引用(28)

大衆化ということは、俗流化とか卑俗性とかいうこととは非常にちがう。大衆的な著作家というものは、非常に簡単な、一般によく知られた与件から出発して、こみいっていない推論か、うまくえらんだ実例の助けをかりて、これらの与件から出てくる主要な結論をしめし、ものを考える読者をつぎつぎとそのさきの問題に突きあたらせながら、読者を深い思想へ、深遠な学説へ導いていくのである。大衆的な著作家は、ものを考えない読者、ものを考えようと欲しないかまたは考えることのできない読者を目あてにしてはいない。反対に、彼は、未熟の読者のなかにひそむ、頭を働かせようという真剣な意向を目あてにしており、読者がこの真剣で骨の折れる仕事をはたすのをたすけ、読者が第一歩を踏みだすのをたすけながら、それからさき自主的にすすんでいくようにおしえながら、読者を導くのである。俗流著作家はものを考えない、また考える能力のない読者を目あてにする。彼は読者を真剣な科学の初歩的原理に突きあたらせず、一定の学説のあらゆる結論を片輪〔ママ〕に単純化された、冗談や洒落で塩加減した姿で、「お膳だてのできたものとして」、したがって読者のほうではそれを噛みくだく必要さえなく、ただこの雑炊を丸呑みにしさえすればいいようにして、読者に提供するのである。



レーニン「雑誌『スヴォボーダ』について」
(マルクス=レーニン主義研究所訳)



※原文にある強調の傍点は太字に直した。



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