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今度は「NATO文学賞」か?

※注記--もともとこの記事は1月下旬に書き始められ、2月初頭には完成しかかっていたものであるが、データの入った記録機器の一部が故障したために、そのまま放置されていたものである。まったくもって最新の話題ではなくて申し訳ないが、リビアに対するNATO介入=空爆から2周年が経過したこと、さらにはシリアの内戦がいまだ終わっていないことを改めて想起するためもあり、最小限の加筆の上、遅ればせながら以下に掲載する。


ところで、本日は2003年のイラク戦争開戦から10周年ということで、平和運動の一部では「あの不当な戦争を改めて回顧しよう」という動きがあったようなのだが、彼らの界隈ではなぜかリビアについての発言がほとんど聞かれない。こうした人々が、シリアについては言及しているのはたまに見かける(ただし「大国間の政治に翻弄されている」といった抽象的な「憂慮」でフラフラしているだけで、反戦運動の主体性はどこに行ったのかというレヴェルに留まっている)ものの、本当にリビアについての回顧はまれである。理由としては、
1)リビアの問題は、イラク戦争とまったく違う、素晴らしい「アラブの春」の民衆革命だと今も思っている。
2)リビアの問題の裏側について、実はなんとなく認識しつつあるのだが、いまさら「自分が考え違いをしていた」とは恥ずかしくて言えない。

あたりであろうとわたしは推察する。1)だとすれば、のべ2万回とも言われたNATOによるリビアへの空爆と「民衆革命」はどう関係するのか、じゃあイラクへのアメリカの空爆も「民衆革命」を助けたのではと言いたくもなる。2)だとすれば、イラクのときとは異なり「人道的介入」の美名のもとに完全な勝利を収めた諸国の政府に対し、今後も「平和運動」は完全に沈黙し続けることであろう。「イラク10」を「ワンイシュー」化することは誤りではないか。それは「リビア2」、さらには「シリアnow」「マリnow」とまったく地続きなのである。



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2006年度のノーベル文学賞を受賞したトルコの作家オルハン・パムクが、他国の作家たちと連名で、シリアのバシャール・アサド大統領に辞任を勧める手紙を出したというニュースを、諸君は覚えているだろうか。昨年の12月上旬のことである。


http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/src/read.php?ID=28520


わたしはこの記事が出たとき、フランスの『リベラシオン』紙のサイトに載っている問題の記事を、手元の辞書と自動翻訳の助けを借りつつ読んだが、もはや季節がひとつ代わるくらいの時間が経過したにも関わらず、この記事に覚えた不審感が今もって抜けないでいる。第一に、このニュースを読んで考えたのは「どうして“国際的に著名な作家・知識人”(注1)は、雁首そろえて似たようなおしゃべりをするのが好きなんだ」ということであった。すなわち「そのままではサダム・フセインやムアマル・カダフィと同じ運命を辿ることになるぞ」という結論部の内容は、この前わたしが言及(他サイトの紹介を引用)した、イギリスの左翼批評家タリク・アリのレトリックとまったく同じではないか。「匪賊対革命ごっこ」のシリーズでは取り上げていないが、一昨年の上半期においても、西側諸国の知的人士の一部が、NATOの空爆そのものを当然視した上で、カダフィ大佐に対して「そのままではミロシェヴィッチやフセインと同じ運命をたどることになるぞ」と言っている姿はよく見られたものだ。しかしいやしくも「ノーベル文学賞」受賞者を含む人たちが、こうもオリジナリティの貧困な声明を発するとわたしには考えられなかったのである。これが文学作品だったら、それこそ剽窃が問題視されるレヴェルの代物ではないか。正直、リビア問題の時にもNATOの音頭取りをしていたベルナール・アンリ=レヴィあたりの記した一筆に、彼らが適当に署名しただけであるとしか思えないのである(注2)。


この声明が実に薄気味悪いのは、情緒過多で空疎な修飾にあふれる大半の部分を差し引いたら、つまるところ「あんたは死にたいのか?」という脅迫的内実しか残らないことにある。「脅迫」と書くのは、彼らがアサド氏の政治的退陣を要求するという域を超え、それがなされない場合の報復として、相手の肉体的抹殺までチラつかせているからである。このことは、「今ならあんたにも亡命先があるが」といった親切めいた「忠告」によって覆い隠されているものの、むしろこうした留保は、この一文の本質が安いテレビドラマの脚本を超えるものではないことを露呈させる――「言うことを聞かないと、私の友人たちが黙っていませんよ」と、腕力専門のゴロツキ連中を背後に従えながら、自分の手は決して出そうとしない悪党が嘯くおなじみのセリフだ。その一方で、シリア内部で現体制を打倒しようとしている人々には、誰と誰がいてそれぞれはどのようなものか、またこの手紙の書き手たちがそれぞれ住んでいる国々の政府が、シリアに対してどのような利害関係を持っているのかといった事項については、当然ながらこの声明では一切言及されていない。少し古いが、サイト「media debugger」が丹念に外国の「オルタナティヴ」情報をまとめた記事によれば、トルコは去年の秋から事実上の対シリア軍事活動を展開している。さらには今年に入ってからは、イスラエルも米・仏の認可の下でシリアに爆撃機を飛ばし始めた。こうした自分たちに属するものの動きについては、この「文学者」たちはおしゃべりをしない。そのくせ彼らは、NATOとそれに追随する諸国の介入による事態のさらなる拡大を牽制してきた中国とロシアについては、忘れずに「信用はおけない」と言及、いや誹謗する。彼らが(やくたいもない)「善意」のみを持ち合わせており、アサド大統領の退陣によって「平和」が来ると本気で願っているかすら、怪しいものではないか。


こうした作家たちの口ぶりは鼻に付く。「悪いことをすると神サマのバチが当たりますよ!」と、親が子供に説教でも垂れているかのような感じである。キリスト教世界だろうとイスラム教世界だろうと、相手を見下す「オトナ」の説教について、子供は「神罰」という概念の虚構性とともに嫌悪するであろう。ましてや、実際にシリア(大統領個人をピンポイントで倒せるということはあり得ない)に「懲戒」を食わせようとするのは、神でも親でも何でもないのは明らかである。これでは、中年のアサド大統領でなくとも納得しようがないではないか。「殺す」という幼児でも感知するような肉体的恐怖を振りかざせば「独裁者」が引っ込むというのが「文学的」人間観であるとも考えられないし、そういった脅迫で「独裁者」が実際に引っ込んだ歴史的事例もあまり思いつかない。かつてドイツ第三帝国の指導者たちは、彼らの「神々の黄昏」にベルリンの数百万市民を道連れとしたものであった。


「人権問題」に関わるパムク氏の著名なエピソードとして、オスマン帝国時代の末期に発生したというアルメニア人虐殺の存在について否定を続けているトルコ政府を批判したという話は、非常によく喧伝されている。とある日本語サイトで、こうしたパムク氏の事績からしてアサド大統領への「批判」は信頼に値するという趣旨の、書き手の感想が記されているのも見かけた。しかしこうした感想は「壊れている」とは言わないまでも、本当に素朴極まりない。確かに、彼の自国の歴史認識問題についての言葉は、日本で日本の戦争犯罪を研究しようとする近現代史研究者が受けている痛苦を鑑みれば、おそらく「勇気ある発言」だったであろうが(注3)、そのことと現在の彼のシリア情勢についての認識、ならびに彼の発言が及ぼす効果とは、何ら関係がない。今回の彼は、あくまで外国であるシリアについて語っているのである。アサド大統領に退陣を迫るパムク氏以外の署名者たちも全員、シリア当局から身の危険が及ぶ心配はこれっぽっちもない。ジャン・ブリクモンがしばしば勧めているように、スペイン内戦に際した知識人にならって、彼らが自ら銃を取り「独裁者打倒」のために戦場へ出向いているのなら、その評価も変わってくるかもしれないが。


シリア当局が内戦状態で大変なのは明らかで、わざわざ外国の作家たちに刺客などを送り込むヒマなどは到底ないだろうし、それは西側諸国に完全な介入の口実を与えることになる。パムク氏はサルマン・ラシュディとも親しいらしいので、イランあたりとシリアを同一視して、自分も危険だと一人で考えているのかも知れない。しかし、小説による「イスラムの冒涜」に激怒したホメイニ師すら、堂々と外国に特殊部隊を送り込むようなことはしなかった。むしろ、自前のコマンドーを他国の地に投入し「敵」の首級を挙げた例として真っ先に想起されるのは、西側諸国の盟主であるアメリカの事例であろう(そのような暴挙が、たとえば「社会派映画」としてフィクションになり賞賛されるのだ!)。そもそもパムク氏は、たとえば自国の首相であるレジェプ・エルドアンの方針がおかしいと考えた際、「さもなければお前は死ぬことになる」という趣旨の「批判」をなすのだろうか。トルコが警察国家であろうとなかろうと、発言が「文学的な言葉のアヤ」であろうとあるまいと、いやしくも一国の首相の殺害が仄めかされるのならば、何らかの問題にはなりうるだろう。そして、トルコは1952年以来のNATO加盟国であり、「民主的」であり、ゆえに最新鋭の飛行機でリビアのように空爆されることもないのである。


もちろん、このパムク氏の発言に対しては、トルコ国内でもわずかながら批判もあったようだ。わたしが見かけたとあるイタリア語の左翼系サイトの情報によれば、歴史的な共産主義者でもあるかの国の詩人の名前を冠した「ナジム・ヒクメット文化センター」に属する知識人たちは、「この手紙の書き手たちは明らかにNATOの手駒と化している」「ノーベル賞を受けたこのトルコの作家は、トルコの知識人も、我が国の世論の良識も代表してはいない」という内容のアピールを発したとのことである。「トルコ共産党」のある幹部に至っては、パムク氏を「真のファシスト」とまで罵倒しているそうである(注4)。おそらく彼らは政治勢力としても、トルコでは微小な存在でしかないだろうが、文学者らの発言の醜悪な内実を問題視する人々がわずかでもいることは、トルコ人の名誉ではあると考える。


残念なことに、道義性のある誠実な訴えというものは、しばしば政治的に無意味に終わることが多い。しかしパムク氏らによる「アサド大統領への手紙」は、決してその道義性や誠実さをほめたたえられるべきものではない。端からこの一文は、政治的にどころか知的にも無意味であるのだが、しかしむしろその無意味さから、書き手をさも倫理的な人々に見せかけるような偽の外観が引き出されているのである。これはたいしたテクニックだが、文学者のテクニックというよりは詐欺師のそれに近いだろう。実際のところ、この一文は、「国際的に著名な作家・知識人」たちが、その純粋な文筆上の技量のみならず、「第三世界の人権問題」などにも関心が深いとアピールすることを通じて、自身の書籍の売れ行きと知名度を維持する営業活動の一つ以上には働いていないと思われる(注5)。こういった海外の文学者の動向を見ていると、現在の日本の作家のほとんどが、「人権問題」をはじめとする世界の状況について、または世界の状況について「発言」しないことは、当の世界にとっては悪いことではないのかもしれない。





(注1):「国際的に著名な」と書いたが、この声明に参加している人々の中でわたしがどうにか名前を知っていたのは、パムク氏とイスラエルのデヴィッド・グロスマンだけである。残念なことにと言うべきか、まったく彼らの作品に触れずに今日まで来た。自分が無教養なだけかもしれないが、シリアで外国文学が豊富に紹介されている(「独裁国家」なのに!)のでもなければ、ノーベル賞ブランド+隣国人であるという条件を兼ね備えたパムク氏を除けば、かの国の人々の認識もわたしのそれと大して変わらないのではなかろうか。「国際的に著名な作家・知識人」、またの名を「こいつら誰?」が「外国の政情について憂慮する」種の声明を発することをどう評価すべきかについては、「スーパーゲームズワークショップエンターテイメント」の一文も非常に参考になった。


(注2):パムク氏と、ニコラ・サルコジ大統領に近い立場としてフランスの対外政策を支持していたアンリ=レヴィ氏が、相反する関係ではないらしいことは、こちらのロイター通信の記事からも読み取れる。それにしても『リベラシオン』と言えば、ジャン=ポール・サルトルを中心に創刊された「左派」新聞のはずなのだが、こうした記事はサルトルの主張の重要な一部であった反植民地主義とは縁遠い。対してアンリ=レヴィ氏は、「旧世代」サルトルを攻撃する「新哲学者」の一員としてキャリアを築いてきた。これは、社会党から出てサルコジ氏を破ったフランソワ・オランドの対外政策が、前任者のそれとどこが違うのかという事実を含めて、注目すべき現象ではあるまいか。かの「佐藤優現象」を論じる場合、「我々」は日本人の知性と悟性が悲惨に破壊されている有様のみを考えてしまいがちだが、その反動で西欧の「左翼」ないしは「リベラル」をフェティッシュに崇拝することなく、彼らにもまた自壊現象が起こっている可能性を想定しなければならない。


(注3):自国の歴史問題を認めようと言っているとしても、それをどのような文脈で言っているのかは詳しく知りたいところである。日本にも、南京虐殺を始めとする大日本帝国の戦争犯罪の数々を認めようと訴える人々がいるが、その中には過去の非道な自国の行為の数々を真摯に反省するためにではなく、小沢一郎的な意味での「普通の国」として「先進国」から認められるため、それによって大国としての軍事・外交・経済ドクトリンを堂々と自国に展開してほしいがために、そうしているのだと公言する向きも存在する。さすがのパムク氏も、後者と一緒ではないと思いたいのだが。


(注4):もちろん、パムク氏が「ファシスト」であるという後者の表現は、手垢がつき過ぎているという意味でよろしくないし、そもそも歴史的に正しくない。ファシスト連中は、自分が下等な野郎と見なした相手は自分の手で殺したのであり、「君は殺されても仕方ないんだよ、殺すのはボクじゃないけど。でも猶予は与えてあげるよ」なんてことも言わなかったのではないか。


(注5):二か月ほど前に第148回芥川賞および直木賞の受賞者が発表されたが、なにせ前者の審査員には、存在自体が人権思想の否定であると言うべき石原慎太郎がつい最近までいたのである。もちろん、海外文学賞のコレクターにならんとする作家は、村上春樹がイスラエルで話した「卵と私」的なオムライス屋向けの講話くらいはこなせるようにしておかねばなるまい。余談だが、最近芥川賞・直木賞について詳しく記したとあるサイトを見ていて、石原氏と同じタイミングで芥川賞選考委員になり、同じくらいの期間にわたって選考委員を務めたのが、池澤夏樹だったということを知ってゲッソリした。しばしば池澤氏がエッセイで「それっぽい」主張をしながら「それっぽい」としか言いようがないというか、加藤周一をエーゲ海で汲んだ水で何倍にも希釈したというか、要は根本的な力に欠けているように思われるのは、その「文学的力量」もさりながら、彼が自分とまったく反対する対世界認識の持ち主である(はずの)石原氏のような人物と、平気で何年も同席できてしまうらしいユルさにも由来していると考えられる。


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