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引用(26)

――現時点の必要に応える唯一の宗教は、資本教である〔中略〕。「資本」は、いたるところに在る、実在の神だ。これはあらゆる形で姿を現わす――ぴかぴかの金貨であり臭い人糞肥料であり、羊の群れであり珈琲の積荷であり、聖書の在庫品、ポルノ画集の梱包であり、おびただしいコンドームの巨大な製造機械である。「資本」は、だれしもが知り、見、触り、嗅ぎ、味わう神である。それは、我々の全感覚に存在する。これは不信心者のない唯一の神である。〔中略〕


――ある者らにとっては、これは恐ろしい存在として姿を現わし、ある者には、うら若い母の愛のように優しい。ある地方に「資本」が襲いかかると、これはもう台風襲来であって、人間を、獣を、あらゆるものを、粉砕しかみ砕く。ヨーロッパ資本がエジプトを襲撃した時、農夫らを引っ摑み、牛や荷車、つるはしぐるみ土地から引き剥がしてスエズ谿谷へ連れて行った。鋼鉄のように冷酷な手で働くことを強制し、彼らは太陽に焼かれ、熱に震え、飢えと渇きに苦しんだ。そして三万人が運河の堤に骨を埋めた。若くてたくましく、敏捷で健康で、くったくのない陽気な若者を「資本」はつかまえ、製造工場や織物工場、鉱山に何千となく監禁する。そこで彼らを、大窯でふんだんに燃やす炭のように消費し、彼らの血肉を、石炭や織糸、機械の鋼に混ぜあわす。彼らの生命力を木石に注ぎ込むのだ。彼らが自由の身にされた時には、擦り切れこわされて、歳でもないのに老けてしまっている。彼らはもう能なしの骸骨にすぎず、貧血とリンパ腺結核、肺病が残りを奪い合うだけだ。人間の想像力は恐ろしい妖怪をはらむものだが、かつてかくまでに残酷で恐怖させる、悪徳に有能な神をうみ出したことはない。――とはいえそれは、選ばれた者らにとっては、なんと優しく頼りがいがあり、愛すべきものなのだろう。〔中略〕


真理の息吹きに昂って、連中は足を踏みならし吼えたてた。
――「資本」はなり。
――「資本」には、祖国も国境も肌の色も、人種も年齢も性別も区別がない。これは国際的神、普遍の神だ。人間の子らことごとくをその掟の下に従わせるであろう、と教皇特使が崇高な陶酔におちいって叫んだ。数々の過去の宗教を抹殺しよう。国際間の憎悪と宗教間の軋轢を忘れよう。心を一つにして、資本教の新教義をうち立てよう。



ラファルグ「資本教」
(田淵晉也訳)



引用(25)

日本国民は日本国が「自分達の国」だということを忘れるように子供の時から教育されている。だから愛国心といってもお互い同士を愛し合うことではなく、何か特別なことをするように考えている。


日本人は物資の欠乏に悩まされているのみならず感情の欠乏に悩まされている。日本人には敏感な神経はあるが感情が足りない。自分の屋敷の塀を高くして庭園を掃き清める神経質はあるが、塀を低くして衆と共に楽しむという感情は希薄である。


日本独特の銭湯と称するものは、既に三百年を経過した今日でも、なお銭湯道徳なるもの確立されず。蛇口(カラン)の前に立ち塞がってあぐらをかき、一人で桶を多数占領し啖を吐き、手鼻をかみ、立って湯をかぶり、風呂の中で身体を擦って垢を落し、無暗やたらに湯を浪費し、脱衣所で衣類をはたいて、塵を狭い場所に充満させ、ゲップをしながら出ていく。


歯槽膿漏の子供に、
「お前の口は臭い臭い」といって
叱っている親があった。
日本人には「叱る」ことの効用の限界を知らない人間が多い。


口を開けば「日本主義」とか、「日本思想」とかいう人があるが、日本が本当に日本らしかったのは紀元何年から何年までを言うのか。大抵の時代、日本人は事大主義者であり機会主義者ではなかったのか。それとも斬捨御免の封建時代が日本主義的だとでも言うのか。斬り捨てる方は愉快だったかも知れないが、斬り捨てられる方は、たまったものではなかった。



『近きより』1941年6月号、正木ひろし「私のメモより」抜粋


引用(24)

あれから敵はずっと勝ち続けてゐる天皇を許した日から


荒川源吾の短歌より


引用(23)

三十歳代は革命を捨てた。もしかすると四十歳代が、それをまた拾い上げるのだろうか。しかし感情で始める知識人は、二日酔いで終る。じっさい、幻滅なんかするやつは、銃殺されていい。この種の革命家のマルクス主義は、グラックス兄弟の域を現実に超えていなかったのだ。これからは長い待機の時期が来るだろう。多少とも真剣な仕事のためには、いまほど良い時機はない。きみはこの冬、時間をあけておかなければいけないぜ。


ブレヒトからエルヴィン・ピスカートアへの手紙、1928年9-10月ごろ
(野村修訳)


引用(22)

新聞や雑誌を読む、ラジオなりテレビなりを視聴する、政治家、経済人、文化人たちの声明を解釈する際、虚偽から真実を区別することはもはや問題になりえない。すべてが虚偽だからである。ゆえに問題となるのは、現実に対していかに虚偽が増幅されているかを見ること、様々なやり口による歪曲の手管を学ぶこと、そして歪曲から現実へとさかのぼるための技法を得ることである。なるほど、こうした技法はすでに存在しているものであり、昨日からのものではない。以前から歴史家は史料を解釈する中でそれをわきまえているし、外交家にとっては日常の技術である。しかし今日、我々の公的かつ社会的な生活のすべてが虚偽の中で動き、虚偽を呼吸している以上、それは万人にとって不可欠な日常の技術とならねばならないと思われる。


アントニオ・ラ=ペンナ『箴言および覚書集』

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