新しい岩波茂雄伝?(後編)

こんなことを書いていると、中島氏の立場からは「戦後のパラダイムから岩波を演繹的に見ている」と言われてしまうかもしれない。わたしはただ安倍の認識に賛成しているだけなのだが、敗戦後の岩波書店の基幹雑誌となった『世界』から一線を画していたはずの安倍もまた、「戦後のパラダイム」に従っていると言うのであろう。それでは、アジア・太平洋戦争のさなかにおいて、日本の「リベラル」と呼ばれる知識人は一般的に、岩波のごとく頭山満のような右翼にシンパシーを感じていたのであろうか。ここで思い浮かぶのは、安倍・岩波より少し年下の世代にあたる、批評家の清沢洌〔きよし〕である。『岩波茂雄傳』に彼の名前は登場しないものの、彼の『暗黒日記』(橋川文三編、ちくま学芸文庫版、2002年)には、岩波と時々接触があったことが確認される。わたしはずいぶん昔に『暗黒日記』を読んだ時、著者が一種の「内的葛藤」を日陰でこねくり回している様子に正直ウンザリさせられたし、清沢の同時代認識自体、実は近衛文麿のような重臣連中のそれと大差ないのではないか(彼が戦後まで生き延びたら、緒方竹虎のように有力な自民党系代議士になれたであろう)と思ったものだ。しかし、彼が同時代の御用ジャーナリズムに対して抱いていた批判については、今見ても大いに説得力がある。そこで清沢が克明に記録しているのは、民間右翼のデタラメな放言を新聞が垂れ流しにしている醜悪な数々の事例であり、とりわけ頭山は、徳富蘇峰に次いで清沢の憎悪の的となっている。すなわち頭山が死去した1944年10月の日記において、清沢は「愛国心の名の下に、最も多く罪悪を行った男だ」とまで書いたのであった。清沢が紹介する「頭山翁の談話」の内容は、どれもこれも日本の戦時状況を完全にすっ飛ばした愚劣な(そうでもなければ、完全に認知症的とでも言うべきである)ものであり、それに対する同時代人の批判もまた「戦後のパラダイム」では済まされないはずだが、いくらでも浮かぶ疑問をすべて脇に置くことで中島氏の著作は成り立っている。


さらに、岩波茂雄と「戦後のパラダイム」の関係をもし真剣に考えたいのであれば、岩波と親交を持ち清沢にも高く評価されていた「自由主義者」の一人である、正木ひろし〔旲〕のような存在を考えあわせる必要があるだろう。正木が1937年に創刊した個人雑誌『近きより』は、天皇とその国家を「奴隷の言葉」で賛美するという外見を取りながら、当時の状況下においては最も徹底的に軍と官僚組織への「否」を展開し続けたものとして名高いが、彼はこの雑誌に必要な用紙の提供において岩波の支援を受けていた(注4)。『近きより』の1943年4月号でなされた読者アンケートで、岩波はこの雑誌を「地の塩、世の光」という聖書の言葉を使って高く評価しており、1945年の貴族院補欠選挙に岩波が当選した際には、正木もその記念会合に参加している。しかしそうした交友は、敗戦直後の『近きより』において、正木が岩波をも批判の対象にすることを妨げるものではなかった。「恰も若き学徒が特攻隊員となって敵機敵艦に体当りを刊行した如く、死を決して主戦論者に反対したならば」戦争を食い止められたかもしれないとした、『世界』創刊号における岩波の感傷的な述懐を、正木はまったく非現実的なものとして一蹴している。しかし、敗戦後の正木が岩波をより驚愕させたのは、その猛烈な天皇制への攻撃ではなかったか。天皇制国家の国民は「家畜」であったと言ってはばからないそれは、弾圧から復活した共産党とその周辺も顔負けの、稀に見るレヴェルの激越さを有するものであった。とりわけ正木は、岩波が自身の指針/防壁として尊重した「五箇条の御誓文」についても怒りの舌鋒を緩めない。彼に言わせれば、その最後の条文に「大〔おおい〕に皇基を振起すべし」という言葉がつけられていることで、一見開明的な「御誓文」も全体としては結局「皇室の利己主義」を優先するだけものとなっており、ここから「自由」や「民主主義」を引き出そうとすること自体が間違っていたことになる。


安倍の『岩波茂雄傳』は、こうした反「五箇条の御誓文」の主張を岩波本人も認めるに至ったという正木の側の証言を一応取り上げつつも、正木の持論のダシとして岩波が使われているのではないかとして、「かりに正木の言ふ如くウーンとつまつたとしても、正木の説に参つたかどうかは分からない」とやんわり否認している。岩波が敗戦から間もなく亡くなったこともあり、実際に彼の天皇制認識がどう変化したか、あるいはしなかったかはよく分からないものの、敗戦後もなおも天皇を支持した安倍の立場からは、当然の岩波(と「御誓文」)の擁護と言えよう(注5)。しかしそうすると、中島氏によれば「戦後のパラダイム」にとらわれているはずの安倍が、岩波個人だけでなく「五箇条の御誓文」という一種の「戦前のパラダイム」を支持しているのはなぜかということになる。それとも中島氏にとっては、「五箇条の御誓文」が「戦後のパラダイム」ということになるのであろうか。こうした疑問を惹起することになるからか、安倍による正木への反駁についても、やはり中島氏の本では検討されることはない。だが、岩波が体現していると仮定されるところの「戦前のパラダイム」について比較対象を定めるのであれば、安倍ではなく正木のような人物の方が適当なのは明らかである(注6)。後者の反天皇制思想は、敗戦後の日本でもついに主流にはなっていないが、民主主義が天皇にその根源を置くものではないという種の考え方は、少なくとも1945年以降多くの人間に共有されていったはずのものであり、それこそが「戦後のパラダイム」と呼ぶにふさわしいであろう。頭山満のような人物を「左右両翼を超越して天地の大義に生きる國賓的存在」として抱擁できるか否かという点で、確かに岩波と安倍は感覚を異にしている。しかし、天皇制や民主主義の根源の問題について言えば、岩波と(戦後の)安倍の拠って立つ「パラダイム」の差はまったくなかったのではないか。安倍の著作を「戦後のパラダイム」に位置づけることによって、本来存在しない自分の著作のオリジナリティを強調するだけでなく、中島氏は分析そのものを破綻させているのである。


ここまで挙げてきた興味深い問題点の数々に対して、まったく論評らしい論評をなしていない『岩波茂雄』という本は、「左右の「バカの壁」」を自分から掘り崩して、何が何でも「右」(だけ)を取り入れようとせねば気がすまない種の社会運動や、現在の明仁天皇が大衆より「民主主義的」であると、それがどうしたとしか言いようのない羊の鳴き声ばかりあげる知識人があふれている、日本の世情には見合った、あるいはそれに合わせた作品と言えるかもしれない。しかし、日中戦争の時期の岩波について中島氏は、「熱烈なパトリオットとして振る舞うことで、排外主義者を牽制した。しかし、岩波の愛国は、微温的なものとして非難の対象とされた。「愛国」をめぐる闘争は、ますます厳しい状況に突入して行った」とも書いている。それでは、岩波の「「愛国」をめぐる闘争」がつまるところ失敗に終わったのではなかったかという、現代にも通ずる意味を持つ問題に対する歴史家なり伝記作家としての判断が必要であると思われるが、またしても、またしても例によってその辺りの明言を中島氏は避ける。わたし個人としては、「リベラル」なり「左派」なりは、そもそも「愛国競争」ではなく別の土俵で勝負しなければ話にならないと考えているのだが、中島氏の上記の記述を見ていると、現在行われている「「愛国」をめぐる闘争」が実はすでに敗北に終わりつつあることを、中島氏自身も意識的ないしは無意識的に理解しているのではないかと思う。


といったわけで、よくもこんな本が当の岩波書店から出せたものだと思うにつれ、わたしはほとんどグロッキーになったが、とどめの一撃は『岩波茂雄』読了後にのぞいた岩波書店のサイトから飛んできた。馬場公彦「編集者メッセージ――浮かび上がる新たな岩波茂雄像」がそれである。『岩波茂雄』の「あとがき」では中島氏に「実は馬場さんの大らかさの中に、時折、岩波を重ねることがあった」と持ち上げられ、中島氏の著作とほぼ同時期に発売された十重田裕一『岩波茂雄 低く暮らし、高く想ふ』(ミネルヴァ書房/注7)の「あとがき」でも言及されている、岩波書店の幹部である馬場氏の一文を眼にして、わたしは精も魂も尽き果てた。馬場氏によれば、岩波書店に入社した社員には必ず安倍の『岩波茂雄傳』を渡しているそうだが、本当に岩波書店の人々がそれをきちんと読んでいたなら、中島氏の原稿がその出来の悪い書き換えに過ぎないことはわかったはずである。また彼は、『岩波茂雄傳』を「正史」、『惜櫟荘主人』を「私史」と位置付けたうえで、「気鋭の政治学者の手になる」新著を「評伝」であるとしているが、そもそも中島氏の本には「評伝」らしい厳格な対象への「評価」など何もなく、あるとすれば、現在の岩波書店の方針にあわせるように、創業者についての記憶を外部の筆者に書き換えてもらおうとする歴史修正主義的な試みである。


そして、「われわれ社員にとっての茂雄像は、もしかしたら戦後の左右対立的な思考回路によって、戦後の自社の出版活動から類推して、都合良く切り取られた茂雄像だったのかもしれない」。これは何たる言い草か? この編集者にとって「自社のイメージ」というものは、大きな船舶が輸送やら漁労やらをこなす中で知らぬ間にこびりつかせている、牡蠣やフジツボのようなものでしかないのであろうか。確かにイメージというものは、他者が勝手に貼ることもままある。しかし、戦後のある時期の(あるいは現在も)岩波書店は、むしろ大いに自分の牡蠣やフジツボを喧伝しながら、つまり自分たちに「都合よく切り取られた」イメージとともに、本を売っていた(いる)のではないのか。また様々な筆者に本を書いてもらっていた(いる)のではないのか。「私どもが「リベラル」とか「左派」とかだなんて! それはあなたたちが勝手に思っていたことに過ぎません!」とでも言いたいのか。こういう発言が、多くの長年の読者と筆者を瞞着していると思われても仕方がないであろう。


この馬場氏は、学術分野への参画者として岩波書店の外で自身の本を出しているようだが、彼のやるべきことは、まずは自社から出る他人の本の水準を高めることであろう。確かに、編集者から文筆家として名を挙げた人はいくらでも存在する。敗戦後の岩波書店だけを見ても、小林勇は随筆家・セミプロ画家としても著名になったし、長田幹雄は竹久夢二の研究で名を馳せている。しかし現在の岩波書店には、先人たちの優雅とも言える文人的な活動を許す余裕はあまりないはずだ。確かにわたしは、「リベラル保守」なるマントラあるいは処世術を駆使している中島氏のような人物を個人として好んでいない。しかしここでの問題はそういうことでない。岩波茂雄という人物の「リベラル・ナショナリズム」を論じている中島氏の本が、「学問的」な見地から見て明らかに、著しく低い水準にしかないことである。


安倍能成が岩波茂雄についてもっとも強調していたこととは、彼が「リベラル」あるいは「ナショナリスト」であったことについてではなく、彼の「学問」への貢献についてである。安倍は、大正期より岩波がマルクス主義的書籍の出版をも積極的に行ったことを、中島氏が仮定するところの「リベラル・ナショナリズム」とは結びつけていない。それは「彼の社會的公正の理想と、精神とに基づくものであつた。彼は學者でなく學問をよく知つて居たとはいへぬが、學問の意義と價値とを信じたのみならず、この信念を出版に於いて実現した。彼はこの點よき意味に於ける進歩主義者であつた」。さらに下記の一文からは、安倍が生涯の友人に見出したのが、現在にも通ずる一つの理想的な出版人の姿であったことが分かる。


原理の學としての哲學を尊重し、民族や世界の文化財の最も重要なものとしての古典を認識し、眞實の論理と現象を開示するものとしての、人事については歴史學、社会科學、自然現象については數學、自然科學の探究及び普及に貢獻しようとした岩波の基本的見識は、實に正大であり確實であり、この點に於いて彼は、世間のいはゆる學者よりも更にしつかりと、眞の學問的精神を把握し、しかもこれを自家の出版に於いて力強く実現し得たといつてよい。


しかし、中島氏の非学問的著作を、過去の関係者による有力な著作を乗り越えたことを僭称・吹聴しながら売り出す現在の岩波書店とその文化(注8)は、こうした岩波の志からとてつもなく遠く離れてしまっているのではないのか。100周年を迎えた出版社に必要なのは、自転車操業的に精度の低い本を量産することではなく、創業者の抱いていた種の「基本的見識」や「眞の學問的精神」を、もう一度取り戻すことではないのか。





(注4):中島氏の『岩波茂雄』を読んだ後、わたしは初めて『近きより』の大半を復元した全5巻の文庫本(社会思想社版、1991年)を手に取ったのだが、前に読んだ本の反動もあってか「これをなぜ今まで読まずに来たのか」と後悔すら覚えるくらい面白く感じた。岩波の発言の非現実性を批判する際、正木は自身の過去の言説について「もちろん、言論統制という非人道的な枠に入れられていたので、直接法を以って表現し得なかった場合が多いのではありますが、〔中略〕戦時中における一国民としての最高度の善であったと確信するのであります」と豪語しているが、清沢のように「内的葛藤」へ逼塞した「自由主義者」がほとんどの時代に、これだけの「抵抗」が見せられたということは確かに誇るに足る。彼の戦時期の文章の数々から、わたしはベルトルト・ブレヒトの『コイナさん談義』の主人公の振る舞いを想起する。歴史の確認および読書の楽しみという意味で、安倍および小林の岩波伝と合わせて、未読の読者にはこちらもおすすめしたい。


(注5):ただし安倍は、戦時中における正木の批評――もちろん天皇制の枠内での――についてはむしろ支持していた。『近きより』1942年8月号には、正木の箴言をまとめた著作『人生断章』への読者の反響が掲載されているが、その中で安倍は「その御趣旨も殆ど同感といってよく、殊に現下の日本人に触れた所は満腔の同意を惜みません」という十分な賛辞を送っている。安倍が正木の読者であったのは、岩波の介在に加えて弟の恕〔はかる〕が裁判官として法曹界にいたことも影響していると思われるが、「満腔の同意」という言葉には社交辞令を超えた賞賛が含まれている。ところで、この安倍の言葉のそばには、なんと清沢と蓑田の感想が並んで載っている。清沢が三行の簡潔な言葉で正木の著作を褒めているのに対し、蓑田は皇国の興隆を祈願するポエムとも祝詞ともつかない意味不明な長々しい代物を寄稿している。「大御心」の尊重を装ったレトリックによって、蓑田のような右翼人士まで自分の雑誌の読者に抱えていたことが、正木個人の安全を確保するものになっていたことは想像に難くない。しかしその一方で正木は、残された「自由」を極限まで活用すればするほど、天皇を盾とする「奴隷の言葉」を通じた発言の本質的な虚しさや限界についてもまた悟っていったのではないか。そうして鬱積していったものの爆発が、人気の民事弁護士から冤罪事件の弾劾者へと転じていく、「日本には珍しい非マルクス主義的共和主義者」(家永三郎『正木ひろし』、三省堂、1981年)としての、敗戦後の正木の活動につながっていったと考えてよかろう。


(注6):もっとも、岩波が正木に対してアドヴァンテージを保っていると感じられる部分がないわけではない。東京第二弁護士会の会長であった古賀正義による『近きより』の解説(「注4」に挙げた文庫本の第1巻収録)では、発刊初期における正木の文章が矢内原忠雄の発禁事件などに極めて冷淡であっただけでなく、「各行に見られる中国および中国人に対する侮蔑的言辞」の存在を指摘している。正木の中国を軽侮した記述は、1939年の中国旅行を契機に雑誌からは次第に影を潜めていくが、それまでの期間については「人間類型的にも多少似たところのあった岩波茂雄が徹底的に中国侵略に反対(公然とではないが)したのと比較して、中国認識の点において大きな遜色があることを免れない」という、ちょうど岩波を引き合いにした古賀氏の意見に、わたしも同意する。わたしが中島氏であったら、この古賀氏の記述には大いに注目するところであろう。つまり「戦後に断固たる反天皇制を主張した正木のような人物においてすら、中国蔑視を当たり前のように披歴していた時期において、岩波はなんと先を行っていたことだろう!」と、中国への姿勢という点から岩波独自の「リベラル」ぶりを評価することもできるからである。もっとも、現在の日本で「リベラル」を自負する人々には、たとえ自国の荒廃はなんともならなくとも中国や朝鮮だけは適度に小馬鹿にしておくという、1939年までの正木のような振る舞いこそ「リベラル」としてのフォーマットになっているようではあるが。


(注7):本稿は中島氏の著作について集中しているため、こちらを合わせて詳しく分析する余裕がなかったのは残念である。ざっと読んでの私見を述べるならば、十重田氏によるこの伝記にも岩波個人に関する新知見はないものの、専門である文学研究やメディア史の成果を援用し、安倍の古典的著述で強調された「哲学書肆」像とは異なった、戦前の岩波書店の側面を提示することには成功している。この本が収録されている「ミネルヴァ日本評伝選」シリーズは、編集委員の多くは保守的、評伝の対象となる人物の多くも保守的、執筆者にいたってはしばしば反動的ですらあるというしんどいシリーズ(たとえば支倉常長については田中英道、森鴎外および小堀鞆音については小堀圭一郎といった、「新しい歴史教科書をつくる会」人脈に平気で書かせている)なのだが、その中では比較的マシな方である。


(注8):余談だが、中島氏のこの著作の初版――再版されているかは知らない――をわたしより先に読んだある知人は、ドイツの哲学者ハインリヒ・リッケルトの名前が本文・索引の両方で「リットケル」となっていたことから「この本はやっつけ仕事だ」と断じていた。リッケルトという人物は三木清をはじめ、1920年代における多くの日本人留学生と関わることで、この時代の「岩波文化」に大変な影響を与えた人物であり、著者と編集者が本当にこの本を真面目につくっていたら、または「岩波文化」に敬意を払っていたなら、そうした重要人物の名前を間違えるはずがない――その知人はそう主張していた。リッケルトの重要性については、わたしも生松敬三『ハイデルベルク:ある大学都市の精神史』(TBSブリタニカ、1980年)などで読んだ覚えがある。たかだか一か所の誤植ではないかと諸君は思われるかもしれないが、この著作の本質は、案外こうした細部に現れているのかもしれない。




〔付記〕


大変こっぱずかしい話だが、先日自分の書いた記事を見直していたら、この記事の「前編」の三段落目で、安倍能成の「安倍」が「安部」になっている箇所を複数発見したので、それらを訂正した。「リットケル」やら「本田正信」やらをバカにしておきながらこの体たらくで、大いに反省している。ただ言い訳をさせてもらうと、こちらは岩波書店や講談社のようにプロの校正係を抱えているわけではないので、こうした種類の誤りについてはどうかご勘弁願いたい。こちらの情報を見て、こっそり当方に通報してくれればなおありがたい。


それはさておき、最近の中島氏は『岩波茂雄』の製造者責任を特に公的には誰にも問われぬまま、平凡社の創業者である下中彌三郎の伝記を、当の平凡社から出したらしい。おそらく平凡社の誰一人として、中島氏の『岩波茂雄』には目を通していなかったのであろう。あれを読んだ上で、なお創業者の伝記を書かせるとしたら、彼らは知性に貢献するのではなく「読書人」向けの商売がしたいだけである。そうでなければ、戦前から続いている日本の老舗出版社の間に「自社の歴史を歴史修正主義的に語ってほしいブーム」でも到来しているとしか考えられない。


(2015年4月14日)


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