続・たとえ話(上)

1)現在アメリカでは「トランプ」が大統領になるかもしれないと大騒ぎになっているが、かつてかの国には、大統領より世界の民衆から愛された「トランプ」がいた。彼がその卓越したパフォーマンスの技量で獲得した名声は、同時代に四たび大統領に当選したフランクリン・ルーズヴェルトすら及ばないほどのものであった。しかしこの「トランプ」は、セレブリティの一員に上り詰めながらも国粋主義に与せず、自分の出身階級との連帯精神をも手放そうとしなかったので、支配層は次第に彼を疎んじるようになり、最後には国外へ追いだした――わたしはテレビのニュースでドナルド・トランプ(Trump)の名前が呼ばれるたびに、日本語では発音と綴りが同じになる、チャーリー・チャップリンの演じた「放浪者(Tramp)」を頭に浮かべてしまう。


こうした反射的な連想は、現在のような事態になる以前から、「リベラル」とされるアメリカの情報産業においてトランプ氏がしばしば「道化者」扱いされていたのを読んできたせいかもしれない。この「手帖」においてはイタリアの話をちょくちょくしているが、トランプ氏という人は、ここ20年に渡ってかの国の首相として世界で物笑いの種にされてきた、シルヴィオ・ベルルスコーニの同類のように思える。わたしに言わせれば、イタリア以上にビジネス上の億万長者が尊ばれるアメリカのような国で、そして「左派」的勢力が貧弱な国で、先にトランプ氏のような人物が台頭しなかったことがむしろ意外であったのだが。ともあれ、アメリカ人もイタリアのことをもう笑っていられないようで、かの国の情報産業のあちこちでトランプ氏への批判がなされているわけだが、その中には以前この「手帖」でも取り上げたような、日本における「北朝鮮」に関するたとえ話にも勝るとも劣らない、空虚なレトリックを振り回しているものがあるようだ。日本でも紹介されている、1000万人以上と見積もられた「不法移民」の強制送還についての彼の公約が、「スターリンやポル・ポト以来」のものとした、今年の2月24日の『ワシントン・ポスト』の「社説」はその一典型であろう。


2)確認しなくてはならないのは、ヨシフ・スターリンやポル・ポトの「強制移住」政策が、基本的に元来の自国の公民に対して行われたものであり、国外からの「不法移民」に対しなされたものではないことである。前者は、不可侵条約の時期においても事実上の敵国であり、後に実際の交戦国となった、ナチス・ドイツや日本と結びついた反乱の可能性を消滅させるためになされた軍事上の措置として、また後者はその(無謀な)経済上の措置として、それを行った。こうした歴史的事実については、世界の労働者/市民の立場から――まず「我々」は『ワシントン・ポスト』がそうした立場にあるかどうか疑ってかかるべきである――、その道義性や必要性が全面的に否認されるのはよいことであるにせよ、少なくともその行為は「移民」を一義的な標的にしていたわけではない以上、トランプ氏の「デマゴギー」を批判するのに使うのは不適切である。また、スターリンなりポル・ポトなりの政治手法は「強制移住」の件に限らず、猛烈な鉄拳政治であったとして間違いはなかろうが、彼らの基盤はトランプ氏のような放言と金権にあったわけではない。


日本における『ワシントン・ポスト』の社説の紹介を読んだ時、わたしはかの新聞が、「邪悪な北朝鮮」の上位カテゴリーとしての「邪悪な共産主義者」のイメージをトランプ氏にあてはめたいのだろうと推測した。しかし、いくら「邪悪な共産主義者」の話を出したところで、トランプ氏は明らかに資本主義体制下でのし上がってきた人物である。そうした彼のサクセス・ストーリーに惹かれる彼の素朴な支持者にとっては、おそらく「それはドナルドとはまったく関係ないだろう」で終わりである。『ワシントン・ポスト』はトランプ支持者について、ポストを見てもアカだと騒ぐようなジョゼフ・マッカーシー的妄想を今日なお抱いている連中ばかりと認識し、「トランプは共産主義者であるか、そのまわし者に違いない」とアクロバティックに考えさせるように仕向けたいのかもしれないが、それは排外主義そのものの批判になっていると言えるだろうか。「リベラル」である自身を愛しているであろう、この新聞の固定顧客はこれに満足するかもしれないが。


朝鮮は1948年の建国以来、その国家機構と社会制度が指導者の世襲を伴いつつ現在も継続しているから、アメリカや日本の人間は自己の軍事ドクトリンを棚あげする限りにおいて、彼らの「脅威」が継続し続けていると言うことは一応可能である。しかしヨシフ・スターリンやポル・ポトが展開した政治支配は、すでにこの地上のどこにも存在しない。「邪悪な共産主義者」のイメージは、冷戦期に搾り取るだけ搾り取ったはずなのに、まだアメリカ人はその残り汁を吸って飽き足らないのであろうか。『ワシントン・ポスト』に限らないが、「共産主義」は過去の話であり問題外のものとして封印しているはずの人々が、自分の必要な時にだけ倒した敵を召喚することで読者に説教しようというのは、ほとんどポケットモンスターをモンスターボールから呼び出すがごとき手軽さである。しかし、ポケモンごときに現代の読者が恐怖する、あるいは歴史的教訓を読み取りうると本気で考えている人がいるとしたら、それはとんだ間抜けではないか。


3)――と、日本語の記事を最初に見た際には思ったのだが、改めて『ワシントン・ポスト』の「社説」の全文を読んだところ、彼らは「共産主義者」をそこまで問題にしていないことに気づいた。ちょうど社会主義の歴史に関する論文をネットでいくつか読んでいたところだったので、いささか勘ぐりすぎたようである。彼らにとってより汎用性があり、より安易に振りまわせる便利なレッテルがあるではないか。すなわちわたしは、「邪悪な北朝鮮」の上位に「邪悪な共産主義者」があるだけでなく、それらを包含する「邪悪な独裁者」というカテゴリーがあることをすっかり忘れていた。


日本での紹介では省略されていた部分であるが、実は『ワシントン・ポスト』は、スターリンとポル・ポトを引っ張り出している部分の直前に、「独裁者ウラジミール・プーチン」にも言及している。こうでなくては完璧なたとえ話と言えないということなのだろうが、毎度ながら彼らの恣意的なカテゴリー化にはほとほと呆れさせられる。2011年の下院議員選において、プーチン大統領の与党「統一ロシア」は一定の批判を受けた結果、議席占有率を52パーセントにまで減らしていたはずである。議会の過半数をどうにか制しただけの政党のトップが「独裁者」だったら、二大政党制の国家における時の指導者はすべて「独裁者」と呼べてしまう(注1)。プーチン大統領をたとえば「強権的」とでも言っているなら、よほど妥当であろう。しかしアメリカの情報産業は、「独裁者」という明らかに実態的でない空虚な表象に憑りつかれている。そして、いまだ公権力を握っているわけでもない人物に対し、他国の政治家にことよせたイメージ操作的な「批判」ばかりしている有様には、自国だけが「自由」であるという権威主義に拝跪する、彼らの精神的な奴隷性すら見い出すことも可能であろう。


トランプ氏が「プーチンを尊敬している」としてことさらに攻撃するのも、これまたおなじみ「悪党と仲良しな奴はそいつも悪党」理論である。イタリアの話をここでも引き合いに出すと、かの国の民主党(かつてのイタリア共産党多数派のなれの果て)が、リビアへの「人道的介入」を唱えつつ、ベルルスコーニ首相の追い落としにムアマル・カダフィを悪党として活用した時ほど、彼らの何重もの知的・政治的破綻を露呈させたことはない。2000年代、ベルルスコーニ首相の接近をカダフィ大佐は鷹揚に受け入れていたが、それよりずっと前からの友人として、彼にはネルソン・マンデラ――1990年代以降の西側諸国でほとんど聖人あつかいされた――がいた。マンデラの方では孫の一人に「ガダフィー」と名前をつけたそうである。しかし「戦争賛成左派」(ジャン・ブリクモン)は、「聖人と仲良しな方はその方も聖人」という風には一度も考えず、自分の趣味に都合の悪いことは思い出さなかった。こうした西側の「民主主義者」を観察して、「持つべきものは友ではなく核」と朝鮮政府が結論したのも無理はない。


(つづく)





(注1):日本でもそうだが、現代ロシアについての報道において、存在している複数野党の動向が(それらの「問題発言」を除いて)まったく伝えられないのは驚くべきことである。筆頭野党のロシア連邦共産党、社会主義インターナショナルにもオブザーヴァー参加している「公正ロシア」、議会内最右派のロシア自由民主党を合わせると、その議席占有率は40パーセントを超える。得票率に比べて不当に高い議席占有率を第一党が牛耳る、日本のような制度的な極端な乖離も存在しない。政治学では、絶対的与党と微細な「衛星政党」で構成される、かつての東欧の社会主義国(また現在の中国)に典型的な「ヘゲモニー政党制」という概念があるが、これにも当てはまらない。西側の情報産業はおそらく「野党が機能していない」と言うのであろうが、それなら彼らの国にはどんな野党が「機能して」いるのであろうか?



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