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「中東革命」は誰のものか、または匪賊対革命ごっこ(夏休み特大号その1)

リビアの状況について、再び反乱勢力が優勢に立ちつつあると報じられた一方、その反乱勢力の中でリビア政府の閣僚から転じた幹部の暗殺事件が起こり、暫定評議会の「内閣」総辞職に至るなど、全体が不明瞭な点は相変わらずである。特に暗殺事件について、7月30日づけの『産経新聞』の記事では「そもそも反体制派には明確な指揮系統がないといわれ、影響は限定的とみられる」などと書かれているが、考えようによってはなかなかの話である。仮に彼らが現政府に勝利したとして、軍事組織の「明確な指揮系統がない」まま内部分裂――暗殺事件をその兆候とする見解は現在少なくない――が起こったとしたら、さらなる内戦が起こるということではないか? そもそも中央の統制を外れた軍隊というとわたしは関東軍を思い出すし、この記者もそうしたかどうかとも考えたものの、時空を超えた大日本帝国さらには神代との精神的紐帯を四六時中誇っているオカルト組織の関係者が歴史的教訓とでも言うべきものを想起すると思う方がバカバカしいと気づくのに時間はいらなかった。


それはさておき、アンジェロ・デル=ボカは、6月中旬から7月初頭の時点において、リビアの軍事状態は「千日手」であると指摘している(注1)。すなわち、リビア政府は、NATOのたびたびの勝利宣言にもかかわらず、なお戦局を維持するだけの軍事力を温存している(反乱勢力を完全に追い詰めれば、NATOが陸軍の投入に動く可能性が高いから、そこまではコマを進められない)。一方、ベンガジ側の武装闘争も有効に勢力圏を広げられない(NATO側による大々的な援助と、トリポリ側への空爆という松葉杖がなければ、そもそも対峙しえない)。ゆえにこれ以上死者を出さないよう、西欧諸国は停戦プロセスに向かわねばならないというのが彼のオピニオンであったが、現時点においても「千日手」状態が破れたとは言い難いところがありそうである。


ところで先日、わたしは6月から7月にかけてリビアを取材したという日本人のブログを偶然目の当たりにしたのだが、残念ながら以前言及した『毎日新聞』にとどまらない、「我々」の報道産業の全体に及ぶ悲惨さを感じさせる内容であったと言わねばならない。念のため言っておくと、わたしはこのブログの書き手が完全にベンガジ側に立っていることが問題だとはまったく思ってはいない。カダフィ氏の政府も「火のないところ」ではないと前に書いた通りである。しかし、この内戦がリビアにおける純粋な「悪逆なるカダフィ」対「立ち上がる市民」による一対一の決闘だというのは、仏・英・米・伊といった諸国の動きをみれば絶対にありえないことであり、内戦の取材をするならするで最初にそのあたりについて見解を示してくれなければ問題ではと思うのだが、この書き手はそうした疑問が世界中でなんら生まれていないかのように振る舞っている。つまりこれは、空爆開始以前にばらまかれていた「物語」で頭をいっぱいにした人間が、自分の中にある固定観念を再確認して帰っただけの記録であると思われる。


いくつか記事から目につく、もしくは鼻につくところを拾ってみよう。たとえば、冒頭の記事のタイトルが「いざカダフィ退治」ウンヌン。この言葉は一体何なのか。「退治」というのは、桃太郎の鬼退治とかスサノオのヤマタノオロチ退治とか、要するに「怪物」をやっつけてメデタシメデタシというファンタジー世界のものであり、こうした部分の端々に開かれた精神ではない単なる軽率さが表れている(注2)。「最前線で共に戦ってます」などといったところで、そもそもあなたが銃を手にしているわけじゃないだろう。外部の人間が本当に銃を手にしていたとしても、それすら「共に戦っている」証明にはなり得ないというのに(たとえばテルアビブにおける足立正生について、諸君は彼がどこまでパレスチナ人と「共に戦っていた」とみなすだろうか?)。 これは、外部の人間が他人の「革命」に勝手に陶酔する「革命ごっこ」の典型である。


続いて、「カダフィ政権は金や車をちらつかせて教養の薄い人々を従わせ、同族に殺し合いをさせている」という「説明」。そもそもリビアは多くの「部族」が混在する地域であり、むしろそれを「リビア国民」という「同族」に統合しようとしたのがカダフィ大佐であるという評価があるという点はさておき、「教養」(ふつうは「ない」「浅い」などと表現するものであり、「薄い」とは言わないのでは?)のくだりも疑わしい。ベンガジの人々が「敵」をそう解釈するのは理解できないことはないが、この書き手は「教養の薄い」リビア人が財物に目がくらんで簡単に人殺しをすると言いたいのだろうか。もし日本で「教養の薄い」日本人はそのようにふるまうのだと何者かが発言したら、それは明らかな侮蔑としてとらえられるだろう。それでは、リビア政府は意図的に「愚民化政策」を採って「教養の薄い」人間を大量生産し、飼いならしているということか。これはすでに指摘されていることだが、リビアは識字率や大学進学率といった指標で見る限り、アフリカ大陸で抜きんでている。つまり「教養」を備えた人間が、それなりのマッスとして存在すると考えられる国だということである。国連開発計画(UNDP)のサイトでは、1970年から2010年までの「人間開発指数」の推移が見られるが、カダフィ政権の40年においても滞りなくこの数値は伸びており、特に教育部門に関してはアラブ諸国の中でもトップである。つまりデータからは「カダフィはリビアの教育水準を飛躍的に高めたが、それによって国民は彼の意図した枠を超えて政権の矛盾を感知するようになり、反乱に至ったのである」と、まったく逆の(一種の弁証法的な?)説明が出来てしまう。


ほとんどリビア人同士の決闘としてのみ内戦を見ているこの書き手も、わずかに「人道的介入」に言及している。「アメリカやNATOの他国への軍事介入に何かしら裏があるといつも言われるのはチベットやウイグルといった本当に助けが必要なところには全く介入しないから」。今回の「人道的介入」には「裏がない」ととらえられているようであるし、リビアとともに「チベットやウイグル」が「本当に助けが必要なところ」として挙げられている。つまり、トリポリの空爆を容認するのみならず、中国に対してもアメリカのいわゆる「人権外交」では充分ではないから、「チベットやウイグル」のために北京を空爆せよということになるのだろうか(注3)? その発想はどこから出るのかが興味深い。軍事費世界第一位の国が世界第二位の国を攻撃したら、それは第三次世界大戦の勃発を意味するであろうから。


このブログからはベンガジの反中央=カダフィ感情は非常によく分かるが、そこから書き手がものを遡って考えることをしていない。記されているベンガジ側の人々の「生の声」をそのまま並べると、しばしば混乱したものが現れるのだが、それはこれらが虚偽だということを意味するのではなく、むしろこうした矛盾の中に読み解かれなければならないことがあるのではないか。たとえば、反政府陣営の中にも、アメリカの陸軍派遣の噂について「絶対に許さない」とする人や、「アルジャジーラなんかはカダフィが元々嫌いだから嘘や誇張がホント多いよ」とする人がいるというのは、確かに一つの知見である。しかしそうした要素を拾っているにも関わらず、過剰な対象への同一化と、「敵」に対するマンガ的想像力がすべてを台無しにしている(注4)。暫定評議会の中にいたカダフィ大佐の元側近の暗殺について冒頭で書いたが、この書き手がそのような事件が起こる兆候をつかみ、警告なり予言なりをできず世界に手腕を示す機会を逸したのは、ひとえにこのためだろう。まあ、最新の7月20日の記事において、エジプトで「なかなか進まない新政府による改革の促進や前内閣閣僚など(革命時に民衆を弾圧した戦犯や汚職政治家)の早期訴追」について語りつつ、リビアの暫定評議会になぜか(本当になぜなのか?)鎮座している「前内閣閣僚」の行動については考察らしい考察を与えていない以上、それも無理なからぬ話ではある。


ジャーナリストとして戦場に赴くというのは、一定の「勇気」が必要となることであろう。「現場」の人間に寄り添うのもよい。しかしそれ以前にこの職業には、「現場」の人間が見ることのできないものを洞察し、持っていない視野とデータで分析するための、適切な「知性」――この有無は「教養」の有無とは関係がない――が必要となる。それなくしてはいかなる「現場」にいたところで、何を見ようと聞こうと、たいしたことは書けないのではないか(注5)。正直、事前にリビアの何を独自に調べたのだろう? 2月か3月の時点で急いでリビアに飛び込んだというのならまだ分かる。しかしこの書き手が「現場」に赴いたのは、事態の発生から4ヶ月後のことである。一定の余裕を持って、リビア政府と反政府勢力それぞれのあり方や、その外部諸国の動きのあり方を吟味する時間はあったはずなのだが。この書き手は、リビアという国家とその人々の運命には結局のところ関心がないのかもしれない。本当に関心があるのは、「革命」というムードの醸し出すヒロイックさ、そして危険の中で取材する自分自身のヒロイックさなのだろう。





(注1):民主党系の『ウニタ』も、6月26日づけでデル=ボカ氏のインタヴューを掲載したが(引用はこちらなど)、歴史家がすでに別の媒体で言っていることと変わらない内容しか引き出していないなおざりなものであり、同党のいまだ変わらぬ好戦的姿勢に疑念を持った支持者に対するアリバイづくりとでも言うべき質のものでしかないように感じられた。


(注2):加藤清正の虎退治というのもあるが、この書き手は企業ジャーナリスト時代には「北朝鮮」や「脱北者」の取材にも携わっていたようなので、今後朝鮮半島で一変事あれば「金正日退治」にも喜び勇んで「従軍」することが予測される。


(注3):1999年のユーゴスラヴィア紛争の際、NATO諸国の「人道的介入」を進めていた飛行機が、中国大使館に「誤爆」したという事件があった。この事件について、西側諸国の政策に否定的な国家に対する牽制球(牽制爆弾?)だったのではないかと疑う人がいた。しかしそういった声からむしろ、彼らが将来の仮想敵に「軍事介入」する時に「国際世論」がどう動くか試すための、一種のテストではなかったかとわたしは感じたものである。今回のリビアにおいても、朝鮮大使館に「誤爆」がなされたというニュースが流れた。わたしがこの書き手の友人なら、「大丈夫! アメリカやNATOは“本当に助けが必要なところ”に“助け”を与えるタイミングをちゃんと計っているよ!」と、微笑とともに励ますであろう。


(注4):「カダフィはピッコロ大魔王だ。傭兵は口から生まれた部下」。拍子抜けするというか、実に安いたとえである。必ずしもマンガをたとえに出すことが悪いというわけではないが、この文脈なら「リビアの悲惨な“同族殺し”の唯一の原因はカダフィであり、彼が憎い」とでも言えば十分である。つまり、「ピッコロ大魔王」というフレーズで日本の読者――まさか他国の取材者に「カダフィってピッコロ大魔王みたいじゃない?」などと話を振っていないことを祈りたい――の共感を買い叩こうというのが安っぽいというのだ。そもそもピッコロは、一度「大魔王」として倒された後に、若返って復活するばかりか孫悟空たちの仲間になるではないか。わたしは一瞬、カダフィ氏が倒された後にその息子であるセイフ・エル=イスラム氏が、ベンガジの子弟たちの師匠として、NATOやアメリカという名のベジータやフリーザとの戦いを指導する様を想像してしまった。まさに後期『ドラゴンボール』の展開である。


(注5):2月の内戦勃発の時点で、リビア研究者の日本人の方による臨時ツィッター(まとめはこちら)があった。わたしが読んだのは一連の記事を書き出しはじめた後になってのことであるものの、今見直しても示唆を含む内容だと思う。この方の発言から「注4」の補足にもなる一節を引かせていただこう。「乱暴な表現になりますが、「魔王カダフィがリビア政府全てを牛耳っていた」というようなドラクエ的発想からは、何も見えてこないどころか、極めて歪んだリビア像しか引き出しません」。しかしさらにふるっているのは、読者の一人の感想である。「こういう視点を持って見ずに「悲しい」だの「怒り」だの言っていたら、リアルタイムの他国の出来事を見るという「経験」を全てムダにすると思う」。





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