓国だけではなく、朝鮮の側にも愛情を持つと明言している)が、そのような文章に「そうですよね」と同意を与えているのを目撃した時である。「我々」よりこうした問題に対しよほどセンシティヴである(「我々」がそう生きざるをえなくさせているからである!)人々も、リビアの事態を対岸の火事か何かのように思っているとすれば、いかに日本国における知性と情報の環境が泥沼の底にあるかを示していると言えよう。


(注3):ところで彼らのスローガンの中には「カダフィでも空爆でもなく」などと訴えているものがあるようであるが、これは相当に偽善的である。「カダフィを支持するリビア人にも、そうでないリビア人にも平和を」とでも言うのならまだ分かるが。まず、このような表現には、カダフィ氏がどこまでの犯罪行為を行ったのかどうか、反乱側がどこまで「民主派」としての内容を有しているかどうかについての、自分たちの社会に属する報道機関の提供している情報のあり方への根本的な追求が含まれていない。さらに、西欧の人間はリビアにおいてカダフィ政権が存続してきたことよりも、自身の政府が主催もしくは協力している空爆作戦にこそ多大な責任を負っているのだから、まずは「空爆を止めよ」と言うべきである。これが真っ先に出てこないのは、空爆を止めればカダフィ政権を止められないし「民主派」が虐殺されることになるという、英・仏・米政府の繰り返している前提=公式見解を半ば認めているようなものである。確かにこの三国が完全に手を引けば、カダフィ氏がおそらく勝利を収め、その結果「匪賊の頭領」的に、「民主派」の指導者たちを裏切り者として文字通り始末しようとする可能性はあるだろう。しかしわたしには、彼にその権利がまったくないとは言いきれない。反乱の指導者たちにはどう見ても高度な「自律性」というものが見て取れない。仮に外側の人々が、反乱側を全面的に支持するにしても、また新しく英仏から軍事顧問団を受け入れ、アメリカからは2500万ドルもの大金を受領させれば、相手に「反逆罪」を宣告される口実をさらに与えるようなものである。さらに、この「AでもなくBでもなく」というセリフは、40年ほど前の「新左翼」がしばしば口にした「モスクワでもワシントンでもなく」というスローガンを想起させる。しかしこうした人々は、両体制に等しく敵意を抱いていたというよりは、自身が属しそのあり方に責任をより強く有する「ワシントン」的世界より、「モスクワ」的世界に対する憎悪ばかりを次第に強めていったのではなかろうか。実際彼らの多くは、1980年代末に「モスクワ」の支配圏が崩れたのち、「ワシントン」の展開する軍事行為(ユーゴスラヴィア、アフガニスタン、イラク……)に対し、時には堂々と、時には「是々非々で」「留保付きで」、いずれにせよ結局は支持する人間となった。いつの間にかスローガンは「許せないのはモスクワだけ」に代わっていたわけである。


(注4):この時期のイタリアをより詳しく知りたい方には、デル=ボカ氏の『ムッソリーニの毒ガス』の他にも、石田憲『地中海新ローマ帝国への道:ファシスト・イタリアの対外政策 1935-39』(東京大学出版会、1994年)は、かなり専門的ながら参考になる。またエチオピア側から見た戦争については、同国の通史としても読める、岡倉登志『エチオピアの歴史:“シェバの女王の国”から“赤い帝国”崩壊まで』(明石書店、1999年)を見よ。





【付記】


いくつか間違いが発見されたので訂正する。「ベルナール・アンリ=レヴィ」は「ベルナール=アンリ・レヴィ」が正しい。これは「ジャン=ポール・サルトル」が、ポール=サルトルという名字でないのと同じである。さらにもともとの文章では、「兵器」が「兵器」になっていた。ある意味「格の違う兵器」には違いないが、そういうことが言いたいわけではない。


ついでなので、情報も追加する。まず、4月28日づけの『読売新聞』によれば、『ニューヨーク・タイムズ』がカダフィ氏の娘へインタビューをしたという。このアイシャ氏が「実は当方は内通者を飼っている」などとわざわざ語っているのは、事実というより敵の間に疑心暗鬼を生みだそうとする古典的な(流石は「匪賊の頭領」の娘と言うべき?)離間策であろうが、相手側に汚いイメージをひたすら塗りつけるだけの西側の戦争推進勢力よりは、やることがよほどスマートではある。「これが我々の得る見返りか。大量破壊兵器保有国は今後、リビアと同じ運命をたどらないよう、放棄に応じなくなるだろう」という言葉については、つけ加えることはまったくない。


もう一つは、4月27日づけの『時事通信』の記事で、反乱側の61部族の代表者たちが共同声明を出したというものである。彼らに言わせれば、部族社会が分断され「民主主義」的に結合できないのはカダフィ氏のせいということである。リビアにどれだけの部族があるのか知らないが、仮に一部族あたり1万人から数万人と考えても、かの国の人口からずれば結構な割合になるから、彼らにもそれなりの理はあるのかも知れない。しかしながら、この声明を公表したのがベンガジの反乱勢力の代表部ですらなく、フランス人であるレヴィ(記事では「レビ」)氏であるというのは一体どういうことなのか。これはわたしも見過ごしていたのだが、3月30日づけの『朝日新聞』の記事によれば、レヴィ氏は単なる保守主義の哲学者という枠を超えて、いまやサルコジ大統領の枢密顧問官とでもいうべき存在らしい。


一学者が議会どころか外務大臣および官僚すら飛び越え、大統領の軍事介入という決定に重大な影響を与えているというのはいささか信じがたい話――フランスが「民主主義的」だからというわけではなく、閣僚や政治機構は本当に出し抜かれたのかという意味で――である。ともあれ、こうして開始された「人道的介入」は、別の名前で呼ぶべきではないか。たとえば「人間の顔をした野蛮」とでも。


(2011年5月1日)




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