たとえ話

ある人が別の人を説得するために用いる語りの方法は色々あるが、論じたい事項を何か別のものになぞらえることで、相手の理解を深めたり、相手の気づいていないことを気づかせたりしながら議論を進める、たとえ話の技法は昔からのものらしい。かの『三国志』(『三国志演義』ではなく、同時代の陳寿による史書)にも、呉の幕僚の諸葛謹――諸君の中にも、弟の諸葛亮の方はご存じという向きもおられよう――は、その篤実な人格によってだけでなく、たとえ話を有効に活用することで君主の信任を得たというエピソードがわざわざ記されている(注1)。また明治時代の日本では、同じ時期に成立した新しい国民国家としてイタリアに注目しようという動きがあり、マッツィーニ、カヴール、ガリバルディといったリソルジメントの指導者たちが、自国の木戸孝允、大久保利通、西郷隆盛という「維新三傑」になぞらえられて紹介されたという(注2)。


生来粗暴で、こちらが気に食わぬ時には声を荒立てたり席を蹴ったりということがザラであるわたしとしては、このような「たとえ話による説得や議論」を使いこなせる人には非常にあこがれる。しかしそんなわたしにさえも、7月中に飛び出した安倍晋三首相のたとえ話は、端的に言って色々とヒドいものに感じられた。「隣家に入る泥棒」「友達のアソウさんVS不良」「強盗に襲われる隣のスガさん」……これは一体何なのか? 卑近を通り越して限りなく含蓄に欠けたもの言いといい、テレビ出演する際の「生肉」模型といい、揶揄する声が挙がったのは当然ではあったが、わたしが驚きかつ腹に据えかねたのは、彼のたとえ話にまったく真剣さが感じられなかったことである。


「安倍はバカだから」という論調があり、わたしも彼が「賢い」人物とはまったく思っていないのだが、問題は彼の知性ではない。そもそも彼には、汗をかいて必死に相手に話を伝えたいという心情が存在しないし、人生においてそういう努力をしてこなかった、またはする必要のなかった人物なのであろう。彼が「友達のアソウさん」のような同じ階層とだけつきあっていれば、その中では最初から話はツーカーである。一方彼より「下」の立場の人間には、諸葛謹のような部下ないしは臣下がいないのか、利益供与に群がる亡者ばかりなのかは分からないが、自分から彼のあらゆることを必死に忖度してやる(「真意」探し)人物か、最初から全面平伏して絶対文句を言わないだけの人物かのどちらかしかいない。こうなると、彼の側からの努力を伴う「説得」は、一々しなくてもよいことになる。この感覚をもってして他国の人々と「外交」を展開するとあれば、彼が驚くほど稚拙で無策な言動に終始するのも道理である。


ところがその一方で、愚劣な首相を批判する側の運動の中に、完全に誤った形でたとえ話が使われている事例もずいぶん存在する。その筆頭は、例によって「北朝鮮のよう」的な比喩の濫觴である。少し前から、2020年の東京オリンピックのエンブレムが外国のデザインの盗用であるかどうかが問題になってきたが、これに関してまで「北朝鮮」に引きつけた当てこすりが展開されていたのを見かけたのには驚いた。とある有名な「政治ブロガー」――しばしばそれなりに検討に値することも書いている――の一人は自身のツィッターで、この疑惑のデザインの選定に安倍首相が関わっていると大雑把に推論しつつ、もしこのデザインに問題がなければ「あれはオレが決めたんだと裏話をマスコミに漏らして得意になっていたんだろうな。金正恩みたいに」などと書いていた。


この「金正恩みたいに」という後付けの台詞は、真面目に考えるといかにも変である。朝鮮労働党の第一書記が「あれはオレが決めたんだぞ」と、実際にかの国の国家的イヴェントに関わるデザインの分野において吹聴している、という話は聞かない(安倍首相の話も推論なのだから当然だが)。この「政治ブロガー」が自分で日頃言っている通り、かの国では国家によって情報を強く統制しているので(「我々」の情報産業は、自分を自分で統制しているのでその必要がない)、指導者の側からのリークという政治手法も用いられていない。「得意になって」いる政治家の顔については、アメリカやロシアの指導者群でも普通に代用できる。要するに、安倍首相を攻撃するためなら、まったく無関係のところにまで「北朝鮮」表象を出張させなければ気が済まない、ということである。


とりあえず二点だけ指摘しておこう。まず、「我々」を含めた西側の情報産業が朝鮮について提供する情報は極めて不正確か、悪くすれば徹頭徹尾虚偽や噂話にすぎないものばかりであるのに、そのようなものに基づいた「北朝鮮」像によりかかった話を安易に利用してよいのか、という問題である。例を挙げると、「我々」の側では情報産業の海外消息のネタが枯れるたびに、かの国で最高指導者の機嫌を損ねた取り巻きや政府高官たちが定期的にマシンガンで蜂の巣にされたり犬に食われたり、ともあれどえらい殺され方をするという話が出てくる。しかし、そうした人々がいつの間にか指導者のそばにまた現れているという怪現象を、「我々」はもう何度か見ているのではなかったか。ここしばらくで、かの国の指導者層の粛清が客観的事実として確定されたと言えるのは、張成沢の事件くらいであろう(注3)。朝鮮当局が不必要なまでに秘密厳守なのは事実であるが、外部の資本主義国の情報産業の連中にどんなニュースを流したところで、それをそのままストレートに認識することなど決してないであろうという、彼らの観測も正しいようだ。「マスコミが自民党や公明党に有利なように、低レヴェルな情報ばかり流している」と叫ぶ人々が、そのマスコミやら自民党や公明党やらが蔓延させている低レヴェル(これは文字通りそうである)な「北朝鮮」像を使って安倍内閣を攻撃するとは、極めて奇妙なことではあるまいか。何らかの判断の前提となる情報の質が極めて低く、その扱い方も実にいい加減なままで、彼らはいかに今後の「ポスト安倍」(倒閣できればだが)の国際政治を展望していくのであろうか。


より「北朝鮮」イメージの乱用で問題となるように思われるのは、「邪悪なる北朝鮮」のストーリーに安易に寄りかかっているだけのところに、本質的な意味での知性なり悟性なりの成長はあり得るのかという点である。たとえ話の利点の一つには、一つ一つを時間をかけて逐一語っていくことの煩雑をショートカットするということがあるが、そのたとえが極めて短絡的なイメージにもたれかかっている場合、議論している相手の思考を刺激し触発していくという、それが本来は持っている過程や機能まで条件反射的にすっ飛ばしてしまうのである。2000年代から「我々」には、あらゆる場所と機会において「邪悪なる北朝鮮」のイメージが、悪質な情報産業と政府与党の側から刷り込まれているのであり、まったく彼らの土俵である。そもそも話し手だけではなく、受け手の側も「北朝鮮は悪である」ことはとっくに「知っている」のだから、結果として「自分たちは彼らではない」という一体感は増幅するかもしれないが、それはアベさんとアソウさんのツーカーぶりと似たようなものではなかろうか。


「北朝鮮」のたとえ話を振り回す前に、アジア・太平洋戦争に敗北した日本がいかに長きに渡って、外交の場においては旧被支配国に対する道義的/法的責任を回避し、内政の場においてはファシスト的人脈を温存することに奔走してきたかについて、またそうしたことごとのすべてが、中国なり朝鮮なりのあらゆる層への不信を長年招いてきているかについて、安倍首相の退陣を要求する人々の中核はどこまで真剣に考えているのであろうか。もちろんこうした問題群を承知の上で、最初から噛んで含めるように説くのは軍事法案を葬り去らねばならぬ「緊急事態」には迂遠である、とする人も中にはいるのかもしれない。しかし「邪悪なる北朝鮮みたいにはなりたくない」というショートカットで、一時は他者を説得出来るかに見えても、そういった安易かつ条件反射的に得られた認識は、同じく条件反射的に逆流することも簡単に起こりうる。すなわち「邪悪なる北朝鮮みたいにはなりたくない」が、あっという間に「彼らが邪悪なら我らが打倒せねばならぬ」に転ずる可能性である。2011年、すなわちNATOが仕掛けた対リビア戦争以降、西側諸国の「人道の帝国主義」の犯罪性はますます猖獗を極めているが、日本で平和を希求する人々はこうした「先進国」の醜悪な傾向にもっと目を配り、自国版の「北朝鮮解放のための戦争」的な論理が発展する可能性に警戒しなければならない。ここ10年「リベラル」なり「左翼」なりを自認する日本人の間でも、「日中韓」といった、朝鮮の存在を暗室に押し込めた国際政治の認識枠組みは当たり前になってしまっているが、この手の「平和主義」の欺瞞性は別にファシスト的右翼でなくても十分感知できる。一朝事あらば、そこを突いた日本独自の「人道の帝国主義」戦争のイデオロギーが噴出し、戦争指導者たちに「邪悪なる北朝鮮」表象は徹底的に活用されるであろうが、それと同じ表象に浸っている現在の軍事法案反対者たちは、その時どれだけ明白に拒否できるのか。わたしは寒心に堪えない。


相手の何かを触発し説得するという機能を果たしていないたとえ話なら、嬉々としてしゃべるべきではない。わたしは個人として、何度も何度もこの手の言い草を見聞きしているうちに、部分的には、むしろ日本は「北朝鮮のよう」でなくて残念なのではとすら思えるようになってしまった。実際、「世襲」の実態一つとってもそうである(注4)。安倍首相の先祖は、帝国主義国家の官僚・閣僚として征服戦争を遂行したにも関わらず、その犯罪行為への審判も巧みにすり抜け、ついには「民主主義」体制下で首相にまでなった。これに対して金正恩氏の先祖は、そうした帝国主義国家の征服者と戦い自身の属する人民を救おうと奮闘した――彼の先祖とその周辺の一角だけがそうであったわけではないにせよ――人物には違いない。本当に「北朝鮮のよう」に、自国で反帝国主義闘争を展開した人々やその末裔が、1945年以降の「我々」の政治の中枢についていれば、少しくらいは今日の現実も何か変わっていたのではなかろうか。しかし残念ながら、ここは日本、あくまでも日本、どう転んでも日本、まぎれもなく「北朝鮮」でもなく中国でもない日本である。今回の軍事法案に限らず、現在の「我々」の悲惨は他のどの国家の有するそれとも異なったものであり、いかなるたとえ話も追いつかない種のものではないか――そう何度でも考えてみるべきである。





(注1):「孫権と語り合ったり諌めを述べたりするときには、けっして強い言葉を用いたりすることなく、思うところをわずかに態度に表わし、主張のおおよそを述べるだけで、もしすぐには孫権に受け入れられぬようであれば、そのままにして他に話を移し、やがてまた他のことに託して意見を述べ、物にたとえて同意を求めた。このようにしたため、孫権の気持も往々にして変ったのであった」、『三国志 Ⅲ 世界古典文学全集第24巻』(小南一郎訳、筑摩書房、1989年)。


(注2):藤澤房俊『イタリア「誕生」の物語』(講談社選書メチエ、2012年)。ただしこの比較がおそろしく荒っぽいのは、現在の眼から見れば明らかである。ブルジョワ政治家としてのカヴールと大久保の比較はまだある程度成り立つかもしれないが、マッツィーニの『人間の義務について(人間義務論)』に見られる人民主権論などは、有産市民向け議会の開設にすら死ぬまで抵抗したという木戸の意識とは明らかに異なる。ガリバルディも武士道精神と言うよりはコスモポリタン的精神の持ち主であり、西郷のような征韓論者ではなかった。さらにマッツィーニとガリバルディの二人は、自由主義的運動のみならず社会主義的なそれにも一定の関心を示し、一時は第一インターナショナルに加わっていたこともあるくらいだが、木戸や西郷の方ではそのような潮流を知る由もなかったであろう。


(注3):これはハングルの読める人のツィッターで見た話だが、最近発生した38度線における朝鮮と韓国の衝突に際し、解決のために板門店に派遣された朝鮮側の人員の中には、西側世界で出回ったニュースに従えば今年の5月に粛清されているはずの人物がいたという。当の韓国でも問題になっているというこの手の怪談は季節を問わないものだが、それにしてもこうした情報環境下において、朝鮮政府の説明がすべてデタラメで韓国政府のそれが正確であると信じよと言われても無理がある。「自由」な西側情報産業が、いかに「自由」にリビアについての疑似情報を形成したかも想起せよ。


(注4):ヨシフ・スターリンも毛沢東も自分の子孫に政権を継がせることはしなかった(できなかった)ことを考えると、この辺りに疑問が生まれることは無理もない。ただしこの話は、たとえば自由民主主義諸国の盟主たるアメリカにおいても、次期大統領候補の有力候補として、ブッシュ家の孫とクリントン家の女主人がいるという現実を無視してできるとも思われない。建国初期のジョン・アダムズ親子(第2代&第6代大統領)や、セオドア・ルーズヴェルトとフランクリン・ルーズヴェルト(第26代&第32代大統領)の親戚関係について言っているのではない。ジェブ・ブッシュがその座につけばまさしく「3代目」であるし、ヒラリー・クリントンがその座につけば、昔インドやフィリピンなどであった、元大統領夫人が自ら大統領になるパターンとあいなる。「金王朝」と呼ぶことが許されるなら、「我々」は「ブッシュ朝」や「クリントン朝」がなぜ台頭しているのかについて、大真面目に議論をしてもよいのではないか。




スポンサーサイト