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「ブレヒト原理主義者」の死から考える

この「手帖」の最初の項目には、ベルトルト・ブレヒトの戯曲の一節を挙げている。わたしはドイツ語がほとんど分からないが、最近もコンスタントに出ているこの大作家の翻訳(注1)については常に楽しく読んでおり、「引用」でも定期的に彼の言葉を引いている(こちらこちらこちら)。翻訳の中でも、とりわけ長谷川四郎と野村修による詩のそれは素晴らしいと思う。リズム感を重視し作品の諧謔味を抉り出す長谷川と、美麗な押韻で最大限に詩情を引き出す野村には、どちらも捨てがたいものがある。しかし、日本におけるブレヒトの専門家として最も名高い人物は、おそらく岩淵達治であろう。つい先日亡くなった彼は、ブレヒトの全戯曲を個人で訳した『ブレヒト戯曲全集』(未来社、1998-2001年)をはじめとする多大な仕事を遺している。岩淵が近現代ドイツ文学の偉大な紹介者であったことは明らかである。


しかし、そのことを強調すると同時に、彼の晩年の発言にわたしはかなり疑問を持っていたことも記しておきたい。岩淵は「ブレヒト原理主義者」を自称していたが、よい意味でのブレヒトの「原理」よりは、近年のわたしは彼から「訓詁学者」の匂いばかりを嗅ぎ取っていた。少なくとも、ここ10年――岩淵の編訳によるブレヒト名句集『ブレヒトの写針詩』(みすず書房、2002年)の出版後――くらいで現れた、多くの同世代や後輩の演劇関係者に対する彼のコメントは、単に辛いというよりは手当たり次第で、底意地の悪さすら感じさせるものがあった。たとえば、市川明編『ブレヒト 音楽と舞台』(花伝社、2009年)は、まさにブレヒトの演劇と不可欠な結びつきを持つ音楽(注2)に関する好論文を多数そろえていたが、そこに収録されている岩淵の論文「ブレヒト劇とかかわった日本の作曲家たち」だけは、林光などに対するタラタラの厭味あふれる回顧ばかりが目につくものであった。晩年の彼による舞台評で素直に共感できたのは、ブレヒトが創設した劇団ベルリナー・アンサンブルの日本公演『アルトゥロ・ウイの興隆』(2005年)に対する、字幕をつけない代わりに用意された同時通訳のつくりがメチャクチャだったことへの怒りくらいである。これとて、わたしが個人的に偶然その舞台を見る機会を得ていなかったとすれば、近年の彼の文章からして「また偏屈じじいが難癖つけていやがるぞ」と思ってしまったことであろう。


加えてわたしが疑っているのは、ソヴィエト連邦を盟主とする「社会主義圏」の消滅後に現れた、基本的に社会主義勢力の側に立っていたブレヒトを「再考(=攻撃)」しようという動きに対し、晩年の岩淵が、「東側」をとことんこきおろす操作を通じてブレヒトを「列聖化」しようとしていたのではないかということだ。彼の近年の文章の中には、しばしば歴史的に見て支離滅裂と言っていいほど奇妙なものが存在する。たとえば岩淵は、俳優座の創設メンバーであった千田是也を常に「先生」と呼び、彼を日本における正確なブレヒト受容の理論的・実践的先駆者として評価しているが、この千田が中心となって行われた戯曲『母』――マクシム・ゴーリキーの小説を基にしているが、1905年のロシア第一次革命を舞台にした原作に、1917年の社会主義革命の成就までが付け足された――の日本初演(1960年)について、このように書いている。「共産圏の恐怖政治をまだ全く知らなかった日本では、ブレヒトのなかでも最も左翼的な『母』はまさに安保闘争を背景にしたタイミングのよい上演だった」(注3)。わたしはこの一文をはじめて読んだとき、岩淵は「千田先生」たちの参加した「安保闘争」の「褒め殺し」でもしたいのかと思ってしまった。というのは、ソ連で「スターリン批判」が行われたのは1956年のことであり、ソ連の当局者たち自身が認めた「共産圏の恐怖政治」については、演劇界どころか日本全体でも活発な議論が一巡りしていたはずだからである。大きい図書館で、当時の雑誌記事を少しでも眺めてみればわかることだ。岩淵は1927年生まれだから、若き知識人として最大の関心を持ってことの経緯を見つめた可能性は低くないし、1957年の秋から1960年にかけてドイツへ留学していたとしても、日本でも批判をめぐる論議があったことを彼が「全く知らなかった」ことはありえない。すると2000年代の岩淵は、実はこの時の「スターリン批判」で知られるようになったスターリン時代のソ連以上に、東欧圏の状態がひどかったと告発したかったのであろうか。それが正しいとすると、少なくとも彼にとってはやっかいな、別の説明責任が生じよう――東ドイツがそのようにどうしようもない国家であったとすれば、ブレヒトはそこで晩年を過ごして平気であったのか、またそうだとすれば、この芸術家がどうしようもない愚者か、権力に平伏するろくでなしだった証拠ではないかということになるからだ。とすれば反共主義はもちろんのこと、1950年代の「西側」で起こっていたというブレヒト劇のボイコットさえも、当たり前だったということにならないだろうか。


これにちなんで書くと、ベルリナー・アンサンブルに、本拠地となる劇場、潤沢な運営資金、数多くのスタッフを提供したのが、岩淵が暗黒視する東ドイツ政府だったという事実は、どうとらえられるべきなのであろうか。少なくとも、この「暗黒国家」は自身が消滅するまでブレヒトが育てたこの劇団をとりつぶさなかったし、1930年代のソ連のように問答無用で多くの芸術家(演劇人ではフセヴォロド・メイエルホリドの事例があまりにも有名である)を銃殺することもしなかった。予算削減でベルリナー・アンサンブルの存続が青息吐息であると報じられるようになるのも、東ドイツが西ドイツに併呑されてからの話であり、その前ではない。エンツォ・トラヴェルソは、「東側」をすべて「全体主義」という言葉でくくることによって発生した(している)知的不毛について述べていたが、岩淵が上記の違いを粗雑に「共産圏の恐怖政治」と一くくりにすることは、当のブレヒトによって否定されるであろう。まずは生き延びて詩や小説を書き、演劇が上演出来ることを重んじたかの大作家は、ナチスから逃れる途中においてもソ連にあった危険を感じ取って亡命地にはしなかったが、第二次世界大戦後の東ドイツは拠点にできたのであった(注4)。


これに対し、晩年の岩淵の叙述から現れる東ドイツ像は、ひたすら政治警察(シュタージ)がらみのものである。「東側」の政治警察の中でもソ連のKGBと並んで有名なそれは、その巨大で細密な諜報網が「恐怖」の対象として、今も昔も「西側」の物語映画でちょくちょく取り上げられるものだが、東ドイツが併呑された後になって、この政治警察がベルリナー・アンサンブルの幹部にまで浸透していたという暴露ニュースに、岩淵は大変な衝撃を受けたようだ(注5)。確かに、ブレヒトの教えを「社会主義国家」は生かせなかったのかという話以前の問題として、市民生活への政治警察の浸透というのは、それだけで十分に由々しき事象ではある。ブレヒト劇の翻訳以外においても、岩淵は政治警察の問題を通じてかつての東ドイツを思い切り低く見積もることによって、何かしらを救おうとしていた形跡がある(注6)。しかしその一方で、岩淵の文章を改めて読むと、今はもうない東ドイツ国家が悪罵されているわりには、それ以上の問題の分析は何もなされていないことに気づく。1970年代からのベルリナー・アンサンブルの演出が硬直化していたとか、劇団の誰が当局へのインフォーマントで誰がそうでなかったかとかいった彼の語りは、わたしから見れば表層的な域を超えていない。東側の政治警察がため込んでいた「秘密文書」の扱い一つとっても、どういう過程でいつ何がどのように「公開」されてきたという文脈自体の分析が必要であるし(それは政敵や論敵を追い落とす単なる道具となってはいないか)、劇団と政治警察の問題についても、40年にわたり政権党であった「社会主義統一党」の文化政策総体の動向や、また劇団と当局の折衝や力関係の実態といった問題と合わせて、より深い検討が必要であると思われる。それがあって初めて「我々」は、ブレヒトの晩年を理解することができるのではないか。そうではなく、逆に東ドイツを単なる「暗黒国家」として強調すればするほど、そこに最後の地としたブレヒトとは何だったのかという(それ自体はもっともな)疑問を、延々と生み出すだけに終わるのではないか。ブレヒトの「矛盾こそが希望である」という言葉にならい、こうした矛盾も突き詰めて考えたいものである。


第二次世界大戦後のブレヒトは「オーストリアに国籍を、スイスに銀行口座を、西ドイツに出版社を、そして東ドイツに劇団と住まいを持った」と謳われたというが、ついに彼が東ドイツの外に「劇団と住まい」を求めなかったことは、岩淵にとっては残念なことであった。しかしこの件でブレヒトを「批判」することは、自分自身を否定することにつながりかねない。ゆえに彼の記述は、ますます東ドイツ、およびそれとブレヒトの関係についての歴史的バランス・シートの作成には向かわず、前者をこきおろすだけに終わったのだ――こう考えるのは皮相に過ぎるだろうか。かつてハンナ・アーレントは保守的自由主義者として、ブレヒトの詩的側面を最大限に評価する一方、東側の体制とともに生きる事を選択した彼の政治的側面については明確に拒絶した。彼女は、晩年のブレヒトが西側に亡命しようとしていたと推定することで、出来るだけ彼の詩才を救いだそうとしているものの(注7)、当のブレヒトの方ではこのような解釈をしてもらえなくてもよかったのではないだろうか。「政治と文学を峻別すること」は、両者を共に救いはしない――わたしはブレヒトの意見を、岩淵らの訳業からおおむねそのように解釈している。岩淵の『ブレヒト没後五十年 1』(カモミール社、2006年)の後書きによれば、彼は湯地朝雄の『政治的芸術:ブレヒト 花田清輝 大西巨人 武井昭夫』(スペース伽耶、2006年)を読み、「政治的ブレヒト」離れを否定的なものとして再認識したというが、わたしに言わせれば近年の岩淵もまた、ほとんどアーレントと変わるところはなかった。むしろ彼は、アーレントがブレヒトに見出した「政治的な罪」を認めたくないので、彼女以上の口ぶりですべてを東ドイツにおっかぶせていたのではないか。しかしこのような操作で、ブレヒトの政治的選択に疑問を持つ人を納得させられるとは思えない。本当ならば、岩淵ほどの知的蓄積があって初めて、はじめて単なる暴露話や「反独裁」の安い物語にとどまらない、東ドイツとブレヒトと「社会主義」についての総合的な分析ができたはずであり、またその地平から彼は、「ドイツ統一」後におけるブレヒトの大義を擁護すべきだったと考えるのである。


わたしにとってブレヒトは「マイ・フェイバリット」の作家の一人にとどまるが、岩淵にとってこの作家は、それ以上の唯一絶対的な「マイ・ヒーロー」であったことであろう。そしてその「マイ・ヒーロー」を救うために、彼は悪魔化した東ドイツを地獄に蹴落とそうとしたようだ。しかしそれゆえに岩淵は、あいにくながら今頃は、ブレヒトがいるはずもない天国へ到着してしまっていることであろう。「マイ・ヒーロー」への愛も結構だが、作家が生きた歴史的文脈を清算したその「理解」は、その実「マイ・ヒーロー」が抱いていた知性と精神をも清算するものに他ならなかったのではなかろうか。わたしがブレヒトの詩文をすばらしいと思うのは、晩年の岩淵のような精神状況に陥った人々に贈れるようなことばがいくつもあるからである。最初期の詩集において、「心の暖炉を温めてもらいたがっている屑野郎」のために詩を書くつもりはないと断言していた作家を、一生の研究対象にしていた学者が、結局自分で自分の「心の暖炉」に薪をくべていたとしたら、それは悲劇的なことである。もっともブレヒトなら、そうした題材をむしろ喜劇に仕立て上げたかもしれないが。


もちろん、このような現象は文学の世界にとどまらない。たとえばアントニオ・グラムシ、ローザ・ルクセンブルク、チェ・ゲバラなどを英雄として讃えたいがために、「現実の社会主義」をはじめとする事象を、ひたすらこきおろすだけの学者や運動家の存在について、諸君も思い浮かぶところはないだろうか。ともあれわたしは、岩淵の冥福もさることながら、彼が「東側」を切り下げつつブレヒトのみをひたすら礼賛することを通じ、ココロ安らかに亡くなったのではないことを祈りたい。『屠場の聖ヨハンナ』の主人公も、最期におおよそこんなことを言っていたのではなかったか――ココロ安らかにこの世を去ることよりも、安らかな世界を残して世を去る方が大切です、と(注8)。






(注1):たとえば績文堂出版は、新訳として『メ・ティ 転換の書』(石黒英夫・内藤猛訳、2004年)、『戯曲ガリレオ チャールズ・ロートンの協力による英語版』(笠啓一訳、2009年)を出している。また河出書房新社は、1970年代に出版されていた全6巻の作品集『ブレヒトの仕事』、および元々は全4巻の『ブレヒト作業日誌』を上・下巻で復刻している(2006-2007年)。ただしどれもハードカバーで、値が張る。光文社の「古典新訳文庫」でも、谷川道子が後期ブレヒトの新訳を出している。しかしまず一冊だけブレヒトの何かを買って読んでみたいという向きには、野村による訳詩を集成した『ブレヒト詩集』(土曜美術社出版販売、2000年)をおすすめする。新書2冊分の値段だが、生涯読み返すことが可能である。


(注2):ブレヒトの戯曲の劇中歌、また彼の詩に曲をつけたものには非常に傑作が多いので、別の機会に取り上げたい。あまり大きな声では言えないが、You Tubeなどのおかげで聴き比べも便利になった。


(注3):岩淵達治『ブレヒトと戦後演劇:私の60年』(みすず書房、2005年)。


(注4):菊盛英夫『ベルト・ブレヒト ある革命的芸術家の生涯』(白水社、1965年)によると、発足当初のベルリナー・アンサンブルは200万マルクの補助金を受け、60人の俳優と250人のスタッフを擁していた。現代の日本で、これだけの人員を常時抱えられる劇団はほとんど皆無であろうし、菊盛にならって言えば「たとえそれが政策的考慮から出ているにしろ、大いにほめられてよかろう」。一方岩淵の『ブレヒト』(清水書院、1980年)では、こうした東ドイツ国家の側からブレヒトへ提供されたものに触れられることはない。確かに岩淵の言う通り、菊盛の書いたような待遇をブレヒトが受けたのは、ひとえに彼の交渉上手によるものである。最初から東側がエサをちらつかせていて、作家がそれに飛び付いたという訳ではないようだ。しかしそれをもって、東ドイツが彼に迫害ばかりを加え何の提供もしていないように書けば、作家の伝記は単なる聖人伝でよいことになるだろう。


(注5):わたしが目にした限り、1990年までの岩淵の文章において、東ドイツで政治警察が横行しているという話を直截に取り上げたものはない。彼が往時の東ドイツの問題性を強調すれば強調するほど、「あなたは昔からベルリナー・アンサンブルとお付き合いがありながらそうした兆候を感じることはなかったのですか」と、嫌味に絡むことも可能ではあろう。もっともわたしは、2000年代に入った岩淵が「自身のアリバイつくり」のために遅れてそうし出したのだとは思わない。彼は自分のためにではなく、ブレヒトのためにそうしたのだが、その方法が誤っていたのではないかということである。そして、彼が東ドイツの併呑以前にかの国をコテンパンに言っていれば正しかったのだという話でもない。たとえば、中国や「北朝鮮」を「以前から“批判”していた」ことしか誇るものはなく、自国の政策を改善する実効力は皆無な「“反帝国主義”に“反スターリニズム”を加えたかと思ったら、いつのまにか“反帝国主義”は捨ててしまったような連中のなれの果て」の姿を想起せよ。


(注6):19世紀前半に夭折したゲオルグ・ビュヒナーの作品集『ヴォイツェク ダントンの死 レンツ』(岩波文庫、2006年)の訳者あとがきにおいても、岩淵はフランス革命を描いた『ダントンの死』が時代遅れではない理由を、「初めから一切の革命の幻滅を描いている」からだとしている。「革命裁判所に妻を離婚させるデュマの手口などは、夫婦がお互いに相手をシュタージに密告していた旧東ドイツではいくらでもあった話である」のだそうだ。しかしこの書きぶりからはむしろ、『ダントンの死』/ビュヒナーではなく、岩淵における「一切の革命の幻滅」が浮かんでくるようだ。そしてこの手の「幻滅」は、そうした人物自身の委縮した自我をせいぜい保つものではあれ、「政治」はおろか「芸術」すら救うことはない。


(注7):ハンナ・アレント『暗い時代の人々』(阿部齊訳、ちくま学芸文庫、2005年)。彼女は1966年に発表したブレヒト論の中で、二つの世界大戦をそれぞれ同時代的に描いたドイツの詩として、彼の「死んだ兵士の伝説」と「子供の十字軍:1939年」を、比類なき価値を持つものとして絶賛するばかりでなく、集団の利益のために個人の消滅を許すか否かという「全体主義的」命題を含む戯曲『処置』にすら、芸術性の高さを認めている。映画版『三文オペラ』の終幕に追加された、「モリタート」の新しい歌詞への洞察も鋭い。アーレントという人物は、「リベラル」としての周囲の評価が高まるのに合わせて自身の政治的保守性を高めていったように見えるが、彼女の芸術への感性は、凡百の自由主義批評家やアーレント・マニアよりずっと優れていると言える。ちなみにこのアーレントのエッセイについては、古くには長谷川四郎による批判があり、それは『中国服のブレヒト』(みすず書房、1973年)に収録されている。この長谷川も、2009年の岩淵の記述で「先生」と呼ばれている人物である。


(注8):デタラメな意訳などいらぬという諸君は、もちろん岩淵達治編訳『ブレヒト戯曲全集』第3巻(未来社、1998年)に収録されている、戯曲の正確な訳文を参照のこと。




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