新しい伊藤野枝伝?(その1)

伊藤野枝の名前は「無政府主義者大杉栄の妻」として、すなわち関東大震災の際に憲兵隊に謀殺された人物の一人として、現在では高校日本史の教科書の多くに掲載されている。今年の春、岩波書店から「気鋭の若手研究者」による、この伊藤の「伝記」を銘打った新著が出された。栗原康『村に火をつけ、白痴になれ――伊藤野枝伝』(岩波書店、2016年)である。近所の図書館に配架されたことを知った時には、あいにく予約がすでに3件入っていたので、この本を入手して読んだという知人を見つけて交渉の末譲り受けたのだが、その知人からは「あなたも懲りませんね」と何度となく言われた。以前わたしは、中島岳志『岩波茂雄 リベラル・ナショナリストの肖像』(岩波書店、2013年)を取り上げ、同じ人物の古典的評伝として定評のある安倍能成『岩波茂雄』(岩波書店、初版1957年)と主に比較しつつ、前者がいかに伝記として不出来であり非学問的であるかについて論じていたからである(こちらこちらを参照)。これらの文章を知っている知人はわたしに、「あの出版社に極めて失望している(その出版物以外によっても)からと言って、罵倒するためだけに読もうというのはよくないですよ」と親身に忠告してくれたのだが、別にそういう底意が最初からあるわけではない。わたしは伝記という文学/歴史のジャンルが好きであり、「人生いかに生きる/生きないべきか」について最も示唆を与えてくれるものとして、たとえば愚劣なヒマツブシ以上のものではなくなった多くの現代小説よりも、よほど興味深いものたりうると思っている。ゆえに、岩波の評伝を僭称する中島本を読んだ時のように、「可能な限り虚心坦懐に作品を一度読んでみるのが公正というものであろう」と、いま一度考えたまでである。


中島氏の『岩波茂雄』を論じた時と異なり、栗原氏の本を読む前のわたしの伊藤野枝についての知識といえば、最初に挙げた高校教科書レヴェルのそれ以上ではなかった。ゆえに、伊藤の生涯に起こった一連の事件――すなわちその生い立ち、詩人辻潤との結婚生活、女性誌『青鞜』の執筆者・編集者としての活動、「自由恋愛」の四角関係(伊藤・大杉・堺保子・神近市子の間のそれ)が破綻した「日蔭茶屋事件」、そして無政府主義的女性批評家としての自立といったことごと自体については、この本で初めて知ることになったとは言える。しかし続けて告白すると、わたしは200ページに満たないこの本を読了するのに、大変な精神的困難を覚えた。「伝記」としてのこの本の完成度が、極めて低いとしか感じられなかったのである。疑問に思ったことについて、別の書き手による伊藤の伝記的記述、また伊藤と同時代の人物の文章を続けて読むうちに、この本は中島氏の本が有するヒドさとも共通する点を持ちあわせ、質的には劣るとも勝らないことをわたしは確信するに至ったのである。


最初に書いておくべきなのは、文体がもたらす精神的苦痛についてであろう。岩波書店のサイトの検索を使うと、本の目次や小見出しが挙がってくるので諸君にも見てもらいたいが、率直に言って悪ふざけが過ぎるというか、幼児じみているという感想を抱かないだろうか? 残念ながらこれらは目次ゆえの「引き」というわけではなく、中身もこのような書きぶりである。「たすけてください、たすけてください」とか「人のセックスを笑うな」とか「やっちまいな」とか、著者はどこかで聞いたフレーズをちょくちょくはさむのが好きなようである。より目立つのは、「ムカつく」「かっこいい」「○○だ」といった、大量に散りばめられたワンフレーズである。もちろん、文体の評価は多分に個人の感性も関わってくる問題であり、最大限に好意的にとれば、著者はこれらのワンフレーズで講釈師のように、文章のリズムをとっているということになるのだろう。が、これらは言ってみれば紋切型かつ冗語の山である。岩波書店からの紹介にある「編集者からのメッセージ」には、「野枝に恋する大杉栄が憑依したかのような,栗原さんの文章のグルーヴ!」という言葉があるが、この著者のワンフレーズの数々は、パヴロフの犬の条件反射的な感想以上のものとは思われない。「グルーヴ」を感じたいのなら音楽を聴けばよいし、かの電気グルーヴだってここまでアホっぽくはあるまい。かつて友人とカラオケに行った時、酒が入った友人の一人が電気グルーヴの「ネタ曲」を歌うのを聞き、わたしも大いに笑った記憶がある。しかし電気グルーヴと違い、この文章のアホっぽさは読んでいて寒くなるだけである。


文体に続いて疑問を呼ぶのは、本書の末尾に付された69カ所の注釈のあり方である。井手文子による先駆的な伊藤の伝記(後述)などでは、伊藤らの書いた文章を引用する場合は、その出典を小さなカッコ書きで文中に挟み込むだけにとどめており、より詳細な情報を提供できる巻末脚注の形式は採用していない。ゆえに、この手の著作を読みなれていない人からすると、「69カ所も注がある」本著の方が、井手の本と比べてより学問的にしっかりした本であるかのように見えるかもしれない。しかし、学術雑誌においては、30ページほどの短い論文にもそのくらいの量の注は普通についていたりするものである。もちろん、注がついている本に比べ、それがない本が劣っていると言いたいわけではない。栗原氏の本の問題は、注のつけ方に著しい偏りが存在することである。すなわち、伊藤と大杉のテキストについては、最新の『定本伊藤野枝全集』(學藝書林、2000年)および『大杉栄全集』(ぱる出版、2014-2016年)からの出典が逐一指し示されているのに対し、それ以外の部分には、必要なはずの注がほとんどなされていないのである。たとえば、親族や上野女学校時代の学友による、幼き日の伊藤がいかに「わがまま」だったかという回想はどこから引っ張って来たのか。伊藤と大杉が殺害された際、当時の内務大臣であった後藤新平が責任者を叱責したというエピソードは何からの引用か。伊藤と大杉について逐一出典を挙げるのなら、こうした周辺の証言についての情報も、予備知識がない読者にとっては必要なものではないのか。注の付け方の中途半端さがどこから来ているのかは分からないが、わたしの邪推するところでは、まず突貫工事で本文が書かれた後、あわてて伊藤と大杉の部分に(のみ)脚注を加えたことで、「先行する著作より学問的な本ですよ」という見せかけを整えようとしたのではないか。著者は大学などの研究機関で常勤職を得ていないようだが、そうであればこそ、岩波書店というブランドの下に「学問的」な体裁を持った本が出されれば、猟官活動にも大いに役立てることができよう。しかし、非常勤教員の待遇のヒドさには同情するにしても、一読者としてのわたしが問題にしたいのは、この著作が本当に「学問的」な内実を有しているか否かである。


巻末に脚注と並んでいる、参考文献表にも奇妙な点が多い。たとえば瀬戸内寂聴の小説『美は乱調にあり』と『諧調は偽りなり』(初版1966年・1984年/注1)に加えて、それらを原作とした柴門ふみによるマンガ『美は乱調にあり』(角川書店、2014年)まで載っているのはなぜだろうか。小説『美は乱調にあり』は、アジア・太平洋戦争後において初の『伊藤野枝全集』(學藝書林、1970年/注2)が編集される前に書かれている点で先駆的であり、当時存命であった伊藤の遺族らへの取材も含まれている点に資料的価値を見ることも可能と言えるものの、マンガ版はごく近年になされたそのリライトに過ぎない。その一方で、この参考文献表にはアルフレッド・ホワイトヘッドに関する本などが入れてある。ホワイトヘッドの盟友で、無政府主義にしばしば好意を示し、実際に伊藤(と大杉)にも面会しているバートランド・ラッセルならよく分かるのだが、わざわざホワイトヘッドに関する本も入れている。ゆえにこの文献表を見ると、ホワイトヘッドと伊藤とがどうつながっているのか、または彼の理論が伊藤を読む上でどう役立つのかといった説明が読みたくなるのだが、そういった話が本文には存在しない。こうした部分からは、少なくとも学問的な著作ではありえない参考文献の水増しが疑われる。同じ岩波書店から出版されている『「知」の欺瞞』(岩波現代文庫、2014年)に出てくる、アラン・ソーカルの疑似学術論文のような「読者が突っ込んでくれることを待っている」代物として、わざとこう書かれているのではないかと思えてくる。


本文・注・参考文献表を代わる代わる眺めていてもっとも不思議な気分になるのは、従来○○についてはこう言われているがという風に、著者の主張が「従来の説」に対抗して展開されるはずの部分において、その「従来の説」を書いている人々や彼らの著作の具体的な名前が一切言及されないことである。脚注方式を採っている本著においては、本文中にそうした名前を入れこまなくても、注で別個に書誌データを示しておくだけでよいのだが、それすらない。中島氏の『岩波茂雄』が、安倍能成の正統的な伝記に挑むと大見得を切っておきがら、先行する著作のどこが問題なのか具体的には一切指摘していなかったのと似ている。岩波書店が期待していようといまいと、「新進気鋭の研究者」なら、ただハッタリをかましているだけではすまないはずなのだが。


(つづく)





(注1):この二編の伊藤野枝の伝記小説は、今年に入って岩波現代文庫から順次発売されていく予定のようだが、わたしは昨年の冬に近所の図書館にあった『瀬戸内寂聴伝記小説集』第4巻(文芸春秋、1989年)で読んだ。これまでわたしは瀬戸内氏について、対談&説法で巡業しているただの尼さんだと思っていたのだが、今回はじめて小説家――伝記作家としての力量と真摯さを感じさせる――としての往年の彼女の姿を認識したわけだが、正直この小説だけでも、栗原氏の著作の存在意義を疑わせてあまりある。


(注2):こちらの全2巻の『伊藤野枝全集』は、栗原氏の著書の参考文献表に挙がっていない。同じ出版社から30年後に出た全4巻の『定本伊藤野枝全集』が、伊藤のテキストの収録量という点で完全に上回っているという理由から、その存在がスルーされたと思われる。しかしこの版は、比較的公共図書館などに置いてあることも多く(旧全集があるという理由で、新全集を買わないところも多い)、井手による主要テキストの比較的詳しい解題や、無政府主義者の秋山清による二つの記念対談なども、独自の情報として含まれている。伊藤と大杉の殺害から間もなく編まれた、『大杉栄全集』の別冊としての『伊藤野枝全集』(1925年)は省略するとしても、こちらの版についてはむしろ文献表に掲載されてしかるべきであったろう。



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