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「中東革命」は誰のものか、または匪賊対革命ごっこ(補足++++)

諸君もご承知の通り、リビアの事態が大きく動いた。「現時点においても「千日手」状態が破れたとは言い難いところがありそうである」と前回書いたわたしの見立ては、どうやら誤っていたようであり、お恥ずかしい限りである。イタリアの一般紙の多くのトップでは、ベルルスコーニ首相の御用新聞である『リベロ』や『ジョルナーレ』あたりを別にすると、ほとんどが大きな写真とともに「トリポリ陥落(へ)」と謳っている模様である。新聞以外でも、様々な人物のコメントが各所でなされている(たとえばアンジェロ・デル=ボカ)。


これまで約5か月にわたり、手探りでリビアの戦争についての(ニッチな)情報を集めて書いてきたが、この戦争はあらゆる次元にわたって大変な諸問題を噴出した(している)ものであり、次回の文章ではそれらを改めて整理する必要があると思っている。ただ、近い将来においてそれを提示する前に、一つだけ急いで紹介しておきたい文章がある。当シリーズの「その5」で、「リビアと人道の帝国主義の再来」の筆者として紹介したジャン・ブリクモンが、新たにDiana Johnstone との連名で、同じ「カウンターパンチ」誌のサイトに8月16日づけで発表した「誰がリビアの救い手からリビアを救うのか?」という一文である。今回の事態において一番忌々しい要素の一つが、まさにここに書かれていることであり、まったくもって永久に救われないのは「リビア」ではないというこの二人の意見に、わたしは120パーセント同意する。昨夜この原文を読んだ時には、英語なのでサイトへのリンクだけ張ろうと最初は考えたが、問題性――少なくとも私見によれば――を鑑み、後半部分のみを数時間で粗っぽく訳した。緊急ということでご寛恕願いたい。こんなものはあてにならぬという諸君(ごもっともである)、また全体を読みたいという諸君には、ぜひ直接原文でご覧いただきたい。


http://counterpunch.org/bricmont08162011.html


―――――


誰がリビアの救い手からリビアを救うのか? 〔※後半部分の抜粋〕


8月16日

ジャン・ブリクモン/ダイアナ・ジョンストン





このリビアにおける小さい戦争は、NATOが犯罪的であるとともに無能であることを暴露している。


またそれは、NATO諸国の左翼組織がまったくの役立たずであったことをも暴露している。反対することが容易な戦争というものはおそらく存在しない。しかしヨーロッパの左翼組織は、それに反対しなかったのである。


3か月前、リビアについてのメディアの誇大宣伝がカタールのテレビ局アルジャジーラによってなされていた時、左翼組織はためらいもなしに賛成する立場をとった。数十ものフランスの左翼党派と北アフリカの諸組織は、3月26日にパリで「リビア人民への連帯の行進」を行うことを呼びかけた。完全な混乱の陳列の中で、これら諸組織は「リビア人民の唯一の合法的代表としての国民暫定評議会の承認」と同時に、「外国人在住者と移民の保護」を呼びかけていたのだが、実際のところこうした外国人在住者や移民は、評議会に代表された反乱側そのものから保護される必要があった。暫定評議会を支持する軍事作戦を暗黙のうちに支持する一方、これらのグループは「西側政府とアラブ連盟の二枚舌」と、こうした軍事作戦の「エスカレーション」の可能性に関しての「警戒」をも呼びかけていたのである。


こうしたアピールに署名した諸組織には、亡命中であるリビア、シリア、チュニジア、モロッコ、アルジェリア人の反対派グループだけでなく、フランス緑の党、反資本主義党、フランス共産党、左翼党、反人種主義運動MRAPに、金融グローバリゼーションに批判的な民衆教育運動で広い基盤を持つATTACまでが含まれていた。こうしたグループは一体として、社会党――「警戒」の呼びかけすらないまま彼らの側で戦争を支持した――の左に位置する、フランスの政治組織潮流の領域を実質的に代表している。


NATOの爆撃による市民の犠牲者のような、国連安全保障理事会の決議からの逸脱に対し、約束された「戦争のエスカレーションに対する警戒」がなされた形跡は何もない。


仮定された虐殺を止めるために「我々は何かをしなければならない」と訴え行進に参加したアクティヴィストたちは今日、仮定されたものではなく現実に目に見えるものであり、「何かをした」人びとによって起こされた虐殺を止めるためには何もしていない。


左翼党派の群衆における「我々は何かをしなければならない」の根本的な誤謬は、「我々」の意味合いに存している。もし彼らが「我々」を文字通りに意図したのなら、その時彼らが唯一できたことは、反乱側に立って戦う国際旅団のようなものを組織することであった。しかしもちろん、反乱側を支援するために「我々」は「何でも」しなければならないという主張にもかかわらず、そのような可能性については誰も一顧だにしなかった。


こうして、彼らの「我々」が事実上意味しているのは、西洋列強、NATO、そしてとりわけ、この戦争を遂行するだけの「無類の能力」を持つ唯一者としてのアメリカである。


この「我々は何かをしなければならない」群衆はいつも、二種類の要求を混同している。一つは、実際に彼らが、西欧諸国によってなされることを期待できるもの――反乱側の支援、リビア人民の唯一の合法的な代表としての暫定評議会の承認――であり、もう一つは、実際に彼らが、列強諸国にそのようにさせることが期待できないとともに、彼ら自身それを達成することがまったく不能であるもの――爆撃を軍事目標に限定し、市民を保護し、国連決議の枠内に慎重にとどまること――である。


これら二種類の要求はたがいに矛盾している。内戦においては、どちらの側も国連決議の厳密さないしは市民の保護について、優先的に考えることはない。どちらの側も勝利することを願っている、ただそれだけであり、そして復讐への欲望がしばしば残虐行為を引き起こす。もし誰かが反乱側を「支援する」とすれば、その人は事実上、彼らが勝利に必要であると判断するすべてをさせるための、白紙委任状を与えていることになる。


しかしその人は、反乱側ほど血に飢えてはいないかもしれないが、さらに強力な破壊手段を手元においている、西側参戦国およびNATOにも白紙委任状を与えているのである。そして彼らは、サヴァイヴァル・マシーンとして活動する巨大な官僚機構である。彼らは勝利を求める。さもなければ彼らは、資金と資源の損失を導く可能性のある「信用」の問題(戦争を支持した政治家たちがそうするような)を抱えている。ひとたびこの戦争がはじまると、断固とした反戦運動を欠いた中で、国連決議によって許されたことにその活動を制限させるようNATOを束縛することのできる、いかなる勢力も西側諸国にはさっぱり存在しない。そして、左翼党派の後者の一連の要求には誰も耳を貸さない。彼らは、その意図は純粋であるところの戦争賛成左翼〔pro-war left〕であることを、自ら証明しようとしているのに過ぎない。


反乱側を支持することによって、干渉賛成左翼は効果的に反戦運動を殺すこととなった。実際、内戦において外部からの干渉による助けを必死に求める反乱側を支援しつつ、同時にこうした干渉に反対することに、何の意味があるのだろう。干渉賛成右翼の方がよほど首尾一貫している。


戦争賛成左翼と右翼はともに、「我々」(文明化された民主主義的西洋を意味する)が、他国に我々の意思を押しつける権利と能力を持っているという確信を共有している。人種主義と植民地主義を非難することを商売道具〔stock in trade〕にしているフランスの運動は、あらゆる植民地主義的征服が、専制的人物として非難されたペルシャの太守、インドの諸侯、アフリカの王たちに対する形で行われたと想起すること、またはフランスの諸組織がリビア人民の「合法的な代表」は誰かを決定しているという何かしらの奇妙さについて指摘することに失敗している。


わずかな孤立した個々人の努力にもかかわらず、ヨーロッパにはNATOの猛攻撃を止めるどころか、それを緩和することのできる民衆運動すら存在しない。唯一の希望は、反乱側の自滅、もしくはアメリカの議会反対派、もしくは寡頭支配者たちによる支出のカットくらいだろう。しかしその一方で、ヨーロッパの左翼は歴史上もっとも露骨に弁解の余地なき戦争の一つに反対することで、復活する機会を逸しているのである。ヨーロッパそれ自身が、こうしたモラル的破産によって苦しむことになるだろう。



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「中東革命」は誰のものか、または匪賊対革命ごっこ(夏休み特大号その2)

さて、当方の私事多忙につき、リビア戦争に関する旧宗主国イタリアにおける懐疑論や反対意見の(ニッチな)紹介からしばらく離れてしまっていた。今回久しぶりに紹介したいのは、雑誌『ファミーリア・クリスティアーナ〔キリストの家族〕』のサイトに6月14日づけで掲載された、Marinella Correggiaの「リビア:もしすべてがうそだとしたら?」である。同誌は1931年の創刊という歴史と100万人を超す読者をもつことを自負しており、イタリアでもよく知られた雑誌の一つであるが、この記事はリビア戦争の「虚偽」について強く踏み込み、様々な外国語サイトの情報をまとめて引用している。紹介されている「対抗情報」は、英・仏語が読める諸君にはすでになじみのものがほとんどかもしれないが(記事には特に、カナダの「グローバル・リサーチ」発の情報が多く引かれている)、この記事から2カ月経過している現在も、「我々」の間でこのような「まとめ」を行っている人はあまりいないので、この遅すぎる紹介にも一定の意味はあるだろうと考える。


掲載分は、数字で区切られた3つの章がそれぞれのページに分かれているが、拙訳では一つに統一してある。また今回は、家庭全体で読まれることを志向する雑誌の性格を考慮し、語尾を「です・ます調」にしてみた。なお、〔〕内には訳の簡単な補足を付した。


http://www.famigliacristiana.it/informazione/news_2/dossier/libia_140611115251.aspx
http://www.famigliacristiana.it/informazione/news_2/dossier/libia_140611115251/mercenari-miliziani-e-cecchini_140611120422.aspx
http://www.famigliacristiana.it/informazione/news_2/dossier/libia_140611115251/oltre-750-mila-sfollati_140611120908.aspx


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《リビア:もしすべてがうそだとしたら?》


この資料集には、戦争、NATOの作戦、軍事干渉の目的について考えるための、良質の論拠の一端があります。


マリネッラ・コッレッジャ
2011年6月14日




1:すべての虚偽の母

(写真:「真実検証委員会」事務所、トリポリにて)


イタリアも参加している、リビアにおけるNATOの戦争(「ユニファイド・プロテクター」作戦)は、国際世論に対して「カダフィに虐殺されているリビア人を保護する」人道的介入として説明されています。しかし実際にはNATOとカタール〔衛星放送「アルジャジーラ」のスポンサーでもある〕が、戦略地政学的な理由によって、抗争中の武装した二つの武装勢力の一つである、ベンガジの反乱側(もう一方にあるのはリビア政府)を支持するために肩を並べているのです。そしてこの戦争は、地政学雑誌『Limes』でルーチョ・カラッチョーロ〔Lucio Caracciolo〕が言及したように、虚偽と欠落で満たされた「情報の虚脱状態〔collasso dell'informazione〕」として言及されていくことでしょう。


イタリア人女性企業家のティツィアーナ・ガマンノッシ〔Tiziana Gamannossi〕と、カメルーンのアクティヴィストによってトリポリに設立され、その他の諸国のアクティヴィストも参加している、「真実検証委員会」(Fact Finding Commission)は、こうしたことを研究しています。


すべての虚偽の母:「1万人の死者と5万5千人の負傷者」。戦略地政学的な真の理由を持った干渉(http://globalresearch.ca/index.ph p?context=va&aid=23983)のためのこの口実は、2月に考案されています。先の2月23日、反乱がはじまって間もない時期において、衛星テレビ局「アル=アラービーヤ」がツィッターを通じ、虐殺を非難しました。つまり「リビアにおける1万人の死者と5万人の負傷者」、つまりトリポリとベンガジにおいて空爆が行われ、〔急造の〕共同墓地がつくられるにいたったと。この情報源はSayed Al Shanukaで、彼はパリから国際刑事裁判所のリビア人メンバーとして発言しています(http://www.ansamed.info/en/libia/news/ME.XEF93179.html)。


この「ニュース」は世界中を駆け巡り、国連安全保障委員会、後にはNATOの干渉の正当化の主な理由を提供しました。つまり「市民を保護する」というそれです。しかしその逆に、当の国際刑事裁判所の側による否定の声明が、世界を駆け巡ることはありませんでした。「Sayed Al Shanuka――またはEl Hadi Shallouf――氏は、当法廷のいかなるメンバーでも顧問でもありません」(http://www.icc-cpi.int/NR/exeres/8974AA77-8CFD-4148-8FFC-FF3742BB6ECB.htm)。


トリポリおよびリビア東部において、2月に大勢の人々が虐殺されたという写真やビデオはあるのでしょうか。いいえ。リビア軍の飛行機がトリポリの三つの地区に爆撃したというのは? まったく証明がありません。破壊の痕跡がまったくないのです。ロシアの軍事衛星は、事態の最初から状況をモニターで監視していたのに、何も発見していません(http://rt.com/news/airstrikes-libya-russian-military/)。海岸につくられたという「共同墓地」はどうでしょうか? それはSidi Hamedにある公営墓地(墓穴は別々!)の映像であり、そこでは去年の8月に改葬の一般的作業が行われていただけでした(http://www.youtube.com/watch?v=hPej4Ur_tz0)。それでは、東リビアにおいて2月に突然カダフィが命令した殺戮については? まったくです。そのような現場で、携帯電話で写真や動画を撮る人が誰もいなかったということがありうるのでしょうか?


カメルーン人で地政学のエキスパートであるジャン=ポール・ポガラ〔Jean-Paul Pougala〕(ジュネーブ大学の教師)もまた、アフリカの病院すべてを合わせても、緊急事態のために確保されているベッドの数はわずか1万しかなく、5万5千人の負傷者を治療するためには十分ではないだろうと指摘しています(http://mondialisation.ca/index.php?context=va&aid=24960)。




2:傭兵、民兵、狙撃兵
(写真:ミスラータから疎開してきたリビアの子供たち)


敵を悪魔化するという作業は、対イラク戦争においてすでに、アメリカの広告代理店Wirthlinグループが大きな成功をおさめていますが、それはリビアの場合でも非常にうまく行きました。「カダフィは黒人の傭兵を使っている」。リビアの兵士は常に「傭兵」「民兵」「狙撃兵」と定義されています。特にメディアは、親政府側の戦闘員の中における、暗黒大陸〔=アフリカ、原文ママ〕の非リビア人市民の存在を強調しています。反乱側は証拠として、様々な死体の写真を撮っています。しかし、リビア南部の部族のほとんどは黒い肌をした人たちです。


「カダフィの傭兵、民兵や狙撃兵たちは、バイアグラを使用して女性に暴行を働いている」。リビア政府はバイアグラを兵士に与え、彼らに多数の強姦をさせるがままにしているとして、アメリカの国連代表スーザン・ライスに告発されました。しかし、国際組織ヒューマン・ライツ・ウォッチのフレッド・アブラハムス〔Fred Abrahams〕は、性的襲撃行為については複数の信憑性ある事例が存在するものの(一方でリビア政府と何人かの移民は、反乱側に対する同様の告発へと動いています)、政権側からの組織的な命令によってそれがなされている証拠はないと認めています。同様に、一家皆殺しや8歳の子供たちへの暴行への告発についても、矛盾した諸証言にのみ基づいた(またイギリスのスキャンダル雑誌にのみ報じられた)
(http://www.dailymail.co.uk/news/article-1380364/Libya-Gaddafis-troops-rape-children-young-eight.html)ものです。


「カダフィはミスラータでクラスター爆弾を使用した」。非政府組織と『ニューヨーク・タイムス』は、Mat-129型〔120型の誤りか〕爆弾の子爆発体が都市で発見されたとしています。しかし、各種サイトで取り上げられた「ヒューマン・ライツ・インヴェスティゲーション」の調査(http://www.uruknet.de/?l=e&p=-6&hd=0&size=1)によれば、NATOの艦船から砲撃された可能性があります。


「ミスラータでの市民の殺戮」。武装した政府支持側と反乱側の衝突の中で、それに巻き込まれ、確かに数百人ないしは数千人の市民が亡くなっています。ただしどちらの側も、殺戮と残虐行為の告発を相手に向けています。




3:75万人以上の避難民
(写真:子供とともにいる、負傷したリビアの正規軍兵士。ズリテン〔トリポリとミスラータを挟んだ位置にある都市のひとつ〕にて)


何万もの市民の犠牲……NATOの「ミサイル攻撃」の付随効果。3月から開始された空からの爆撃において、数百人以上の市民が死亡(リビア政府によれば700人以上)し、常時数百人が病院で手当てを受けているとともに、この戦争からは75万人を超える疎開者と避難者が生まれています。これは国連人道事務所のヴァレリー・アモス〔Valerie Amos〕の提供したデータですが、5月13日までのものです。リビアの市民が国内の別の場所へ移っているのとともに、とりわけ非常に多くの移民が仕事のないまま暴力の不安にさらされています(貧窮のニジェールに、6万6千人が帰国しただけです)(http://www.mondialisation.ca/index.php?context=va&aid=24959)。今年の初めからは、すでに1500人を超える移民が地中海で死亡しています。


黒人と移民になされている残虐行為の被害。アフリカ諸国の政府とリビアにいる黒人移民による告発、ならびに「人権国際連盟〔Fédération internationale des droits de l’homme〕」のような人道組織が集めた証言(www.lexpress.fr/actualite/monde/libye-des-exactions-anti-noirs-dans-les-zones-rebelles_994554.html)によれば、東リビア――反乱側に掌握されている――において、無実の移民労働者が「カダフィの傭兵」として告発され、私刑、拷問、殺害といった何らかの人種主義的な行為の、また窃盗の対象となっています。反乱側が発信している様々な映像によれば、彼らが死刑に処している、また虐待しているリビア政府の兵士は、とりわけ黒人です(http://fortresseurope.blogspot.com/search/label/Rivoluzionari%20e%20razzisti%3F%20I%20video)。国際社会は今日までこうした告発を無視してきました。


すべての協定の提案が退けられている。リビアの内戦の当初から、最初はラテンアメリカ諸国、後にはアフリカ連合(UA)によって、休戦および早期に選挙を実施するという協定の提案が様々になされてきました。NATOおよび反乱側はまったくこれらを無視してきています。



―――――


筆者のコッレッジャ氏についてこれまでわたしが知るところはなかったが、彼女の関わっている著作を検索すると、ブルキナファソの軍人政治家であったトマス・サンカラの文集や『世界の南部からのベジタリアン料理』などが目につく。特に近年の著作に付せられた紹介によれば、中南米、アフリカ、インドなどの調査経験を持つアクティヴィストであり、平和主義運動、フェア・トレードの推進、政治犯や死刑囚の支援、環境および動物の保護などに広く携わっているようである。リビアの事態を受けて立ちあげた彼女の臨時ツィッター(抗議を訴えるメッセージが1件あるのみ)の「フォローしている」には、「リビアにおける軍事干渉への反対」の署名者の一人であるジェンナーロ・カロテヌート(Gennaro Carotenuto)に加え、ウーゴ・チャベスの名前が挙がっている。こうした人物の寄稿を受け入れることには、雑誌の内部でも議論はあるのだろうが、かの国の民主党をはじめとする世俗的「中道左派」がベルルスコーニ政権一つひっくり返せないまま空爆続行への追加予算を容認しているのと比べ、カトリック界に属する人々が(おそらくは販売上のリスクも一定背負って)このような言説を提供していることは、同じ神を信仰しない者にも評価されてよいことではないだろうか。




「中東革命」は誰のものか、または匪賊対革命ごっこ(夏休み特大号その1)

リビアの状況について、再び反乱勢力が優勢に立ちつつあると報じられた一方、その反乱勢力の中でリビア政府の閣僚から転じた幹部の暗殺事件が起こり、暫定評議会の「内閣」総辞職に至るなど、全体が不明瞭な点は相変わらずである。特に暗殺事件について、7月30日づけの『産経新聞』の記事では「そもそも反体制派には明確な指揮系統がないといわれ、影響は限定的とみられる」などと書かれているが、考えようによってはなかなかの話である。仮に彼らが現政府に勝利したとして、軍事組織の「明確な指揮系統がない」まま内部分裂――暗殺事件をその兆候とする見解は現在少なくない――が起こったとしたら、さらなる内戦が起こるということではないか? そもそも中央の統制を外れた軍隊というとわたしは関東軍を思い出すし、この記者もそうしたかどうかとも考えたものの、時空を超えた大日本帝国さらには神代との精神的紐帯を四六時中誇っているオカルト組織の関係者が歴史的教訓とでも言うべきものを想起すると思う方がバカバカしいと気づくのに時間はいらなかった。


それはさておき、アンジェロ・デル=ボカは、6月中旬から7月初頭の時点において、リビアの軍事状態は「千日手」であると指摘している(注1)。すなわち、リビア政府は、NATOのたびたびの勝利宣言にもかかわらず、なお戦局を維持するだけの軍事力を温存している(反乱勢力を完全に追い詰めれば、NATOが陸軍の投入に動く可能性が高いから、そこまではコマを進められない)。一方、ベンガジ側の武装闘争も有効に勢力圏を広げられない(NATO側による大々的な援助と、トリポリ側への空爆という松葉杖がなければ、そもそも対峙しえない)。ゆえにこれ以上死者を出さないよう、西欧諸国は停戦プロセスに向かわねばならないというのが彼のオピニオンであったが、現時点においても「千日手」状態が破れたとは言い難いところがありそうである。


ところで先日、わたしは6月から7月にかけてリビアを取材したという日本人のブログを偶然目の当たりにしたのだが、残念ながら以前言及した『毎日新聞』にとどまらない、「我々」の報道産業の全体に及ぶ悲惨さを感じさせる内容であったと言わねばならない。念のため言っておくと、わたしはこのブログの書き手が完全にベンガジ側に立っていることが問題だとはまったく思ってはいない。カダフィ氏の政府も「火のないところ」ではないと前に書いた通りである。しかし、この内戦がリビアにおける純粋な「悪逆なるカダフィ」対「立ち上がる市民」による一対一の決闘だというのは、仏・英・米・伊といった諸国の動きをみれば絶対にありえないことであり、内戦の取材をするならするで最初にそのあたりについて見解を示してくれなければ問題ではと思うのだが、この書き手はそうした疑問が世界中でなんら生まれていないかのように振る舞っている。つまりこれは、空爆開始以前にばらまかれていた「物語」で頭をいっぱいにした人間が、自分の中にある固定観念を再確認して帰っただけの記録であると思われる。


いくつか記事から目につく、もしくは鼻につくところを拾ってみよう。たとえば、冒頭の記事のタイトルが「いざカダフィ退治」ウンヌン。この言葉は一体何なのか。「退治」というのは、桃太郎の鬼退治とかスサノオのヤマタノオロチ退治とか、要するに「怪物」をやっつけてメデタシメデタシというファンタジー世界のものであり、こうした部分の端々に開かれた精神ではない単なる軽率さが表れている(注2)。「最前線で共に戦ってます」などといったところで、そもそもあなたが銃を手にしているわけじゃないだろう。外部の人間が本当に銃を手にしていたとしても、それすら「共に戦っている」証明にはなり得ないというのに(たとえばテルアビブにおける足立正生について、諸君は彼がどこまでパレスチナ人と「共に戦っていた」とみなすだろうか?)。 これは、外部の人間が他人の「革命」に勝手に陶酔する「革命ごっこ」の典型である。


続いて、「カダフィ政権は金や車をちらつかせて教養の薄い人々を従わせ、同族に殺し合いをさせている」という「説明」。そもそもリビアは多くの「部族」が混在する地域であり、むしろそれを「リビア国民」という「同族」に統合しようとしたのがカダフィ大佐であるという評価があるという点はさておき、「教養」(ふつうは「ない」「浅い」などと表現するものであり、「薄い」とは言わないのでは?)のくだりも疑わしい。ベンガジの人々が「敵」をそう解釈するのは理解できないことはないが、この書き手は「教養の薄い」リビア人が財物に目がくらんで簡単に人殺しをすると言いたいのだろうか。もし日本で「教養の薄い」日本人はそのようにふるまうのだと何者かが発言したら、それは明らかな侮蔑としてとらえられるだろう。それでは、リビア政府は意図的に「愚民化政策」を採って「教養の薄い」人間を大量生産し、飼いならしているということか。これはすでに指摘されていることだが、リビアは識字率や大学進学率といった指標で見る限り、アフリカ大陸で抜きんでている。つまり「教養」を備えた人間が、それなりのマッスとして存在すると考えられる国だということである。国連開発計画(UNDP)のサイトでは、1970年から2010年までの「人間開発指数」の推移が見られるが、カダフィ政権の40年においても滞りなくこの数値は伸びており、特に教育部門に関してはアラブ諸国の中でもトップである。つまりデータからは「カダフィはリビアの教育水準を飛躍的に高めたが、それによって国民は彼の意図した枠を超えて政権の矛盾を感知するようになり、反乱に至ったのである」と、まったく逆の(一種の弁証法的な?)説明が出来てしまう。


ほとんどリビア人同士の決闘としてのみ内戦を見ているこの書き手も、わずかに「人道的介入」に言及している。「アメリカやNATOの他国への軍事介入に何かしら裏があるといつも言われるのはチベットやウイグルといった本当に助けが必要なところには全く介入しないから」。今回の「人道的介入」には「裏がない」ととらえられているようであるし、リビアとともに「チベットやウイグル」が「本当に助けが必要なところ」として挙げられている。つまり、トリポリの空爆を容認するのみならず、中国に対してもアメリカのいわゆる「人権外交」では充分ではないから、「チベットやウイグル」のために北京を空爆せよということになるのだろうか(注3)? その発想はどこから出るのかが興味深い。軍事費世界第一位の国が世界第二位の国を攻撃したら、それは第三次世界大戦の勃発を意味するであろうから。


このブログからはベンガジの反中央=カダフィ感情は非常によく分かるが、そこから書き手がものを遡って考えることをしていない。記されているベンガジ側の人々の「生の声」をそのまま並べると、しばしば混乱したものが現れるのだが、それはこれらが虚偽だということを意味するのではなく、むしろこうした矛盾の中に読み解かれなければならないことがあるのではないか。たとえば、反政府陣営の中にも、アメリカの陸軍派遣の噂について「絶対に許さない」とする人や、「アルジャジーラなんかはカダフィが元々嫌いだから嘘や誇張がホント多いよ」とする人がいるというのは、確かに一つの知見である。しかしそうした要素を拾っているにも関わらず、過剰な対象への同一化と、「敵」に対するマンガ的想像力がすべてを台無しにしている(注4)。暫定評議会の中にいたカダフィ大佐の元側近の暗殺について冒頭で書いたが、この書き手がそのような事件が起こる兆候をつかみ、警告なり予言なりをできず世界に手腕を示す機会を逸したのは、ひとえにこのためだろう。まあ、最新の7月20日の記事において、エジプトで「なかなか進まない新政府による改革の促進や前内閣閣僚など(革命時に民衆を弾圧した戦犯や汚職政治家)の早期訴追」について語りつつ、リビアの暫定評議会になぜか(本当になぜなのか?)鎮座している「前内閣閣僚」の行動については考察らしい考察を与えていない以上、それも無理なからぬ話ではある。


ジャーナリストとして戦場に赴くというのは、一定の「勇気」が必要となることであろう。「現場」の人間に寄り添うのもよい。しかしそれ以前にこの職業には、「現場」の人間が見ることのできないものを洞察し、持っていない視野とデータで分析するための、適切な「知性」――この有無は「教養」の有無とは関係がない――が必要となる。それなくしてはいかなる「現場」にいたところで、何を見ようと聞こうと、たいしたことは書けないのではないか(注5)。正直、事前にリビアの何を独自に調べたのだろう? 2月か3月の時点で急いでリビアに飛び込んだというのならまだ分かる。しかしこの書き手が「現場」に赴いたのは、事態の発生から4ヶ月後のことである。一定の余裕を持って、リビア政府と反政府勢力それぞれのあり方や、その外部諸国の動きのあり方を吟味する時間はあったはずなのだが。この書き手は、リビアという国家とその人々の運命には結局のところ関心がないのかもしれない。本当に関心があるのは、「革命」というムードの醸し出すヒロイックさ、そして危険の中で取材する自分自身のヒロイックさなのだろう。





(注1):民主党系の『ウニタ』も、6月26日づけでデル=ボカ氏のインタヴューを掲載したが(引用はこちらなど)、歴史家がすでに別の媒体で言っていることと変わらない内容しか引き出していないなおざりなものであり、同党のいまだ変わらぬ好戦的姿勢に疑念を持った支持者に対するアリバイづくりとでも言うべき質のものでしかないように感じられた。


(注2):加藤清正の虎退治というのもあるが、この書き手は企業ジャーナリスト時代には「北朝鮮」や「脱北者」の取材にも携わっていたようなので、今後朝鮮半島で一変事あれば「金正日退治」にも喜び勇んで「従軍」することが予測される。


(注3):1999年のユーゴスラヴィア紛争の際、NATO諸国の「人道的介入」を進めていた飛行機が、中国大使館に「誤爆」したという事件があった。この事件について、西側諸国の政策に否定的な国家に対する牽制球(牽制爆弾?)だったのではないかと疑う人がいた。しかしそういった声からむしろ、彼らが将来の仮想敵に「軍事介入」する時に「国際世論」がどう動くか試すための、一種のテストではなかったかとわたしは感じたものである。今回のリビアにおいても、朝鮮大使館に「誤爆」がなされたというニュースが流れた。わたしがこの書き手の友人なら、「大丈夫! アメリカやNATOは“本当に助けが必要なところ”に“助け”を与えるタイミングをちゃんと計っているよ!」と、微笑とともに励ますであろう。


(注4):「カダフィはピッコロ大魔王だ。傭兵は口から生まれた部下」。拍子抜けするというか、実に安いたとえである。必ずしもマンガをたとえに出すことが悪いというわけではないが、この文脈なら「リビアの悲惨な“同族殺し”の唯一の原因はカダフィであり、彼が憎い」とでも言えば十分である。つまり、「ピッコロ大魔王」というフレーズで日本の読者――まさか他国の取材者に「カダフィってピッコロ大魔王みたいじゃない?」などと話を振っていないことを祈りたい――の共感を買い叩こうというのが安っぽいというのだ。そもそもピッコロは、一度「大魔王」として倒された後に、若返って復活するばかりか孫悟空たちの仲間になるではないか。わたしは一瞬、カダフィ氏が倒された後にその息子であるセイフ・エル=イスラム氏が、ベンガジの子弟たちの師匠として、NATOやアメリカという名のベジータやフリーザとの戦いを指導する様を想像してしまった。まさに後期『ドラゴンボール』の展開である。


(注5):2月の内戦勃発の時点で、リビア研究者の日本人の方による臨時ツィッター(まとめはこちら)があった。わたしが読んだのは一連の記事を書き出しはじめた後になってのことであるものの、今見直しても示唆を含む内容だと思う。この方の発言から「注4」の補足にもなる一節を引かせていただこう。「乱暴な表現になりますが、「魔王カダフィがリビア政府全てを牛耳っていた」というようなドラクエ的発想からは、何も見えてこないどころか、極めて歪んだリビア像しか引き出しません」。しかしさらにふるっているのは、読者の一人の感想である。「こういう視点を持って見ずに「悲しい」だの「怒り」だの言っていたら、リアルタイムの他国の出来事を見るという「経験」を全てムダにすると思う」。





「中東革命」は誰のものか、または匪賊対革命ごっこ(補足+++)

イタリア植民地史の最長老、アンジェロ・デル=ボカ氏による奮闘が続いている。今回取り上げたいのは、デル=ボカ氏と有志の新たなアピール「リビアへの侵略を止めよう!」についてである。「『中東革命』は誰のものか」シリーズの「その4」でわたしは、彼を中心とする歴史家とジャーナリストが「人道的介入」開始前後に、「リビアにおける軍事干渉への反対」を発表したことをすでに紹介したが、今回の声明は「主権国家に対する介入」への慎ましい批判を超えて、西欧諸国当局及び情報産業による「虚偽の情報」の流布について明言し、戦争のあり方に無関心な「我々」、すなわち自国民の責任により踏み込んだ内容となっている。原文は、同シリーズの「補足+」で紹介したイタリアの情報サイト「メガチップ」に6月13日づけで掲載されている。


http://www.megachipdue.info/tematiche/guerra-e-verita/6322-fermare-laggressione-contro-la-libia.html


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リビアへの侵略を止めよう!

2011年6月13日



侵略を止めよう!


完全な非合法性とともに開始されたリビアへの我々の戦争は、その中で続いている。


我々が国連安全保障理事会の決議に基づいてなしたことは国連憲章に違反している、なぜならリビアはまったく国際的な平和と安全を脅かしてはいなかったからである。


我々がなしたことはまったく立証されていない虚偽の情報の波に基づいている。すなわち1万人の死者も、新設の共同墓地もなく、市民のデモに対する爆撃すら存在しなかったのである。


我々が参加している、無数のNATOの爆撃作戦によって、すでに数百人の民間の死者が生まれている。我々は彼らを殺害しているのであって守っているのではない。


内戦に介入した我々は、一方に対抗するもう一方の側を支持していながら、自分たちが支持すると言及している人々が何者なのかすら知らない。また我々は反乱勢力に数千万ユーロもの資金を提供している。こうしたことのすべては、国連決議の中に何ら書かれていないことである。我々が狙っている主権国家の首長の殺害という行為にはいかなる正当性も存在しない。そして、すでに彼の息子の一人になされているこうした暗殺を、我々の同盟者である西側諸国の指導者たちは公然と望み賛同している。我々は緩慢な野蛮への回帰を助長しているのである。


このような不名誉な態度による恥辱は、イタリアのすべての政治勢力に斉しく与えられなければならない。抵抗しようと湧き上がる声はほとんどまれである。平和主義は不活発であり、このことにもまた黙りこんでいる。


しかし我々は、これらすべてを沈黙のうちに受け入れることはできない。我々の憲法をまたも侵しつつ、我々の名のもとに殺してはならない。


我々には声〔影響力〕はない、しかしなお聞くことのかなう人に語りかけたい。この侵略は終わらせなければならない。


第一次署名者:

Angelo Del Boca/Giulietto Chiesa/Massimo Fini/Maurizio Pallante/Fernando Rossi/Luigi Sertorio/Nicola Tranfaglia/Francesco Badalini/Marino Badiale/Monia Benini/Pier Paolo Dal Monte/Ermes Drigo



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デル=ボカ氏以外の主要な「第一次署名者」――3月の「リビアにおける軍事干渉への反対」にも加わっている――についても一言しておこう。アピールが掲載されている「メガチップ」の主催者であるジュリエット・キエーザは、イタリアの左派系ジャーナリストの老兵として著名である。昨年は日本にも、彼が制作に携わった『ZERO:9.11の虚構』というドキュメンタリーが日本にも紹介され、色々な意味で一部の話題を呼んだ(注1)。長年のロシア取材の経験からミハイル・ゴルバチョフらとの親交を持ち、最近の欧州議会選挙にはわざわざラトヴィアから立候補するなど、活動の幅は広い。一方でマッシモ・フィーニは、自由主義とマルクス主義の両者を頽廃した「従来の左右の枠組み」と断じ、そこから脱却するための「アンチ・モダン」を主張しているジャーナリストである。彼が今年に入って出版した、タリバーンの指導者ムハンマド・ムラー・オマルの伝記は注目を集めたようで、複数の書評が検索できる(しばしば「テロリスト擁護論」として攻撃されており、著者は反論している)。また、マウリツィオ・パッランテは、環境主義者的観点からの「脱成長」理論・運動の推進者として多数の著作がある。


と、ここまで書き終わったところで、また新たにデル=ボカ氏へのインタヴューをしている媒体を見つけてしまった。いわゆる「1968年」をきっかけに生まれた、新左翼系の『マニフェスト』紙の6月16日号である。リビアの事態についての民主党系『ウニタ』紙の当初の報道を見て残念に思った(今ではますます残念なことになっている)という話はすでにしたが、明確に「共産主義的新聞」を自称している『マニフェスト』もまた、リビアへの「人道的介入」に対する姿勢が揺れていなかったわけではない(注2)。しかし実際の介入の開始後は、おおむね戦争への反対論が優勢となり現在に至っているようである。6月に入ってもデル=ボカ氏は、カトリックの布教情報を扱う「アジアニュース」に対して引き続きコメントを発しているから、彼はカトリックと共産主義者というまったく対立する――少なくとも表向きは――両者から同時に意見を求められているということになるだろう。当方の時間がなく、いままでの拙訳の中でもっとも、誤りや含意などが汲み切れていない部分が発生している恐れがある。わかる方には後々ご指摘願いたい。なお、〔〕内には訳の簡単な補足を付した。


http://www.ilmanifesto.it/area-abbonati/in-edicola/manip2n1/20110616/manip2pg/09/manip2pz/305017/


http://www.difesa.it/Sala_Stampa/rassegna_stampa_online/Pagine/PdfNavigator.aspx?d=16-06-2011&pdfIndex=28


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「これは我々が忘れた戦争です」
トンマーゾ・ディ・フランチェスコ



イタリア植民地主義の歴史家、アンジェロ・デル=ボカへのインタヴュー
「カダフィはチェスで遊んでいます、負けていません」




消えてしまった、兆しの変化した戦争がある。国連決議1973号とは何の関係を持たないまま、トリポリおよびカダフィの軍勢に対するNATOの「疲れた」空爆が繰り返されている。つまり、のべ一万回を超える航空作戦と五千回の正規の爆撃がなされている。しかしそれでいて、この戦争の不当性について嘆くという逆説にある――大統領から約束されたような6月19日以降の延長には、過大な経費を要し、国防総省は不賛成――のであり、アメリカにおいては、共和党のスポークス・パーソンであるジョン・ベイナー〔下院議長〕だけでなく、多くの下院議員(民主党を含む)がオバマを告発すると迫っている。そしてイタリアにおいてもまた、この戦争のナンセンスさを道具にした外国人嫌悪的右派は、マローニ〔内務大臣、右派政党「北部同盟」所属〕とともに、統一地方選と国民投票で打撃を受けたイタリア政府のさらに右側において、難民たちを脅しつけるために「爆撃のための金の浪費」を非難している。この「消えた戦争」について、イタリア植民地主義の歴史家でありカダフィの伝記作家でもある、アンジェロ・デル=ボカにいくつかの質問を我々は向けた。




ヨーロッパ・大西洋沿岸諸国のリビアにおける戦争の意味と帰結について、もはや誰も追及しないという事実について、いかにお考えですか?


『LiMes』〔政治問題雑誌、隔月刊〕編集長のルーチョ・カラッチョーロ〔Lucio Caracciolo〕が、この戦争が誤ったニュースとともに開始され、虚偽に満ちた戦争であり続けているといっていますが、彼は正しい。しかし、ここに及んで、どうやってそれから抜け出るかについてもはや誰も分からないのです。多くの犠牲者の後においても。


すでに、毎日、我々は政権支持側と反乱側の戦争の最前線における人々の往来を見続けています。彼らは常にそこ、迫害されるキレナイカにいます。毎晩のように、いまやヘリコプターによって日中にもですが、NATOの空爆がトリポリに鉄槌を下しています。こうしてすでに100日余りが過ぎています。NATOは何度も勝利について報告していますが、後にカダフィの軍勢はブレガから攻勢に転じミスラータに迫りました。結局のところ、軍事的解決とは信じられるものなのでしょうか?


いいえ、信じられません。NATOはこの作戦を掌握し、まるで繰り返すことを強制されているかのように爆撃を続けています。


先週の爆撃は疑いもなく、その主要目標をカダフィその人としていたことを示しています。後からNATOの司令官たちが彼を目標とはしてはいないと言っているにしても「しかし偶然そうなったとすれば、なおよろしい」。担当している大西洋沿岸諸国の将軍ないしは大臣たちの文字通りの言葉です。しかし誰もが、軍事的解決がまったく存在しないことを知っているのです。そしてそれゆえ語られることもほとんどない。彼らはカダフィの周りにわずかな人間しかいないと考えていますが、それは本当ではありません。わたしはここ数日、リビアで暮らしている何人かの直接の証言者と――マルティネッリ・トリポリ司教だけではありません――話をしましたし、『コッリエーレ・デッラ・セーラ』〔イタリアの代表的な全国紙の一つ〕のロレンツォ・クレモネージ〔Lorenzo Cremonesi〕記者のルポルタージュも読みました。彼らはそろって、ある点について認めています。カダフィの周りにはなお、リビア人民の大部分と、各部族をはじめとするその代表者たちがいて、実質的に彼の側へついているということです。なぜならこうした多くの人々は、この40年間に政権の恩恵を受けており、カダフィとその家門の消滅とともにそれらが消えてしまうことを恐れているからです。こうして彼のそばに人々がとどまっています。また、NATOの様々な情報筋が〔リビア軍全体に〕引き起こされた損害について、最初は30パーセントとしていたのが後に80パーセントにもなると不格好にも言いだしたという、100日の爆撃後の事実については説明されません。さらには、なぜカダフィの軍勢がまだ攻勢にあるのかを彼らは説明しません。山岳地域において、チュニジアへの道が開かれたようだとされていることすら、本当ではありません。残る事実は一つだけです。カダフィに資金が残っていないというのは本当ではない、と。


それでは、この件について、政治的解決はおそらく可能なのでしょうか?


私はそうだと考えます。しかし、合意のための介入を、もしくは少なくともその試みをなそうとしていたロシアは、その後行方が分かりません。トルコの試みはすでに失敗しています。わずかな時間で前進している唯一の試みは、南アフリカのズーマ大統領を通じたアフリカ連合のそれです。彼はすでに二度トリポリを訪れカダフィと会談するとともに、昨日はNATOの空爆について「外交的解決を阻害している」と言い、抗議しました。しかし私を驚かせたのは、誰も知らない世界最高峰のチェス・プレイヤー〔世界チェス連盟会長にして、ロシア連邦カルムイク共和国前大統領のキルサン・イリュムジーノフ/注3〕とチェスを指して見せるという、カダフィの落ち着きようです。人物像を大きく見せる、これみよがしな「落ち着き」ではあります。しかし少なくとも、彼は自身の人物像の創造者であるということです。彼が先日言った「生きようと死のうと、私はここにとどまる」という宣言にも裏打ちされています。


イタリアは、当初カダフィに中東全体が「見ならうべき実例」を見いだし、後になってその政権に拘留キャンプを通じた移民の制限を要請し、ついには彼らを爆撃しながら、ベンガジの国民評議会には族長との間に結んでいたのと同じことごとを要求する準備を進めていますが、何者がこのようにさせているのでしょうか。また、何者が中道左派をこのようにさせているのでしょうか?


その人物はすべてを受け入れています。フラッティーニ〔外務大臣〕が資金――誰が払っているのでしょう?――とともに、およそ知られておらずしばしば信頼しがたいベンガジの対話者の所へ走っているのは承知済みです。しかし私が告白したいのは、憲法を守らなければならないはずなのに、逆に少なくとも4つの条文を否定している、共和国大統領の態度にこそ大きく衝撃を受けたということです。私はナポリターノを尊敬していましたから失望しました。ナポリターノの態度については理解できます。政府の波に揺れる状況を見すえつつ、ベルルスコーニとともに「私はこの戦争に本当は反対だった、しかし彼らに引きずり込まれたのだ」と言うことで、アメリカを前にしたこの国の面目を救おうとしているのです。しかし彼は憲法を否定し続けているのです。


アメリカはNATOの同盟国が義務をわずかにしか果たしていないとして叱責しつつ、当の合衆国が戦争の続行について自問していますが、戦争はどのように終わるのでしょうか。


NATOの作戦は3カ月延長されましたが、誰がそれに金を払うのでしょうか? デンマークが姿を隠し、ドイツが不参加を主張する中で、イギリスでは海軍の資金が尽きました。私もどのように終わるか分かりません。カダフィの側からあがる哄笑とともに終わるのか、それとも爆撃の下で彼が死ぬことによって終わるのかも。



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これまでデル=ボカ氏は、律儀に西欧情報産業の報道を押さえつつ、カダフィ氏の命運について予想してきたが、いまやそういった判断のための媒体が戦争勢力からの独立性を見せず、まったくアテにならないことが明らかになりつつある中では、正確な分析など出来るわけがないということであろうか。日本でも、大佐が「70年代にそううつ病と診断され、精神安定剤が欠かせないというのがリビアの医師たちの共通認識」などという「分析」を掲載するブルジョワ・ジャーナリズムもどきがあったが、これは確かに紛争の帰趨について何を語るものでもない(「カダフィは狂人=我が方の勝利は間近」というこの連想装置は、希望的観測と先入観による解釈の寄せ木細工である)。一つの戦争の行方を占うのはもともと困難なことではあるが、そういう次元の話ではないのである。そして、そういった情報を真に受けて、あるいはそうするふりをして、現・最大野党出身の大統領が自国の憲法を率先して破る(デル=ボカ氏とナポリターノ氏は同年の生まれで、パルチザン経験を共有する世代であるから、前者の後者に対する失望の深さは相当なものであろう)という事態は、イタリアの危機的な状況を表す指標の一つかも知れない。


デル=ボカ氏の「我々は自分たちが不当な戦争に参加していることに無関心なのか?」という疑問は、「アジアニュース」でも語られているものである。ベルルスコーニ首相は当初リビア攻撃に消極的態度を見せていたのだが、歴史家によればいまやイタリアの戦費負担率は英・仏と同じ30パーセントにもなっているという。イタリアで6月12日から13日にかけて行われた国民投票では、ベルルスコーニ政権に対する実質的不信任ともみなすことのできる結果が出たが、これは「我々」がどこまで賞賛して、またはうらやんでいいことなのか、わたしは若干疑問に思っている。つまりイタリア国民が、ベルルスコーニ氏の目指すエネルギー政策にノーを言いつつ、リビアでの自国の軍事活動を無関心、ないしは「忘れている」とすれば、それは「危険なエネルギー源はわが国で絶対に使いたくありませんよね。だから石油を小うるさいことも言わず安く配達してくれる人たちがいるといいな。え、空爆? なんのこと?」とでも翻訳できてしまうのではないか、ということである。だとすればこうした国民主体は、NATOが勝利を収めた暁には「カダフィも退治された、我々もベルルスコーニ追放に邁進している、民主化万歳!」と、他国での軍事活動を、自国の「民主主義」と重ねて「思い出し」満足にふけることもできるだろう。二人の「悪党」がいなくなったところでイタリアの知的・道徳的状況は最悪なままであり、リビアの社会生活は崩壊しているという現実だけが残されたとしても。もちろんわたしは「なお聞くことのかなう人」がイタリアから払底してしまったとはまったく考えていない。むしろ「自身の戦争」――直接の武力こそ用いていないにしても――に対する感覚の薄さという点については、「我々」も思いださねばならないことがたくさんあるはずである。





(注1):わたしはこの映画の公開を見ていない。映画の感想や評価をインターネットで探したところでは、作品における立証の問題点を逐一指摘しているものがいくつかあった。それらを読んだ限りは、「アメリカ当局やその下にある情報産業の発信には、様々な矛盾や不可解な点がある」というところまでは認められるにしても、同時に推測されている「真相」の間には、なお橋渡しされなければならないものが多すぎるといったところであろうか。ただわたしがこの映画を見なかったのは、そうした「陰謀論」的要素が問題だと思ったから――映画の紹介者によってその印象が増幅されている可能性は指摘しておきたい。訳者のデータからするに、翻訳はイタリア語からのものではなく重訳であろうし、映画の題名のより正確な訳は『ZERO:9.11についての調査(inchiesta)』となり、「虚構」ではない――ではなく、「9.11事件そのものは歴史の転換点ではありえない」と考えており、興味が湧かなかったためである。アフガニスタンやイラク戦争にはまったく反対で、その責任者連中にしかるべき裁きを食わせるまで永遠に追及がなされるべきだと考えているのだが、たとえ2001年の事件がなかろうと、アメリカおよびヨーロッパのいくつかの強国によるNATO外への猛烈な介入政策はエスカレートしていたのではないかということである。つまり、より問題なのは1989年と1991年であり、冷戦に勝利した(冷戦は「終わった」のではなく、「勝った」側と「敗けた」側があったのである)諸国が、「自由」と「民主主義」を自在に輸出可能になった時点であろう。「かつてユーゴスラヴィアやアフガニスタンやイラクへの空爆に反対していた人々の多くが、リビアに対しなぜ金縛りになっているのか」という疑問も、このあたりから考えなおさなければならない。


(注2):たとえば同紙の創刊メンバーの一人であり、現在も言論活動を続けているロザンナ・ロッサンダ(Rosanna Rossanda)は、積極的な介入の必要を読者に訴えていた。


(注3):諸君の中にも「この名前、前にどこかで聞いたことがあるな」と疑問を持ち、インターネットで検索をかけ、そしてイスから転げ落ちた人は少なくないと思う。わたしにとってもまさに「未知との遭遇」であったが、この二人の謎の交友(ところで勝負の結果はどうだったのだろうか?)について、「民主主義」に対する理解のかけらもない蛮人どもの遊びとして笑うのは完全な誤りである。たとえば、目下リビアを空爆中のフランスでは、大統領選挙の出馬予定者がアメリカで婦女暴行にかんする容疑により逮捕されている。この人物の経歴からして、「社会党」がなぜ擁立しようとしていたのかという根本的な疑問もあるのだが、それはさておき仮にこの容疑が真実だとしたら、フランスはどうしようもない下衆が大統領を狙う地位につけてしまう程度の「民主主義」であることになるし、逆にこれがサルコジ大統領らによる「陰謀」による冤罪であれば、そのようなチェス・ゲームがまかり通るところに「民主主義」はありえない。そういう人々が真面目に「民主主義」をリビアに輸出しようとしていることこそ、本来『ムー』あたりが取材すべき宇宙の神秘ではあるまいか。





「中東革命」は誰のものか、または匪賊対革命ごっこ(補足++)

「『人道的介入』が開始されてすでに一カ月も経過したものの、いまだ我が国の情報産業――具体的には毎日新聞が典型的である――では、このような大変な事態を当然視しているか、そのようなニュアンスを加えなくても事実上の許可を与えているかのどちらかである」――以前わたしはこのように書いた。あれからの変化は、「一カ月」が「二か月」になったことだけである。それどころか、5月21日の夜づけでインターネット上に配信された毎日新聞の記事に、わたしはほとんど驚愕した。この記事をご存じない諸君は、まずはご一読いただきたい。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110521-00000083-mai-int


読み終えられたであろうか。それではうかがおう。これは本当に「分析」か?


記者が話を聞いているモハメド・ムフティなる人物は、外科医であるだけでなく社会学者でもあるという。学位を複数有しているというのは大層なことだ。頭がよくてなんでもできる。そしてなんでもできるがゆえに、日本のワイドショーに出現するような「なんでもコメンテーター」もおそらく務まるにちがいない。というのは、彼は自身の職能に対してなんら責任を持たないまま、単なる伝聞についての感想を「識者」として、平気で公共に語ることができる人物のようだからである。


わたしが第一に疑問に思ったのは、「70年代にそううつ病と診断され、精神安定剤が欠かせないというのがリビアの医師たちの共通認識」という情報を語るのが何故「外科医」なのかということである。「そううつ病」を診断したという「リビアの医師たち」は当然「精神科医」であろう。「被害妄想」というのは精神病の一種であり、大変なもの(何より患者にとって)には違いないが、それは「精神科医」が診断することである。ムフティ氏はカダフィ大佐と会見したと言うが、それは診察としてではないし「外科医」にはそもそもその資格がない。それなのに「被害妄想、強迫神経症系の性格」と断じている。つまりこれは、リビアの精神医療における「業界噂話」を、さも自分が問題の権威であるかのように受け売りしているだけではないのか。それともリビアでは、外科医が精神安定剤の処方までしようとするのであろうか。あるいは精神病治療のためと称し「閣下に脳手術を受けていただきます」などとカダフィ氏に迫るのであろうか。そうだとすれば、大佐は国民や外国に対してではなく、まず医者に「被害妄想」を抱くようになるだろう。さらに、「確認は出来ない」などとできもしないことについてわざとらしい言い訳を入れつつ「覚醒剤中毒のうわさもあるが」と吹聴するのは、単なる誹謗中傷の手口ではないのか。『週刊新潮』からの転載でないことがわたしには驚きである。


第二の疑問は、カダフィ政権による過剰な鉄拳制裁政治についてのエピソード(これらの一つ一つの真偽もさることながら)をムフティ氏が並べたてる中で、「社会学」らしい考察をなんら下していないことである。同氏はカダフィ大佐の行動の一つ一つを、「自己愛と妄想」という精神医学的タームを通じて語っているものの、上記のように彼は「外科医」であるし、「復讐(ふくしゅう)心が極めて強く」「人命に対する良心がない」という描写は、精神病の症状を医学的・客観的見地から語っている言葉ではない。そして「ベドウィン(アラブの遊牧民族)の生まれであることなどに原因を探る学者もいるが、生来のものだと思う」などと言う。「思う」ことで「原因を探る」ことそのものを根本的に放棄しているところに、「社会学」など存在するはずがない。


外科医でありながら精神科医を演じ、社会学者でありながらその仕事をしない。これは詐欺である。よく言って、せいぜい「カダフィ嫌いのリビア知識階級の茶飲み話」に過ぎまい(注1)。毎日新聞の記者も、よくもまあ「分析」とうたって記事にできたものだと思うが、逆にこのインタヴューから一つの「社会学」的仮説を導き出しうるかも知れない――カダフィ氏以前のリビアの「知識階級」は、たとえ学位をダブルで取っている人間でもこんな程度のものでしかなく、彼らの適当きわまる実態を「民衆」は憎悪していた。これに反旗を翻したのがカダフィ大佐であり、彼の「反知性的」な活動にむしろ「民衆」は拍手喝采。ゆえに、外部から見れば明らかに無理のある彼の支配が40年以上も保たれたのである、と。ともあれ、西欧の情報産業も似たようなカダフィ氏批判=誹謗記事を山ほど生産してはいるが、少なくともここまで内容が露骨に頭の先からしっぽまでゲル化しているものはない。そんなものは「ブルジョワ・ジャーナリズム」の枠内においてすら欠陥商品であり、普通は表に出ないからである(注2)。


ところで、『「中道革命」は誰のものか』シリーズの「その2」においてわたしは、ネット誌『ヌオーヴァソチエタ』に掲載されたアンジェロ・デル=ボカの意見を紹介したが、この歴史家からインタヴューをとったLuigi Nervoという記者は、決して「硬派」な人物ではないようである。紹介時には挙げなかったが、このインタヴューとほぼ同時期にネルヴォ氏は、どうでもいいレヴェルの話もちょくちょく書いている。たとえば彼は、大佐の台頭以来一部で語りつがれているという「カダフィ秘話」として、第二次世界大戦期に同地に不時着したフランス人エースパイロットが、現地の部族の娘と恋に落ちた結果生まれたのが彼であるという伝説を紹介している(「親子」の写真が並べてある)。まあこのくらいは、こぼれ話として許容範囲であろう。しかしリビア戦争は「ノストラダムスの予言」の中にあらかじめ記されていたのかなどと言われたら、もっと真面目に書けと諸君も言いたくなるのではないか。この記事はもう一人の人物との共同署名であるものの、ほとんど『東京スポーツ』のノリである。しかしこうした東スポ的適当さという点では、わたしに言わせれば毎日新聞の記事も「ノストラダムス」級のものでしかない(諸君はすでに五島勉の名をお忘れか?)。そしてイタリアのネット誌記者のほうが、偶然かも知れないが、明らかに問題の在りかを聞く相手として適切な相手を選んでいるということである。


ネルヴォ氏のカダフィ大佐に対する筆致は皮肉めいてはいるが、一方的に個人を罵倒するわけではない。2月下旬に大佐の亡命が取り沙汰される中で、どこの誰が迎え入れるものかという声に対し、彼は平然と大佐の取りうる選択肢について考察していた。まずラテンアメリカを見れば、ベネズエラのウーゴ・チャベスが彼を迎え入れることを堂々と公言しているし、ニカラグアなど反米意識の高揚している国も好意的に受け入れる可能性が高い。カダフィ氏がそれなりにテコ入れしていたアフリカには、彼と同じく「長期政権」ないしは「独裁」で名高いジンバブエがある。ヨーロッパでも、同様なベラルーシが門戸を開く可能性がある。アラブにおいて、ベン・アリ前チュニジア大統領を迎え入れたサウジアラビアが、彼だけを締め出すことは理不尽である。そして最後に、イスラエルにすら彼を受け入れてもよいという人々がいるらしい(大佐はユダヤ教徒の血を引いているという説があり、それなら彼も保護しようとのこと)。毎日新聞に載ったムフティ氏はインタヴューの最後で、カダフィ大佐が亡命しないのは「国際社会にも誰も友人がいないからだ」と説明しているが、「匪賊」は「匪賊」なりに自身のネットワークを持っている(『鬼平犯科帳』に出てくる盗賊たちのような?)のであり、「国際社会にも誰も友人がいない」ことはあり得ないという、ネルヴォ氏の言明の方がよほど現実的ではないか。「誰も友人がいない」という言い草は、「独裁者」とされた人物に対する一方的中傷であるし、「独裁者」は「友人」のいない存在であってほしい/いるはずがないという通俗的予断によるものである。「分析」に求められる新しい発見は何もない(注3)。


何らかの歴史的事件の原因を、その指導者個人の精神状態にのみ追い求める言説は数多い。そうしたことを、心理学ないしは精神医学を専門としない人々以外も、あるいはそういう人々に限ってやりたがる。そして、アドルフ・ヒトラーでもヨシフ・スターリンでもよいが、「独裁者」は必ず「狂気」に侵されているとしてあれこれ並べ立てる。それでは、すぐれた精神科医や高度な精神安定剤が存在しさえすれば「独裁」がなくなるだろうか? それとも、「独裁者」がみな精神障碍者であるとすれば、精神障碍者はそのような危険な存在の母体となるわけだから、まさしくヒトラーが言ったように「絶滅」させればよいということになるのか? 「個人の病理」言説にのめりこむことは、茶飲み話の話題としてあるいは読み物としてそこそこ面白いものをつくるのには手っ取り早いが、こうしたものは個々の問題を深く追及しているように見えて、実は別のそれといくらでも互換可能な言説パターンを再生産しており、多くの場合は粗雑なレッテル張りをともないつつ、歴史的な意味を持った「分析」とはほど遠いものとなる。かつてジークムント・フロイトは、レオナルド・ダ=ヴィンチをはじめとする西欧の美術家やその作品について、その道の専門家が現在読んでも示唆に富むエッセイを書いた(注4)。しかし彼は、自身の人生の晩年に台頭し、一部ではすでに「怪物」ないしは「狂人」扱いされていたヒトラーやスターリンのような個人については、とり立てて「分析」を行っていないという。


20世紀の「独裁」の歴史に対する研究の中には、その指導者たちが彼らの同時代の状況とかけ離れた「狂気」を持っていたとはみなさないものも確固として存在する。たとえば、クラウス・テーヴェライトによる全2巻の大著『男たちの妄想』(田村和彦訳、法政大学出版局、1999-2004年)は、ヒトラーが有していた戦争や反ユダヤ主義への志向は、彼自身の極端性の問題として片付けられるものではなく、むしろ帝政時代から延々と続いていたドイツの軍国主義的文化の中ではむしろ普通のものであり、究極的には男性至上主義的な近代西洋文化の傾向そのものに位置づけることさえできると論じている。より細かい議論は必要だが、膨大な資料を駆使したこうした試みは、個人の枠にとどまらない一つの歴史と社会に対する「精神分析」の試みとして興味深い。また、ロシアの場合、帝政時代の地下活動の延長線上にあった革命勢力の政治が、暴力や権謀術数と結びつく傾向が強かったことは認められるものの、それもスターリン個人ないしはボルシェヴィキの組織に限った話ではなく、同時代のメンシェヴィキや無政府主義者にも明らかに見出すことのできる傾向である。こうした実態については「社会学」的な考察の出番があるだろう(さらにソヴィエト連邦の活動全般について言えば、第二次世界大戦期というわずかな時代を除き、常に西欧諸国+アメリカの強力な敵対的包囲網が敷かれていたことを、彼らの活動を決定した条件の一つとしてつけ加えることができよう)。


こうしたより広範なパースペクティヴに問題を位置づけるのは、「独裁者」個人の政治的問題性を免責するためにではなく、「反独裁」の掛け声のもとに「独裁者」をブラックホールのごとき暗黒的存在にして済ませてしまう反歴史的、いや反知性的態度を拒絶するために必要なのである。正直わたしは「知識階級」に期待したい気持ちがあるので、毎日新聞に答えたムフティ氏が、本当はもっとまともなことを言っていたのではないかという「妄想」を捨てていない。すなわち在ベンガジ記者が「生来のもの」として「我々」の想像を絶する無能さないしは邪悪な魂を持っており、すべての発言を低俗な知性で可能な限り低俗に解釈したのではないかということである。ただあいにくながら、わたしにはそれが「確認出来ない」。





(注1):さらにこの記事がリビア(ベンガジ)特派員のそれとして最悪なのは、この程度の内容ならアメリカ特派員でも書けてしまうであろうということである。たとえばニューヨークには、亡命者あるいはアラブ・アフリカ研究者が一定数存在し、その中にはカダフィ政権に否定的であるどころか憎悪むき出しの人もいるだろうから、そういう人を一人ピックアップし、「自由に」あることないこと語ってもらえばよいということである。正直、せっかくベンガジにいるのだったら、問題の発端であるにも関わらず規模や事実関係がはっきりしないままである「カダフィによる市民空爆」の痕跡を探るとか、カダフィ政権の旧幹部を平気で受け入れている「民主派」側の実情を調べるとかしたほうが、世界的に引用されるオリジナリティの高い記事が書けると思うのだが、この記者にはそうする気もなければできもしないということだろう。


(注2):奇妙なことにこの記事は、5月23日の朝づけで、別の毎日新聞の記者の「解説」がついた形で、もう一度インターネット上に掲載されている。現在のところ毎日新聞を購読していないので、21日の配信記事が不完全なものであり、実際の紙面をより反映したものを再出しただけということなのかは分からないが、少なくとも記事の性質はより悲惨さを増した。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110523-00000002-maiall-int


この「解説」は「格差是正、識字率上昇も」と題されており、こうした追加によって毎日新聞は「ブルジョワ・ジャーナリズム」としての最低限の規範と客観性を演出しようとしているように見える。しかしこの再配信において、問題だらけのムフティ氏の発言部分はまったくそのまま残っている。一方でカダフィ大佐の「被害妄想」を謳った見出しには「自己愛が強く、人間不信」とつけ加えられているから、結局こうした「も」は、記事の見出ししか読まない人間にとっては何の意味もない。全体としては「悪逆なるカダフィ」の「刷り込み」が繰り返されているだけである。こうしたイメージ操作は、カトリックのマルティネッリ司教が訴えているような「人道的介入」によるトリポリ市民の被害まで「妄想」扱いする方にはたらくことであろう。それにしてもこの「解説」によれば、「大量破壊兵器計画の外交交渉を通じた自発的放棄は『リビア・モデル』と称賛される」とあるが、「称賛している(していた)」のは誰なのか。カダフィ氏か。リビア(トリポリ/ベンガジ)の市民か。かつて核兵器の放棄を歓迎し、今はその心配がなくなったので安心してトリポリを空爆しているフランスやイギリスか。それとも朝鮮の核武装のみならず、存在そのものを「脅威」として排除を目指す日本か。誰なのか?


(注3):しかもこの「匪賊」は、アメリカ的表現に従えば「ならず者国家」の指導者たち以外にも、逆に西側諸国の人々からほとんど聖人として扱われているような人物も知己としている。それはネルソン・マンデラである。リビアが2000年代前半に「国際社会への復帰」を果たしたのは、かつて保護していた飛行機爆破事件の自国民容疑者を、1999年に国際司法機関に引き渡したことが契機となっているが、この時に仲介者となったのがマンデラ氏である。こうした流れへの反応としては、「立派なマンデラ大先生のおかげであの悪党が改心した、めでたしめでたし」あるいは「マンデラも間抜けなことをした、牢屋にいすぎて世間知らずなのか老いぼれたのか」の二つがあったと記憶しているが、これはおそらく両方とも誤りである。彼は今でこそ自分たちの運動を称賛している西側諸国が、かつては単なる「テロリスト」のそれとみなしていたことと、そういった時期からいち早くカダフィ大佐――マンデラ氏にとってはほとんど子供くらいの年齢である――が自分たちを支持していたことを忘れず、いわば「国際的浮世の義理」に報いたまでなのではないか。彼は普遍的人権の擁護者であるだけでなく、一種の侠客でもあるようだ。現在の南アフリカの大統領であるジェイコブ・ズーマが、アフリカ連合の立場から停戦を要求していることにも、マンデラ「親分」の残照を読み取りえよう。


(注4):岡田温司『フロイトのイタリア:旅・芸術・精神分析』(平凡社、2008年)。






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