「在日韓国人」の本を読む以前に

先日、「我々」と隣国の歴史的関係性を考えるために役に立ちそうな書籍を探していた所、筑摩書店のサイトで奇妙な一文にたどり着いた。李建志『日韓ナショナリズムの解体――「複数のアイデンティティ」を生きる思想』(筑摩書房)を検索すると、「この本を読んだ! の声」として、以下のような読者の感想文が出てくる。


http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480842862/


冒頭の二つのセンテンスは明快である。あまりにも陳腐な言い草ではあるが。たとえば、この書き手が「日本のナショナリズムを批判する在日韓国人の研究者は数多くいる」と言う時、誰かしら具体的な「在日韓国人の研究者」をちゃんと念頭に置く事が出来ているのか(注)。また「韓国のナショナリズムを不問に付して、日本のことだけを批判するのはフェアじゃない」と言う時、明治以来の「我々」の歴史をどのようなものと考えているのか。そもそも、韓国籍を持っていない在日朝鮮人をどう見ているのか。認識の質についてはいくらでも疑問が湧く。ともあれ、ここまでの文章では、「だいたい」とまで強調する程の、書き手の「在日韓国人」への強い不満が普通に読み取れよう。


しかし、話が奇妙になって来るのはここからである。この書き手は「在日韓国人」が「我々」に対し不公平であると憤りを感じていながらも、単にそれだけで文句を言っているのではないのだよ、という体裁をとりつくろう。すなわち「在日韓国人の研究者」の態度は、自分にとってのみ不公平と考えられるものではではなく、「日本の保守サイドから批判を呼び込んでしまい、むしろよくない」ものでもあると言うのである。このくだり以降は、李氏による韓国批判への共感と「在日韓国人」を心配するそぶりが入り乱れ、ほとんど迷走している。これは、自分は「保守サイド」に立つものではないけれど、自分じゃなくて彼らがあなたたちに不利益を与えますよという「忠告」か? それとも、自分の抱いているあなたたちへの不満は、日本人の多数派たる「保守サイド」と同じだから、勝手な差別ではありませんよという「言い訳」か?


この書き手は「日本の保守サイドからの批判」を何故だかずいぶんと恐れているようだが、本来「在日韓国人」に対してのみならず、海を越えて日本国にやって来る諸外国人と「我々」が互恵関係を築くためには、両者の間の論争自体は本来よろこばしきものではないだろうか。むしろ、その論争がどれだけ「フェア」な土俵で行われているかが焦点となろう。しかして「我々」は、外国人・異民族に対する明確な反差別立法をどれだけ実現してきただろうか。権利・地位はどのような状態にあるだろうか。以前、国家間の「対話」を成り立たせないのは彼我の力の非対等性である事を論じたが、一国内にも「国民」と「それ以外」との間には愕然とする格差があるのであり、この格差を是正する事によってようやく豊穣な論争の土俵が成立しうる。同じ人と人との間にしか「対話」はあり得ないからだ。しかるにその土俵が貧弱な現況について、「在日韓国人」を初めとする「それ以外」の人々が「保守サイド」に反駁する事が単純にまずいと言うならば、「我々」の「民主主義国家」には終末の日がすでに来ている事になる。また、土俵のプアーさに言及しようとしないで「フェア」を言うだけなら、事態に関心を寄せているように見せて実は「保守サイド」に惰弱な心情を預けっぱなしにしているだけの話である。


「もちろん、著者が韓国に対する厳しい態度をとらなければ日本社会に訴えても聞いてもらえないという状況も考慮しなければならないが」というのも、ご立派な心遣いではある。日本批判ばかりの「在日韓国人」は「フェアじゃない」が、「韓国に対する厳しい態度をとらなければ日本社会に訴えても聞いてもらえない」著者の立場は「考慮」する……? 諸君、このような人物に出会ったならばこう問わねばなるまい。ある隣国出身の人間が、彼・彼女の母国の内外にいる同胞に「厳しい態度」を取っているとしたら、何故あなたは同じように自分の同胞へそれ以上の「厳しい態度」を取らない、または取れないのですか。それともあなたの好きなのは「考慮」だけですか、と。


そう、「読書力と倫理観が試される」とすれば、不特定多数の「読み手」のそれではなく、「保守サイド」のそれであろう。しかしこの書き手は、自分を決して「保守サイド」に位置づけないにも関わらず、その世界観は彼らが小馬鹿にしているであろう対象と全く異ならない。しかも彼らを試すどころか、自分自身を試しもしない。『日韓ナショナリズムの解体』という題名にも関わらず、少なくともこの本を読んだ日本人読者は、何も解体されずに済んでいる。日付によれば文章が掲載されて半年以上経っているようだが、著者である李氏がこれを読んでどう思ったのか知りたい所である。


しかしこのような無残さは、この書き手一個人の問題などでは全くない。現代日本で自分を「保守サイド」に位置づけない人々、言ってみれば「リベラル」の自称者の間で流行している、一種の新型インフルエンザのようなものではないかとわたしは疑っている。ここで一つだけ最新の例を挙げるとすれば、サイト《マガジン9条》2009年5月27日号の、朝鮮の核実験報道への反応がそれに当たろう。二人の対話という形式を取った時評(?)の後半で、朝鮮は「ほんとうに困った国」「あまりの駄々っ子ぶり」などと、ハナから対等な「対話」の相手として見られておらず、「どいつもこいつも馬鹿ばっかりだ」とでも言わんばかりの高慢さで、日本における核武装論の再燃やそれを引き金にした日米関係の悪化を予測する一方、「偏狭なナショナリズムに煽られた人たち」による在日朝鮮人への暴力を心配してみせる。しかしその責任は、日本が極右化してアメリカに睨まれてしまう責任もひっくるめて、朝鮮が100パーセント担わなければならないようだ。彼らは、「自ら同胞を傷つけることに手を貸している」とみなす隣国の当局へは「ほんとうに困った国だな」と二度までも大仰に嘆息してみせておいて、「我々」の義務としての在日朝鮮人の安全確保や、「偏狭なナショナリズムに煽られた人たち」の犯罪行為の糾弾についてはついぞ語らない(注2)。これもまた、飲ませるタミフルのないような話である。





(注1)姜尚中以外の名前が挙がるのかどうか? 「日本のナショナリズムを批判する在日韓国人の研究者」としてわたしが真っ先に思い浮かんだのは、知名度で姜氏に(だいぶ遅れてではあるが)次ぐであろう徐勝・徐京植兄弟だが、この両氏は「韓国人」としてのアイデンティティを強調してはいない。


(注2)加えてこの週のトップページでは、「またあの国が」に始まり、「私の大嫌いな言葉」とわざわざ断りを入れておきながら「それこそ世界規模のKY国家」と、朝鮮を感情丸出しで罵倒している。せっかくバラク・オバマが核廃絶に動いてくれているのに! という憤りの理由も間抜けだが、そもそも彼らの敵は戦争や原水爆ではなく朝鮮という国家なのか? この辺りからも、彼らの「平和主義」の知性と悟性の程度が疑われる。



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