「中東革命」は誰のものか、または匪賊対革命ごっこ(補足++++)

諸君もご承知の通り、リビアの事態が大きく動いた。「現時点においても「千日手」状態が破れたとは言い難いところがありそうである」と前回書いたわたしの見立ては、どうやら誤っていたようであり、お恥ずかしい限りである。イタリアの一般紙の多くのトップでは、ベルルスコーニ首相の御用新聞である『リベロ』や『ジョルナーレ』あたりを別にすると、ほとんどが大きな写真とともに「トリポリ陥落(へ)」と謳っている模様である。新聞以外でも、様々な人物のコメントが各所でなされている(たとえばアンジェロ・デル=ボカ)。


これまで約5か月にわたり、手探りでリビアの戦争についての(ニッチな)情報を集めて書いてきたが、この戦争はあらゆる次元にわたって大変な諸問題を噴出した(している)ものであり、次回の文章ではそれらを改めて整理する必要があると思っている。ただ、近い将来においてそれを提示する前に、一つだけ急いで紹介しておきたい文章がある。当シリーズの「その5」で、「リビアと人道の帝国主義の再来」の筆者として紹介したジャン・ブリクモンが、新たにDiana Johnstone との連名で、同じ「カウンターパンチ」誌のサイトに8月16日づけで発表した「誰がリビアの救い手からリビアを救うのか?」という一文である。今回の事態において一番忌々しい要素の一つが、まさにここに書かれていることであり、まったくもって永久に救われないのは「リビア」ではないというこの二人の意見に、わたしは120パーセント同意する。昨夜この原文を読んだ時には、英語なのでサイトへのリンクだけ張ろうと最初は考えたが、問題性――少なくとも私見によれば――を鑑み、後半部分のみを数時間で粗っぽく訳した。緊急ということでご寛恕願いたい。こんなものはあてにならぬという諸君(ごもっともである)、また全体を読みたいという諸君には、ぜひ直接原文でご覧いただきたい。


http://counterpunch.org/bricmont08162011.html


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誰がリビアの救い手からリビアを救うのか? 〔※後半部分の抜粋〕


8月16日

ジャン・ブリクモン/ダイアナ・ジョンストン





このリビアにおける小さい戦争は、NATOが犯罪的であるとともに無能であることを暴露している。


またそれは、NATO諸国の左翼組織がまったくの役立たずであったことをも暴露している。反対することが容易な戦争というものはおそらく存在しない。しかしヨーロッパの左翼組織は、それに反対しなかったのである。


3か月前、リビアについてのメディアの誇大宣伝がカタールのテレビ局アルジャジーラによってなされていた時、左翼組織はためらいもなしに賛成する立場をとった。数十ものフランスの左翼党派と北アフリカの諸組織は、3月26日にパリで「リビア人民への連帯の行進」を行うことを呼びかけた。完全な混乱の陳列の中で、これら諸組織は「リビア人民の唯一の合法的代表としての国民暫定評議会の承認」と同時に、「外国人在住者と移民の保護」を呼びかけていたのだが、実際のところこうした外国人在住者や移民は、評議会に代表された反乱側そのものから保護される必要があった。暫定評議会を支持する軍事作戦を暗黙のうちに支持する一方、これらのグループは「西側政府とアラブ連盟の二枚舌」と、こうした軍事作戦の「エスカレーション」の可能性に関しての「警戒」をも呼びかけていたのである。


こうしたアピールに署名した諸組織には、亡命中であるリビア、シリア、チュニジア、モロッコ、アルジェリア人の反対派グループだけでなく、フランス緑の党、反資本主義党、フランス共産党、左翼党、反人種主義運動MRAPに、金融グローバリゼーションに批判的な民衆教育運動で広い基盤を持つATTACまでが含まれていた。こうしたグループは一体として、社会党――「警戒」の呼びかけすらないまま彼らの側で戦争を支持した――の左に位置する、フランスの政治組織潮流の領域を実質的に代表している。


NATOの爆撃による市民の犠牲者のような、国連安全保障理事会の決議からの逸脱に対し、約束された「戦争のエスカレーションに対する警戒」がなされた形跡は何もない。


仮定された虐殺を止めるために「我々は何かをしなければならない」と訴え行進に参加したアクティヴィストたちは今日、仮定されたものではなく現実に目に見えるものであり、「何かをした」人びとによって起こされた虐殺を止めるためには何もしていない。


左翼党派の群衆における「我々は何かをしなければならない」の根本的な誤謬は、「我々」の意味合いに存している。もし彼らが「我々」を文字通りに意図したのなら、その時彼らが唯一できたことは、反乱側に立って戦う国際旅団のようなものを組織することであった。しかしもちろん、反乱側を支援するために「我々」は「何でも」しなければならないという主張にもかかわらず、そのような可能性については誰も一顧だにしなかった。


こうして、彼らの「我々」が事実上意味しているのは、西洋列強、NATO、そしてとりわけ、この戦争を遂行するだけの「無類の能力」を持つ唯一者としてのアメリカである。


この「我々は何かをしなければならない」群衆はいつも、二種類の要求を混同している。一つは、実際に彼らが、西欧諸国によってなされることを期待できるもの――反乱側の支援、リビア人民の唯一の合法的な代表としての暫定評議会の承認――であり、もう一つは、実際に彼らが、列強諸国にそのようにさせることが期待できないとともに、彼ら自身それを達成することがまったく不能であるもの――爆撃を軍事目標に限定し、市民を保護し、国連決議の枠内に慎重にとどまること――である。


これら二種類の要求はたがいに矛盾している。内戦においては、どちらの側も国連決議の厳密さないしは市民の保護について、優先的に考えることはない。どちらの側も勝利することを願っている、ただそれだけであり、そして復讐への欲望がしばしば残虐行為を引き起こす。もし誰かが反乱側を「支援する」とすれば、その人は事実上、彼らが勝利に必要であると判断するすべてをさせるための、白紙委任状を与えていることになる。


しかしその人は、反乱側ほど血に飢えてはいないかもしれないが、さらに強力な破壊手段を手元においている、西側参戦国およびNATOにも白紙委任状を与えているのである。そして彼らは、サヴァイヴァル・マシーンとして活動する巨大な官僚機構である。彼らは勝利を求める。さもなければ彼らは、資金と資源の損失を導く可能性のある「信用」の問題(戦争を支持した政治家たちがそうするような)を抱えている。ひとたびこの戦争がはじまると、断固とした反戦運動を欠いた中で、国連決議によって許されたことにその活動を制限させるようNATOを束縛することのできる、いかなる勢力も西側諸国にはさっぱり存在しない。そして、左翼党派の後者の一連の要求には誰も耳を貸さない。彼らは、その意図は純粋であるところの戦争賛成左翼〔pro-war left〕であることを、自ら証明しようとしているのに過ぎない。


反乱側を支持することによって、干渉賛成左翼は効果的に反戦運動を殺すこととなった。実際、内戦において外部からの干渉による助けを必死に求める反乱側を支援しつつ、同時にこうした干渉に反対することに、何の意味があるのだろう。干渉賛成右翼の方がよほど首尾一貫している。


戦争賛成左翼と右翼はともに、「我々」(文明化された民主主義的西洋を意味する)が、他国に我々の意思を押しつける権利と能力を持っているという確信を共有している。人種主義と植民地主義を非難することを商売道具〔stock in trade〕にしているフランスの運動は、あらゆる植民地主義的征服が、専制的人物として非難されたペルシャの太守、インドの諸侯、アフリカの王たちに対する形で行われたと想起すること、またはフランスの諸組織がリビア人民の「合法的な代表」は誰かを決定しているという何かしらの奇妙さについて指摘することに失敗している。


わずかな孤立した個々人の努力にもかかわらず、ヨーロッパにはNATOの猛攻撃を止めるどころか、それを緩和することのできる民衆運動すら存在しない。唯一の希望は、反乱側の自滅、もしくはアメリカの議会反対派、もしくは寡頭支配者たちによる支出のカットくらいだろう。しかしその一方で、ヨーロッパの左翼は歴史上もっとも露骨に弁解の余地なき戦争の一つに反対することで、復活する機会を逸しているのである。ヨーロッパそれ自身が、こうしたモラル的破産によって苦しむことになるだろう。



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