Déjà vu/Jamais vu(1)

去年の「匪賊対革命ごっこ」シリーズの中で、わたしはMarinella Correggiaというイタリアの女性平和活動家の文章を紹介したことがある(「夏休み特大号その2」および「補足☆」)。今年3月、このコッレッジャ氏によって、リビアとシリアにおける事態についての情報サイトが新たに開設された。イタリア語を中心に、英語やスペイン語の文章も含めたサイトの名前は「シビア/リリア〔SibiaLiria〕」。「リビア/シリア」ではない。開設にあたってのメッセージによれば、音節こそ似ているが内実は大きく異なる二国が、ほとんどコピーのごとく似通った危機に陥っていることを示唆したタイトルであるが、もちろんそれ以上の皮肉も込められたものであろう。この両国について大した知識もなく、区別だってろくにつかないのに、なぜ「民主主義」を享受していると自称する人々は、他人の「革命」を上から目線で楽しめるのか、と。


わたしは今年に入って「シビア」および「リリア」についての主体的な情報収集を一時中断していたが、「yahooニュース」あたりで検索される「我々」の報道の有り様は相変わらずひどいものである。「「飛行禁止区域」を支持し、反乱側を「自由のパルチザン」、「革命的青年」、「独裁者と戦う偉大な人々」「反乱において全く非武装な人民」〔中略〕と定義していた人々は――左派も含め――いまや沈黙している」とした、彼女の2012年4月14日づけの記事の題名は「何故リビアが何の教訓にもなっていないのか?」。まったくその通りである。あまりの憤怒ゆえか、サイト中のコッレッジャ氏の文章にはミスタイプも多い(引用する人物の名前を間違えるのはいただけない)し、幾分無理に論証用のソースをかき集めている感はあるが、こうした問題提起の性質そのものは正当であるとわたしは考えるし、ゆえにこうした意見を持っている人が海の向こうにもいることを諸君に再び紹介する意義もあるだろう。


例によっていい加減な翻訳なので(誤りについてはこっそりご指摘願いたい)、原文を当たるぞという方は下記のアドレスに飛んでいただきたいが、一つ注意を。原記事には、まるでゴルゴ13にヒットされたかのような「頭をぶち抜かれたムアマル・カダフィの写真」の画像が出てくるので、ホラーが苦手な人は気をつけていただきたい。ただしこれは、昨年8月のトリポリ陥落の時点で報道産業の一部で出回っていた合成写真である。このイメージはイタリアの対抗情報サイト「メガチップ」に記事が転載された時、合成と分かっていても悪趣味であるという判断からか(?)、戦争に勝利したヒラリー・クリントンが満面の笑みを浮かべているという写真に差し替えられているので、イタリア語は読めるけど気味が悪いのは御免だという方は後者で原文を読まれたい。もちろん、どちらの画像が政治的にグロテスクかは別の話である。


http://www.sibialiria.org/wordpress/?p=249(元記事)


http://www.megachip.info/tematiche/guerra-e-verita/8075-perche-la-libia-non-ha-insegnato-niente.html(「メガチップ」に転載された記事)





何故リビアが何の教訓にもなっていないのか?


2012年4月14日
マリネッラ・コッレッジャ



リビア人の友人の一人がSkypeで私に電話してきた。NATO/カタールの爆撃のさなかの8月のトリポリで、私は彼と会っている。彼はこう言っていた。「この政府に批判したいところはたくさんあるけど、いわゆる「反乱側」がNATOの爆弾を、同じ国の人間の頭上に降らすよう何度も要請しているらしいということから、私はすべての疑念を捨てたよ。この時期においてはカダフィこそリビアであり、敵は別にいるんだ」。優秀な再生エネルギー専門の技術者であるWalidは、いまもトリポリにとどまっているが(「ところがすべてが止まっているんでね、石油売買の金がどこに消えたかは誰にも分からない……」)、妻と子供たちを連れて早く出国することを願い打ちひしがれている。その一方で彼は、今や困窮している様々なリビア人を助けられればと思っている。私には、「新しいリビア」においてそうした基本的人権を守ろうという国際法曹委員会に彼を紹介することができない。


今や北アフリカのこの国は地獄であることを、リビアの国民解放委員会とその兵士たちへ勝利の歌をささげていた人々自身が認識しなければならないはずだ。「自由のパルチザン」、「革命的青年」、「独裁者と戦う偉大な人々」どころではない。人種主義に、何十万もの人間への迫害に、完全武装の民兵に基づく革命がありうるということなのか? リビアで起こっているのはこうしたことである。


「飛行禁止区域」を支持し、反乱側を「自由のパルチザン」、「革命的青年」、「独裁者と戦う偉大な人々」「反乱において全く非武装な人民」(最初から殺戮についてのニュースは漏れ出ていたにもかかわらず)と定義していた人々は――左派も含め――いまや沈黙している。


リビアの「反乱者」とシリアの反対派の間にある交錯と類似――振る舞い方、同盟者、メディア活用能力における――は驚くべきものである。死者の数に至るまでけたたましくも操作された情報が、シリアの上にもふりかかっている
http://www.sibialiria.org/wordpress/?p=244および他の記事を見よ)。「死者の大部分(文民と軍人)は、反対派の兵士に指導されたテロリスト的活動によるものである」と、アナリストのMichel Chossudovskyは『ロシア・トゥデイ』で解説する一方、リビアの場合と同じく、シリアの武装した反対派は「和平プランに真の脅威となる、地上に展開したNATOの部隊」と考えられると主張するのである。


主流メディアが言及する――そしてまさに国連が真に受けている――ほとんどの「ニュース」は、反対派から、シリア国内の避難民の語り、そして「独立した集団ではなく、事実上組織化された反乱集団の側に属し、西欧の強国の将来の干渉を正当化しようと試みて」いる「転向者」からのみもたらされている。
(http://whowhatwhy.com/2012/04/02/how-war-reporting-in-syria-makes-a-larger-conflict-inevitable/#disqus_thread)。一つの衝突の状況においては二つの真実があるのは明らかである。アル=クサイル〔原文Kusayr/ホムス近辺にあり、2012年2月から戦闘中〕の市民についての話が対立している。二つの集団の双方とも、相手方の民族浄化、破壊活動、狙撃について非難している。アナンの計画によって「着手された」休戦違反についても、鐘の音は聞きとられない。


武装集団の暴力は、非政府系の宗教グループの報告――虐殺された家族の名前と名字を指摘した――や、シリア市民のグループにも記されている。最近の『アッヴェニーレ』紙はシリア在住のイタリア人による書簡を公開した。
http://www.avvenire.it/Mondo/Pagine/i-ribelli-ci-uccidono.aspx)。
これは最新の展開というわけではない。たとえば何ヶ月も前、世界のメディアはトルコの新聞Today’s Zamanで報ぜられたことを無視した。Jisr al Shugurでは、120人の警察官が殺害および打ち首となり、都市にあるすべての公共建築物が破壊され、住民は安堵とともに正規軍を迎えることになったというものである〔2011年夏における武力衝突について、「主流メディア」の報道では逆の報告がなされている〕。


「まったく非武装の人民が血まみれの独裁者へ立ち向かう」という語りは、事実と食い違っている。それは、シリアの住民が分裂し、多数派の一つは政府を支持し、街頭にも繰り出しているように見えるから(まったく組織化されていると言及されるだろう)というだけではない。Fida Dakroub〔原文はYakroubだが誤り〕が説明しているような理由からでもある。
(http://www.globalresearch.ca/index.php?context=va&;aid=29849)
「シリアで騒乱が勃発した際、抗議活動はおなじみのスローガン(自由、正義、民主主義、社会的権利の回復)を掲げ、平和的形態で行われていたというのは真実である。そしてデモンストレーションの要求はなお、社会的要求に限定されていた。それにもかかわらず、こうした抵抗は急速に、非正統的イスラム教徒やキリスト教徒のようなこの国の宗教的少数派を標的とした、セクト的暴力行動へと姿を変えたのである」。


ある読者が指摘してくれるところによれば、シリアから逃亡したアクティヴィストが、同じように言及している。
(http://karim-metref.over-blog.org/article-intervista-a-un-attivista-scappato-dall-inferno-siriano-102399062.html)
「最初はまったくうまくいっていた。〔「アラブの春」が起こっている〕一帯のすべての国と同じように。(中略)突然何もないところから、武器と金をいっぱい持ったサラフィー主義者があらわれ、状況が退行した。もはや何もわからない。あちこちで蠅のように人が死ぬ。その他の傾向は二方向からの放火に出くわすことになった。国家にも武装集団にも脅かされているのだ。多くの都市で語られるところでは、いわゆる「自由軍」の集団は政府よりひどいふるまいをなしており、対政府協力者とされた人々が公開で拷問、人体切断、殺害されている」。


それから、武装する反対者の同盟者は、カダフィに対してもアサドに対しても同じである。すなわち、NATO諸国と王制産油諸国〔petromonarchie〕である(2011年にはリビアの反乱者から、2012年にはシリアのそれから英雄として扱われた、ジョン・マケインについては言及するまでもない)。この地域における大西洋諸国-イスラム原理主義者〔atlantislamisti〕の利害を重要視しないでいられるのか? 政治、経済および社会改革を望むシリア国民のもっともな渇望の進展への外部介入に寛容でいられるのか? カタールとサウジアラビア王家に財政援助を受け、シリア正規軍と交戦するシリア自由軍を、シリア国境からわずか数メートルのところで迎え入れていながら、NATOに自身の国境を守ってくれるように要請しているトルコのゲームについて認識しないでいられるのか?(国境で何が起こっているかについては、Pepe Escobarの〔『アジア・タイムス・オンライン』に掲載された〕文章を見よ
http://www.atimes.com/atimes/Middle_East/ND12Ak03.html)。


リビアの事態は何の教訓にもなっていない。シリアについての語りは、騒乱の責任、または反対派の民主主義および独立の性質について、議論しようと挑む人々が「錯乱している」とみなされてしまうほどに、一方的なものである。しかしながら、ここ数十年において、西欧の戦争への反対、またイラクの包囲への反対に従事していた人々は、「錯乱」を非難されていなかっただろうか?







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