新しい伊藤野枝伝?(その2)

ここまで内容以前の部分のツメの甘さについてばかり書いてきたが、そろそろ本文の方にも言及しださないと日が暮れてしまう。栗原氏の本をどうにか読了した後、彼の本について考えるための比較材料としてわたしは、前述した伊藤の2つの全集の編纂に関わった井手文子による伝記『自由それは私自身:評伝・伊藤野枝』の初版(筑摩書房、1979年)をまず手に取った。意図したものか、『自由それは私自身』初版と『村に火をつけ、白痴になれ』は、ともにソフトカバーで四六判の判型をとっている。分量も前者が210ページ前後なのに対し後者は180ページ前後で、厚さもほぼ同じである。しかし、伊藤野枝について知るためにはどちらの本が適切かと問われるならば、わたしは自信をもって井手の本を推薦する。第一の理由として、栗原氏の本には、「事実の掘り起こし」という次元において、旧来の研究に付け加えているものがあまりにも少なすぎるという点が挙げられる。栗原氏の特殊な文体については先にも述べたが、その冗語の数々は「読みにくい/読みやすい」という問題を脇に置いても、本来より情報を盛り込めるはずのスペースを埋め立ててばかりいるという点でも無意味である。


もちろん、70年以上を生きた岩波茂雄のような人物と比べれば、30才すら迎えずに殺害された伊藤の場合は、取り上げるべき事項も限られるのは当たり前とは言える。すると続く問題は、そうした少ない情報を著者がどのように拾い上げ、いかなる観点から再構成しているかという話になるが、栗原氏の本においては、彼女のエッセンスがおそろしく単純化されているとしか思えない。「はじめに」で、伊藤の人生の軌跡の特徴を「ひとことでまとめておくとこうである。わがまま」というワンフレーズが飛び出してくるが、本当にこの本はどんな伊藤のエピソードも彼女の「わがまま」に収斂させてばかりである。伊藤の名前が冠されたこの本を手に取る読者は、当時の日本および世界における諸々の無政府主義(広義の社会主義)の様相がどのようなものであったか、その中において彼女の活動や思考がどう位置づけられるかといった問題系について、具体的な形であれ漠然とした形であれ明快な説明を期待していると思われるが、そうした読者の要求に彼の著述は答えるものではない。「わがまま」の話に終始するのだから、たとえば女性無政府主義者エマ・ゴールドマンと伊藤の関係についての通りいっぺんの言及すら、栗原氏の論旨には必要ないように思えてくる。ゴールドマンの著作に直接あたったことがないわたしには、栗原氏が提示する伊藤の「わがまま」は、むしろマックス・シュティルナー、それどころかフリードリヒ・ニーチェもどきの自我絶対主義に過ぎないに見えてくるのだが、そうした点への必要な説明がなされていないので余計にそう思える。


歴史/伝記的著述においては、著者が論ずる対象に対して自身の共感/反感を強く示すことによって、文学的興趣がしばしば加わることもあるものの、著者の肥大した主観性によってのみそれがなされる場合、逆に記述の正当性そのものが失われることになる。栗原氏の著作においてもそうした傾向は明らかであり、その一例が「日蔭茶屋事件」前後の記述である。四角関係の破局的結末として神近市子に刺された大杉は、病院に駆けつけた無政府主義(「社会主義」とする栗原氏に対し、井手は正確に「無政府主義」としている)仲間の宮嶋資夫たちから運動を潰すつもりかと罵倒されるが、伊藤の方はそれだけでなく、外から帰って来るところを待ち構えていた彼らに、ぶん殴られるわドブに叩きつけられるわと散々な目にあう。こうした伊藤(と大杉)に対し、いわゆる「論壇」主流の論調はもとより、彼らと近しかったはずの各種社会主義者、平塚らいてうら旧『青鞜』周辺の女性たちもまた、突き放すかのような発言に終始する。こうした伊藤(と大杉)を見舞った事態に対し、極めて栗原氏は攻撃的である。


確かに、吉田沙保里のような格闘技のチャンピオンでもない女性を、男性が寄ってたかって襲撃するというのは言語道断であるし、この時点での平塚などの反応も、ブルジョワ・ジャーナリズムの路線に棹差すものになっていたとは言えるであろう。栗原氏に限らず、伊藤(と大杉)を擁護しようとする人々は、決まってこの時の「かつての同志たち」の冷たさに否定的に言及している。しかしそうした記述を読んでいても、伊藤(と大杉)の直面した周辺の態度は、たとえば何かしらの「裏切り」のようにみなしてよいものか。当時の神近市子は、後の日本共産党へいろいろ送り込まれた種の、意図的に組織破壊を目的とする当局のスパイではなかったどころか、大杉の生活を金銭的にほとんど支えていた。後世における伊藤(と大杉)の擁護者の中にも「勝手に献身した神近こそバカだったのだ」と言う者はいない。「○○主義者」を自負する人々が常に恣意的な逮捕・投獄を受ける危険性があった時代――現代でもさほど変わらぬかもしれないが――において、彼らが安定的収入を確保することは極めて難しかったため、その家計を支えるパートナーの苦労は「内助の功」という慣用句で想像されるレヴェルをはるかに超えている。そうした相手に対する(伊藤ではなく)大杉の「裏切り」こそ、運動にかかわる人々の間で問題視されたのは、ある意味では当然ではないか。井手文子の伊藤伝では、大杉の「自由恋愛」の実践が大失敗に終わったという、秋山清ら後の無政府主義支持者すら下した評価を再確認しつつ、それでも大杉の主張には救うべき部分があるのではないかとして、関係四者の状況や心情を一通り分析した上で、「自由恋愛」の肯定的意味を立体的に論じようとしている。彼女による大杉(と伊藤)の「自由恋愛」の擁護は、十分に説得的であるとわたしは思わないが、一定の論証を踏まえているので論理的には理解可能である。しかし例によって栗原氏の議論は「個人のわがまま大変結構」という開き直りを超えてくれないから、最低限の説得性にも欠けている。


当時の「運動」の環境を鑑みるに、神近(や堺保子)に対し彼女らの肩を持とうと言いだす人々が出ることは、むしろ「運動」に自覚的である人の方が理解しそうなものである。周辺人物による暴力行為や村八分的振る舞いがあったとすれば、それらは「運動」の問題として批判されるにせよ、幸福な家庭という約束事に縛られていたとか、二人の私的な恋愛スキャンダルで自分たちの評判まで悪くなるのを恐れていたといった強調は、むしろ事件を矮小化することにならないか。おそらく栗原氏の著述では、異なった位相にある「約束事」が混同されている。つまり、ある社会において「自然」なものとされている、抑圧的規範としての「約束事」があるとして、そうした抑圧的規範を脱却しようとする個人どうしや運動の総体が、自己の活動をより有効なものにするために取り決める「約束事」もある、ということだ。何らかの社会運動が展開する場合、その中で交わされる「約束」――「運動内の信義」とでも言い換えられるであろう――が守れない、少なくともそう見なされたリーダーに、長期にわたって他の人間がついていくことはないのは自明である(注3)。もちろん、運動の仲間うちでの「約束事」の意味合いと、恋愛をしている人間同士の「約束事」のそれは別個のものであるが、大杉その人もまた自分の「革命」と「自由恋愛」の理論を切り離していない。そうである以上、恋愛の「約束事」を守れなかった大杉に対し、もう片方の「革命」のそれも守れないという疑いがかけられ、よって「同志」として擁護されることもなかったのではないか――栗原氏の本以外にも、大杉(と伊藤)に関する記述をいくつか読みあわせて、わたしはそのように感じたのであった。宮嶋などは伊藤にやつあたりするのではなく、大杉の刺し傷が重症ではなかったことを確認したのなら、彼の方こそボコボコにしておけばよかったという話である。


わたしは伊藤(と大杉)の「わがまま」を、「自助努力が足りない」「自己責任はどうした」といった、新自由主義の言語で誹謗しようとは思っていない。何かと知人や親類の好意に甘えて便宜を図ってもらっているばかりの二人(と言うか、彼らの人生は道半ばで絶やされてしまったから、もらいっぱなしのまま)は、どうにもダラシがないとは感じるものの、人の好意に甘える経験自体は多かれ少なかれ誰にもある。しかしながら、人の好意に甘えようとする場合は、他人に対する当てが外れ、時には足蹴にされたとしても、文句を言うものではないし言えた義理でもないとは考える。「相互扶助」というのは、相手の義侠心や親切心以上のことを過大要求するという意味なのか? 栗原氏は、平塚が伊藤を『青鞜』に受け入れた時には「らいてう、マジ神」としておきながら、その後に前者が後者に距離を置いた態度をとるとなると、途端に「らいてうらしい性格のわるいいいかた」などと書き出すのだが、こうした言い草は単なる手のひら返しであり、ご都合主義的かつ利用主義的感覚の表れと呼んだ方がよい。もちろんこれは伊藤自身の発言ではないのだが、著者の性根をよく反映した感想を「誤読」し、かえって彼女に悪印象を抱く読者も現われるのではあるまいか。


伊藤に興味を持つような現代人の中にも、「個人個人がそれぞれの「わがまま」を極限化することが社会の変革につながる」といった認識を抱いている向きは少ないと思う。しかしそもそも、同じ「はじめに」の最後において栗原氏は、「けっきょく、よりよい社会なんてないのである」とすら書いている。それなら伊藤も大杉も、「無政府共産」を知識人サークルの茶飲み話の域にとどめるのをやめ、「社会運動」をする必要がなかったことになる。わたしは「無政府主義者」について、「よりよい国家なんてない」と考える人々ではあっても、「よりよい社会なんてない」などとは決して言わない人々だと思っていたので、これには実に驚かされた。無政府主義は「社会」というより「制度」全般が嫌いなのかもしれないが、「よりよい社会なんてない」という栗原氏の言葉からは、むしろ資本主義国家における最低水準の福祉「制度」すら破壊するマーガレット・サッチャーもどきの言い草が連想される。万が一、現在の日本の無政府主義者も「よりよい社会なんてない」という主張をしているのだとすれば、ほとんど失笑に値するものであり、あらゆる種類の「社会運動」にとって自分たちは何の存在価値もないと広言していることになるだろう。


(つづく)





(注3):これとは別に、大杉が後藤新平に直談判に行き、そのポケットマネーから300円を獲得したという一件も、彼が「運動内の信義」という問題に無関心に過ぎたのではないかという疑いを抱かせずにはおかない。大杉が『自叙伝』でいきさつを自ら吹聴していることもあり、この逸話は比較的現在でも知られているものであるが、栗原氏はこの後藤の行為を高く評価しているらしい。伊藤が殺害された後、『婦人公論』などに彼女と関わりの深かった女性たちによる追悼が掲載されたのだが、栗原氏はそうしたものの存在にはまったく触れない代わりに、後藤が事件に「キレてしまった」ことを強調し、「わるいね、後藤。最期のさいごまで」などとありがたがっている。しかしたとえば、栗原氏が菅義偉官房長官の家に直談判に赴き300万円相手からせしめたなどと広言するとしたら、彼の周りの人々はそれについてアッパレだと讃える以前に、「裏に何もないはずがない」と警戒するかドン引きするかのどちらかではなかろうか。敵にも金を与える後藤の「大らかな態度」を評価することは結局のところ、15年戦争期に大陸浪人に金をばら撒き中国で暗躍させていた連中を讃美するのと、あまり変わりないように思う。


打倒対象からむしりとったモノで相手に打撃を与えるなんてことが実際にできれば、「レーニンの封印列車」のような意味もあるだろうとは思うが、結局大杉はもらった金を革命活動ではなく、自分の四角関係の清算にしか使えなかった。晩年の神近による『神近市子自伝:わが愛わが闘い』(講談社、1972年)は、大杉が得体の知れない大金(後藤からのものであることは後に知ることになる)を手切れのために出してきたことが、殺意の噴出に到った原因と回想している。栗原氏と違い、井手は自身の伊藤伝において、後藤の金銭を大杉が仰いだ事実についての説明の必要を感じたようで、「大衆的な支持も小さかったこの時代の社会主義者の一つの安易な側面に過ぎず、性急な非難は当たらない」と書いている。しかし、大杉と年齢も近く運動における存在の重みも相応にあった他の人々(山川均や荒畑寒村)には、そのような逸話は残っていない。大逆事件後の堺利彦が、「売文社」を設立して陣営全体の食いつなぎを図る中で、怪しげな右翼人士とも付き合いをもったことも知られているが、それは後藤のような政府高官の金銭を直接受け取るのとはレヴェルが違う。よって「300円」の一件は、「大杉の一つの安易な側面」(その「自由恋愛論」にも匹敵する)と読み替えられるべきである。



新しい伊藤野枝伝?(その1)

伊藤野枝の名前は「無政府主義者大杉栄の妻」として、すなわち関東大震災の際に憲兵隊に謀殺された人物の一人として、現在では高校日本史の教科書の多くに掲載されている。今年の春、岩波書店から「気鋭の若手研究者」による、この伊藤の「伝記」を銘打った新著が出された。栗原康『村に火をつけ、白痴になれ――伊藤野枝伝』(岩波書店、2016年)である。近所の図書館に配架されたことを知った時には、あいにく予約がすでに3件入っていたので、この本を入手して読んだという知人を見つけて交渉の末譲り受けたのだが、その知人からは「あなたも懲りませんね」と何度となく言われた。以前わたしは、中島岳志『岩波茂雄 リベラル・ナショナリストの肖像』(岩波書店、2013年)を取り上げ、同じ人物の古典的評伝として定評のある安倍能成『岩波茂雄』(岩波書店、初版1957年)と主に比較しつつ、前者がいかに伝記として不出来であり非学問的であるかについて論じていたからである(こちらこちらを参照)。これらの文章を知っている知人はわたしに、「あの出版社に極めて失望している(その出版物以外によっても)からと言って、罵倒するためだけに読もうというのはよくないですよ」と親身に忠告してくれたのだが、別にそういう底意が最初からあるわけではない。わたしは伝記という文学/歴史のジャンルが好きであり、「人生いかに生きる/生きないべきか」について最も示唆を与えてくれるものとして、たとえば愚劣なヒマツブシ以上のものではなくなった多くの現代小説よりも、よほど興味深いものたりうると思っている。ゆえに、岩波の評伝を僭称する中島本を読んだ時のように、「可能な限り虚心坦懐に作品を一度読んでみるのが公正というものであろう」と、いま一度考えたまでである。


中島氏の『岩波茂雄』を論じた時と異なり、栗原氏の本を読む前のわたしの伊藤野枝についての知識といえば、最初に挙げた高校教科書レヴェルのそれ以上ではなかった。ゆえに、伊藤の生涯に起こった一連の事件――すなわちその生い立ち、詩人辻潤との結婚生活、女性誌『青鞜』の執筆者・編集者としての活動、「自由恋愛」の四角関係(伊藤・大杉・堺保子・神近市子の間のそれ)が破綻した「日蔭茶屋事件」、そして無政府主義的女性批評家としての自立といったことごと自体については、この本で初めて知ることになったとは言える。しかし続けて告白すると、わたしは200ページに満たないこの本を読了するのに、大変な精神的困難を覚えた。「伝記」としてのこの本の完成度が、極めて低いとしか感じられなかったのである。疑問に思ったことについて、別の書き手による伊藤の伝記的記述、また伊藤と同時代の人物の文章を続けて読むうちに、この本は中島氏の本が有するヒドさとも共通する点を持ちあわせ、質的には劣るとも勝らないことをわたしは確信するに至ったのである。


最初に書いておくべきなのは、文体がもたらす精神的苦痛についてであろう。岩波書店のサイトの検索を使うと、本の目次や小見出しが挙がってくるので諸君にも見てもらいたいが、率直に言って悪ふざけが過ぎるというか、幼児じみているという感想を抱かないだろうか? 残念ながらこれらは目次ゆえの「引き」というわけではなく、中身もこのような書きぶりである。「たすけてください、たすけてください」とか「人のセックスを笑うな」とか「やっちまいな」とか、著者はどこかで聞いたフレーズをちょくちょくはさむのが好きなようである。より目立つのは、「ムカつく」「かっこいい」「○○だ」といった、大量に散りばめられたワンフレーズである。もちろん、文体の評価は多分に個人の感性も関わってくる問題であり、最大限に好意的にとれば、著者はこれらのワンフレーズで講釈師のように、文章のリズムをとっているということになるのだろう。が、これらは言ってみれば紋切型かつ冗語の山である。岩波書店からの紹介にある「編集者からのメッセージ」には、「野枝に恋する大杉栄が憑依したかのような,栗原さんの文章のグルーヴ!」という言葉があるが、この著者のワンフレーズの数々は、パヴロフの犬の条件反射的な感想以上のものとは思われない。「グルーヴ」を感じたいのなら音楽を聴けばよいし、かの電気グルーヴだってここまでアホっぽくはあるまい。かつて友人とカラオケに行った時、酒が入った友人の一人が電気グルーヴの「ネタ曲」を歌うのを聞き、わたしも大いに笑った記憶がある。しかし電気グルーヴと違い、この文章のアホっぽさは読んでいて寒くなるだけである。


文体に続いて疑問を呼ぶのは、本書の末尾に付された69カ所の注釈のあり方である。井手文子による先駆的な伊藤の伝記(後述)などでは、伊藤らの書いた文章を引用する場合は、その出典を小さなカッコ書きで文中に挟み込むだけにとどめており、より詳細な情報を提供できる巻末脚注の形式は採用していない。ゆえに、この手の著作を読みなれていない人からすると、「69カ所も注がある」本著の方が、井手の本と比べてより学問的にしっかりした本であるかのように見えるかもしれない。しかし、学術雑誌においては、30ページほどの短い論文にもそのくらいの量の注は普通についていたりするものである。もちろん、注がついている本に比べ、それがない本が劣っていると言いたいわけではない。栗原氏の本の問題は、注のつけ方に著しい偏りが存在することである。すなわち、伊藤と大杉のテキストについては、最新の『定本伊藤野枝全集』(學藝書林、2000年)および『大杉栄全集』(ぱる出版、2014-2016年)からの出典が逐一指し示されているのに対し、それ以外の部分には、必要なはずの注がほとんどなされていないのである。たとえば、親族や上野女学校時代の学友による、幼き日の伊藤がいかに「わがまま」だったかという回想はどこから引っ張って来たのか。伊藤と大杉が殺害された際、当時の内務大臣であった後藤新平が責任者を叱責したというエピソードは何からの引用か。伊藤と大杉について逐一出典を挙げるのなら、こうした周辺の証言についての情報も、予備知識がない読者にとっては必要なものではないのか。注の付け方の中途半端さがどこから来ているのかは分からないが、わたしの邪推するところでは、まず突貫工事で本文が書かれた後、あわてて伊藤と大杉の部分に(のみ)脚注を加えたことで、「先行する著作より学問的な本ですよ」という見せかけを整えようとしたのではないか。著者は大学などの研究機関で常勤職を得ていないようだが、そうであればこそ、岩波書店というブランドの下に「学問的」な体裁を持った本が出されれば、猟官活動にも大いに役立てることができよう。しかし、非常勤教員の待遇のヒドさには同情するにしても、一読者としてのわたしが問題にしたいのは、この著作が本当に「学問的」な内実を有しているか否かである。


巻末に脚注と並んでいる、参考文献表にも奇妙な点が多い。たとえば瀬戸内寂聴の小説『美は乱調にあり』と『諧調は偽りなり』(初版1966年・1984年/注1)に加えて、それらを原作とした柴門ふみによるマンガ『美は乱調にあり』(角川書店、2014年)まで載っているのはなぜだろうか。小説『美は乱調にあり』は、アジア・太平洋戦争後において初の『伊藤野枝全集』(學藝書林、1970年/注2)が編集される前に書かれている点で先駆的であり、当時存命であった伊藤の遺族らへの取材も含まれている点に資料的価値を見ることも可能と言えるものの、マンガ版はごく近年になされたそのリライトに過ぎない。その一方で、この参考文献表にはアルフレッド・ホワイトヘッドに関する本などが入れてある。ホワイトヘッドの盟友で、無政府主義にしばしば好意を示し、実際に伊藤(と大杉)にも面会しているバートランド・ラッセルならよく分かるのだが、わざわざホワイトヘッドに関する本も入れている。ゆえにこの文献表を見ると、ホワイトヘッドと伊藤とがどうつながっているのか、または彼の理論が伊藤を読む上でどう役立つのかといった説明が読みたくなるのだが、そういった話が本文には存在しない。こうした部分からは、少なくとも学問的な著作ではありえない参考文献の水増しが疑われる。同じ岩波書店から出版されている『「知」の欺瞞』(岩波現代文庫、2014年)に出てくる、アラン・ソーカルの疑似学術論文のような「読者が突っ込んでくれることを待っている」代物として、わざとこう書かれているのではないかと思えてくる。


本文・注・参考文献表を代わる代わる眺めていてもっとも不思議な気分になるのは、従来○○についてはこう言われているがという風に、著者の主張が「従来の説」に対抗して展開されるはずの部分において、その「従来の説」を書いている人々や彼らの著作の具体的な名前が一切言及されないことである。脚注方式を採っている本著においては、本文中にそうした名前を入れこまなくても、注で別個に書誌データを示しておくだけでよいのだが、それすらない。中島氏の『岩波茂雄』が、安倍能成の正統的な伝記に挑むと大見得を切っておきがら、先行する著作のどこが問題なのか具体的には一切指摘していなかったのと似ている。岩波書店が期待していようといまいと、「新進気鋭の研究者」なら、ただハッタリをかましているだけではすまないはずなのだが。


(つづく)





(注1):この二編の伊藤野枝の伝記小説は、今年に入って岩波現代文庫から順次発売されていく予定のようだが、わたしは昨年の冬に近所の図書館にあった『瀬戸内寂聴伝記小説集』第4巻(文芸春秋、1989年)で読んだ。これまでわたしは瀬戸内氏について、対談&説法で巡業しているただの尼さんだと思っていたのだが、今回はじめて小説家――伝記作家としての力量と真摯さを感じさせる――としての往年の彼女の姿を認識したわけだが、正直この小説だけでも、栗原氏の著作の存在意義を疑わせてあまりある。


(注2):こちらの全2巻の『伊藤野枝全集』は、栗原氏の著書の参考文献表に挙がっていない。同じ出版社から30年後に出た全4巻の『定本伊藤野枝全集』が、伊藤のテキストの収録量という点で完全に上回っているという理由から、その存在がスルーされたと思われる。しかしこの版は、比較的公共図書館などに置いてあることも多く(旧全集があるという理由で、新全集を買わないところも多い)、井手による主要テキストの比較的詳しい解題や、無政府主義者の秋山清による二つの記念対談なども、独自の情報として含まれている。伊藤と大杉の殺害から間もなく編まれた、『大杉栄全集』の別冊としての『伊藤野枝全集』(1925年)は省略するとしても、こちらの版についてはむしろ文献表に掲載されてしかるべきであったろう。



引用(30)

きみは、党派を選ばずに客観的であることが可能だ、などと思っているのかい?


ブレヒトからエリック・ベントリーへの手紙、1949年11月
(野村修訳)


続・たとえ話(下)

承前


4)『ワシントン・ポスト』いわく、トランプ氏は「プーチン氏の犠牲者(Mr. Putin’s victims)」と「合衆国の防衛のために死んだ人々(people killed in the defense of the United States)」の間に、何らの違いを見ないとのことである。「プーチン氏の犠牲者」といっても色々いるだろうが、ここでトランプ氏は「アメリカに戦争犯罪を犯させようとしている」とされているので、おそらくロシアが「テロ掃討」作戦と称し、シリア政府の許可のもと――アメリカなどはこれをとっていない――同国で空爆作戦を展開している(いた)ことがオーヴァーラップされていると言えよう。確かに、アメリカであれロシアであれ、軍事作戦の中でも空爆というそれは、巨大な「付随的被害」という名の文民殺戮を招くものであると考えられる。ロシアの空爆を非難する声を単に「ISISやトルコに与するテロリストのプロパガンダ」に惑わされているものとする、ロシア側の公式見解を鵜呑みにすることはない。


しかしそもそもロシアは、アメリカおよびNATO諸国と異なり、2003年のイラクや2011年のリビアへの空爆には加わっていないから、それらの責任は問えないはずである。イラクとリビアの時には「介入しようとしない」ことで罵倒され、シリアの時には「介入した」ことで罵倒されるのだから、ロシアも災難である。シリア難民が可哀想であり、それが何十万人も自分の所に来ちゃって大変だということに欧米ではなっているが、彼らによるリビアやイラクへの「人道的介入」の結果でやはり周辺諸国への難民が大量に出ていることにも触れずして、ロシアのシリアに対する結果について「批判」だけしてよいものか(シリアにだけ悲憤慷慨する人々――日本人含む――にとって、ヨーロッパにイカダで向かうリビア難民などは、大方地中海に沈んでしまうので問題ないということなのかもしれないが)。西欧諸国に住んでいない人間にとっては、「プーチン氏の犠牲者」だけでなく「ブッシュ氏/オバマ氏の犠牲者」も当然問題なのであって、後者を含めて考えなければ空爆自体が批判できなくなるであろう。それとも、リビアやイラクの人民は「合衆国の防衛のために死んだ人々」ということか? とっくにアメリカは「戦争犯罪」を犯してきているのに、トランプ氏が初めて罪に手を染めるのか? ここでトランプ氏という「邪悪な独裁者」を阻止することを呼びかけるレトリックは、これまでの自国の外政の結果へあるべき批判を誤魔化したものにすぎなくなっているのである。


5)情報産業の集中砲火を浴びてトランプ氏がなお失速しないのはなぜかという疑問については、様々な観点から議論がなされている。ただ個人的には、なぜ醜聞だらけのベルルスコーニ氏がイタリアで20年も天下を取っていたか(まだ完全に没落したとは言い切れない)という問題と、合わせて答えることが可能であると思う。わたしはリビア戦争の時のイタリア民主党とベルルスコーニ氏を比較して、人権だの自由だの言いつつ事態の穏当な解決には何ら寄与していない「戦争賛成左翼」が偽善的に見える反面、その対極に彼の「正直さ」がなにか愛らしく見えてくるのではないか、と考えたのだが、おそらくアメリカのトランプ支持者にもそういう現象が生じている。


ベルルスコーニ氏もトランプ氏も「ぶっちゃけ話」が得意である。と言うか、金権を除けば彼らはそれしか持っていない。しかし、総体としては「デマゴギー」的極まりない彼らの「ぶっちゃけ話」に、何らかの「真実」が含まれている、少なくともそう見えてくるとしたらどうか。トランプ氏の「中東のことはサダム(・フセイン)やカダフィにうっちゃっておけばよかったのだ」という種の発言に対して、「邪悪な独裁者」のイメージを弄んでいる人々は「独裁者は独裁者が好き」なことを飽きもせず発見してはしゃぐばかりだが、イラクとリビアの現在の有様について虚心坦懐に見ることのできる人は、トランプ氏の発言にも「真実」の一端を見出すことができるのではあるまいか? 


6)トランプ氏への「邪悪な独裁者」というレッテル張りが問題だとすると、「ファシスト」とするのはどうか。日本の石原慎太郎などが、在日朝鮮人の排斥を唱えると同時に、中国と朝鮮の軍事的打倒を鼓吹しているのに比べれば、トランプ氏は意外にもおとなしい。彼は「不法移民」の排斥を唱えているものの、対外軍事活動は無駄なものとして退けているからである。19世紀の「モンロー主義」を思わせる、アメリカと外部との相互不干渉をトランプ氏はしばしば強調しているが、こうした広言は「移民を拒絶する」という別の主張と必ずしも矛盾していないのではないか。「移民」の中でも最も悲劇的で規模も大きくなるのは、軍事攻撃でライフラインを破壊されることで起こる、「強制移住」としての難民である。そこで「空爆をしなければ大量の難民は発生しない、だから彼らは各々の国で安心して暮らせるでしょう」と考えるとすれば、ある意味では論理的である。逆に、「私たちは人道主義的目的で空爆をしました、そうしたら大量に難民が発生しました、彼らがかわいそうじゃないですか、だから私たちには彼らを引き受ける人道主義的義務がある」などと言われれば、それが理屈に合わないと感じる人々が出てきて当たり前ではないか。


諸君も各自調べていただきたいが、共和党と民主党の有力候補者の中で、近年のアメリカの「人道的介入」を最も攻撃しているのがトランプ氏であるらしいことには本当に驚かされる(注2)。トランプ氏が共和党の代表候補になることが異常事態であると『ワシントン・ポスト』は警告しているが、有力候補の中で彼が最も非好戦的に見えてしまうことこそ、一番の異常なのではあるまいか? ヒラリー・クリントン? 論外である。ジャン・ブリクモンの協力者であるダイアナ・ジョンストンなどは、その国務長官としての「実績」を分析した著作で彼女を「カオスの女王」と呼び、ヒラリー大統領が到来すればトランプ氏よりよほど世界平和にとって危険であると説いている。確かに、かの「来た、見た、奴は死んだ(アッハッハ)!」発言の際のクリントン氏の形相は、征服者カエサルの再来というよりはホラー映画に出てくる猟奇殺人鬼に近かった。


それでは「民主社会主義者」を自称し、日本でも一部で注目されているバーニー・サンダースはどうかというと、彼による近年のアメリカの軍事活動についての評価もまた、非常にあいまいなものに見える。わたしの眼に入った範囲での話ではあるが、彼にとってもイラク、リビア、シリアは「しくじり(mistake)」くらいの他人事であり、まれな激しい表現でも「誤り(wrong)」である。すなわち、「犯罪(crime)」を犯すのは常に外部の「独裁者」でなければならないというルールに、彼もまた抵抗していない。サンダース氏がアメリカの大統領になることは、アメリカ労働者/市民の生活にとって何かしらの恩恵になるとわたしも想像するが、こと世界平和に対する貢献に関しては、ノーベル平和賞受賞者バラク・オバマのそれ程度しか期待しない方が賢明であろう(注3)。


7)トランプ支持者の大多数は、彼の非干渉主義に賛成しているわけではなく、彼の差別性や反動性に惹かれているだけであるから、やはり断固として退けられなければならない――もちろんそうした指摘には一理ある。しかしその場合、トランプ氏の思いつきに見える発想にオリジナリティがあるかどうかの再確認も必要である。たとえば、アメリカとメキシコの国境に「壁」をつくり、「不法移民」をシャットアウトするというトランプ氏の発言については、人種差別的であるとか、非現実的な金額がかかるとか、それ自体はもっともな批判が相次いでいる。しかし、これまた忘れられているのは、メキシコ側からの「不法移民」に対するアメリカの警戒レヴェルは、すでに1990年代から高まっており、現在では毎年少なくとも数百人が射殺されていることである。これはほとんど、かつての東ドイツの側における「ベルリンの壁」の警戒水準と変わらない(注4)。


かつて民衆の「トランプ」が、映画『偽牧師』の最後で、アメリカとメキシコの国境地帯からどちらの国にも入れなくなった結果、国境線をまたぎながら「アメシコ」――徳川夢声の表現――の彼方へ去って行くのは有名な話だが、事実上彼が歩いた道にはすでに「壁」がつくられてしまっている。つまり、資本家の「トランプ」が大統領になり、本当に米墨国境にコンクリート製の「壁」をつくったとしても、それはこれまでの共和党と民主党のより「穏健な」主流派が進めてきた政策のひとつの完成形であっても、逆転ではない――そうした事例は、実はいくらでもあるのではないか。厳然たる事実に対する真剣な省察を読者に喚起し、一緒に考えていくことこそ、ジャーナリズムの役目であるとわたしは考えている。しかし日本に限らず、『ワシントン・ポスト』をはじめとするアメリカの情報産業のエリートたちもまた、そうした省察の喚起を「邪悪な独裁者」といった空虚なイメージ操作にすり替えるようになって久しいようだ。おそらくトランプ氏の現在の躍進は、現在彼を「批判」している人々によっても準備されていたのである。





(注2):念のため書いておくが、仮にトランプ氏が大統領になったとしても、公約として「モンロー主義」を貫き通すことは100パーセントないとわたしは考えている。彼がいかに突出した億兆長者であっても、彼が現在のアメリカの支配階層に属している以上、その利益総体を無視して国政を引きずり回すことは不可能であるということである。トランプ大統領は結局ベルルスコーニ氏のように、「本当はしたくなかった」対外戦争をすることになるであろうし、TPPへの反対も撤回するであろう。しかしそのことは、トランプ氏が特別デマゴギー的であるということを意味しない。それは古くからの社会民主主義的「中道左派」が、またギリシャのSYRIZAのような「新しい急進左派」が、反新自由主義を標榜して支持を得ておきながら、実際に政権につくとそのたびに挫折する――何もしていないうちに金融資本に屈服することを「挫折」と言えばの話であるが――という、ヨーロッパで繰り返されている現象のパロディ以上のものではない。


(注3):この点について、わたしが特に気になっているのは、アメリカのサンダース候補の支持者の一部から、トランプ陣営もかくやという誇大な宣伝活動がなされているように見えることである。たとえばかのマイケル・ムーアは、民主党の候補にクリントン氏ではなくサンダース氏を推奨する中で、リビア・イラク・アフガニスタン・シリアの戦争における両者の態度について、「前者が全部反対なのに対し後者は全部賛成である」という趣旨の「対照表」をツィートで発信していたが、それはさっそくクリントン氏の支持者によるサンダース氏の詳細な「戦争賛成表」によって反撃されていた。クリントン派の列挙のすべてが正しいかどうかはさておき、少なくともイラクやリビアの空爆に対し、サンダースという名前の議員が断固として反戦を表明していたという記憶はわたしにもない。彼が“No, No, No and No”くらい毎回明快な反対姿勢をとっていたならば、今回の大統領選以前からもっと世界的に注目を集めていたはずである。世界最大の権力をめぐる争いに誇大な宣伝が飛び交うのは当然と言えば当然だが、これでトランプ氏の「デマゴギー」をどこまで批判できるのか。ムーア監督の映画には「誇張」はあろうとも重大な「真実」は含まれると考えてきた観客に、これまでの彼の仕事について疑いを持たせかねない発言ではあった。


(注4):しばしば誤解されているが、東ドイツから西ドイツへの出国については完全に禁止されていたわけではなく、手続き(煩雑かつ不明瞭ではあったが)を経れば「合法」であり、それは射殺覚悟の「不法」出国を決行した人の数よりずっと多かった。ともあれアメリカの場合は、「自由」を体現しているとされる側が、それを求めて入国しようとする人々に発砲していることになる。





続・たとえ話(上)

1)現在アメリカでは「トランプ」が大統領になるかもしれないと大騒ぎになっているが、かつてかの国には、大統領より世界の民衆から愛された「トランプ」がいた。彼がその卓越したパフォーマンスの技量で獲得した名声は、同時代に四たび大統領に当選したフランクリン・ルーズヴェルトすら及ばないほどのものであった。しかしこの「トランプ」は、セレブリティの一員に上り詰めながらも国粋主義に与せず、自分の出身階級との連帯精神をも手放そうとしなかったので、支配層は次第に彼を疎んじるようになり、最後には国外へ追いだした――わたしはテレビのニュースでドナルド・トランプ(Trump)の名前が呼ばれるたびに、日本語では発音と綴りが同じになる、チャーリー・チャップリンの演じた「放浪者(Tramp)」を頭に浮かべてしまう。


こうした反射的な連想は、現在のような事態になる以前から、「リベラル」とされるアメリカの情報産業においてトランプ氏がしばしば「道化者」扱いされていたのを読んできたせいかもしれない。この「手帖」においてはイタリアの話をちょくちょくしているが、トランプ氏という人は、ここ20年に渡ってかの国の首相として世界で物笑いの種にされてきた、シルヴィオ・ベルルスコーニの同類のように思える。わたしに言わせれば、イタリア以上にビジネス上の億万長者が尊ばれるアメリカのような国で、そして「左派」的勢力が貧弱な国で、先にトランプ氏のような人物が台頭しなかったことがむしろ意外であったのだが。ともあれ、アメリカ人もイタリアのことをもう笑っていられないようで、かの国の情報産業のあちこちでトランプ氏への批判がなされているわけだが、その中には以前この「手帖」でも取り上げたような、日本における「北朝鮮」に関するたとえ話にも勝るとも劣らない、空虚なレトリックを振り回しているものがあるようだ。日本でも紹介されている、1000万人以上と見積もられた「不法移民」の強制送還についての彼の公約が、「スターリンやポル・ポト以来」のものとした、今年の2月24日の『ワシントン・ポスト』の「社説」はその一典型であろう。


2)確認しなくてはならないのは、ヨシフ・スターリンやポル・ポトの「強制移住」政策が、基本的に元来の自国の公民に対して行われたものであり、国外からの「不法移民」に対しなされたものではないことである。前者は、不可侵条約の時期においても事実上の敵国であり、後に実際の交戦国となった、ナチス・ドイツや日本と結びついた反乱の可能性を消滅させるためになされた軍事上の措置として、また後者はその(無謀な)経済上の措置として、それを行った。こうした歴史的事実については、世界の労働者/市民の立場から――まず「我々」は『ワシントン・ポスト』がそうした立場にあるかどうか疑ってかかるべきである――、その道義性や必要性が全面的に否認されるのはよいことであるにせよ、少なくともその行為は「移民」を一義的な標的にしていたわけではない以上、トランプ氏の「デマゴギー」を批判するのに使うのは不適切である。また、スターリンなりポル・ポトなりの政治手法は「強制移住」の件に限らず、猛烈な鉄拳政治であったとして間違いはなかろうが、彼らの基盤はトランプ氏のような放言と金権にあったわけではない。


日本における『ワシントン・ポスト』の社説の紹介を読んだ時、わたしはかの新聞が、「邪悪な北朝鮮」の上位カテゴリーとしての「邪悪な共産主義者」のイメージをトランプ氏にあてはめたいのだろうと推測した。しかし、いくら「邪悪な共産主義者」の話を出したところで、トランプ氏は明らかに資本主義体制下でのし上がってきた人物である。そうした彼のサクセス・ストーリーに惹かれる彼の素朴な支持者にとっては、おそらく「それはドナルドとはまったく関係ないだろう」で終わりである。『ワシントン・ポスト』はトランプ支持者について、ポストを見てもアカだと騒ぐようなジョゼフ・マッカーシー的妄想を今日なお抱いている連中ばかりと認識し、「トランプは共産主義者であるか、そのまわし者に違いない」とアクロバティックに考えさせるように仕向けたいのかもしれないが、それは排外主義そのものの批判になっていると言えるだろうか。「リベラル」である自身を愛しているであろう、この新聞の固定顧客はこれに満足するかもしれないが。


朝鮮は1948年の建国以来、その国家機構と社会制度が指導者の世襲を伴いつつ現在も継続しているから、アメリカや日本の人間は自己の軍事ドクトリンを棚あげする限りにおいて、彼らの「脅威」が継続し続けていると言うことは一応可能である。しかしヨシフ・スターリンやポル・ポトが展開した政治支配は、すでにこの地上のどこにも存在しない。「邪悪な共産主義者」のイメージは、冷戦期に搾り取るだけ搾り取ったはずなのに、まだアメリカ人はその残り汁を吸って飽き足らないのであろうか。『ワシントン・ポスト』に限らないが、「共産主義」は過去の話であり問題外のものとして封印しているはずの人々が、自分の必要な時にだけ倒した敵を召喚することで読者に説教しようというのは、ほとんどポケットモンスターをモンスターボールから呼び出すがごとき手軽さである。しかし、ポケモンごときに現代の読者が恐怖する、あるいは歴史的教訓を読み取りうると本気で考えている人がいるとしたら、それはとんだ間抜けではないか。


3)――と、日本語の記事を最初に見た際には思ったのだが、改めて『ワシントン・ポスト』の「社説」の全文を読んだところ、彼らは「共産主義者」をそこまで問題にしていないことに気づいた。ちょうど社会主義の歴史に関する論文をネットでいくつか読んでいたところだったので、いささか勘ぐりすぎたようである。彼らにとってより汎用性があり、より安易に振りまわせる便利なレッテルがあるではないか。すなわちわたしは、「邪悪な北朝鮮」の上位に「邪悪な共産主義者」があるだけでなく、それらを包含する「邪悪な独裁者」というカテゴリーがあることをすっかり忘れていた。


日本での紹介では省略されていた部分であるが、実は『ワシントン・ポスト』は、スターリンとポル・ポトを引っ張り出している部分の直前に、「独裁者ウラジミール・プーチン」にも言及している。こうでなくては完璧なたとえ話と言えないということなのだろうが、毎度ながら彼らの恣意的なカテゴリー化にはほとほと呆れさせられる。2011年の下院議員選において、プーチン大統領の与党「統一ロシア」は一定の批判を受けた結果、議席占有率を52パーセントにまで減らしていたはずである。議会の過半数をどうにか制しただけの政党のトップが「独裁者」だったら、二大政党制の国家における時の指導者はすべて「独裁者」と呼べてしまう(注1)。プーチン大統領をたとえば「強権的」とでも言っているなら、よほど妥当であろう。しかしアメリカの情報産業は、「独裁者」という明らかに実態的でない空虚な表象に憑りつかれている。そして、いまだ公権力を握っているわけでもない人物に対し、他国の政治家にことよせたイメージ操作的な「批判」ばかりしている有様には、自国だけが「自由」であるという権威主義に拝跪する、彼らの精神的な奴隷性すら見い出すことも可能であろう。


トランプ氏が「プーチンを尊敬している」としてことさらに攻撃するのも、これまたおなじみ「悪党と仲良しな奴はそいつも悪党」理論である。イタリアの話をここでも引き合いに出すと、かの国の民主党(かつてのイタリア共産党多数派のなれの果て)が、リビアへの「人道的介入」を唱えつつ、ベルルスコーニ首相の追い落としにムアマル・カダフィを悪党として活用した時ほど、彼らの何重もの知的・政治的破綻を露呈させたことはない。2000年代、ベルルスコーニ首相の接近をカダフィ大佐は鷹揚に受け入れていたが、それよりずっと前からの友人として、彼にはネルソン・マンデラ――1990年代以降の西側諸国でほとんど聖人あつかいされた――がいた。マンデラの方では孫の一人に「ガダフィー」と名前をつけたそうである。しかし「戦争賛成左派」(ジャン・ブリクモン)は、「聖人と仲良しな方はその方も聖人」という風には一度も考えず、自分の趣味に都合の悪いことは思い出さなかった。こうした西側の「民主主義者」を観察して、「持つべきものは友ではなく核」と朝鮮政府が結論したのも無理はない。


(つづく)





(注1):日本でもそうだが、現代ロシアについての報道において、存在している複数野党の動向が(それらの「問題発言」を除いて)まったく伝えられないのは驚くべきことである。筆頭野党のロシア連邦共産党、社会主義インターナショナルにもオブザーヴァー参加している「公正ロシア」、議会内最右派のロシア自由民主党を合わせると、その議席占有率は40パーセントを超える。得票率に比べて不当に高い議席占有率を第一党が牛耳る、日本のような制度的な極端な乖離も存在しない。政治学では、絶対的与党と微細な「衛星政党」で構成される、かつての東欧の社会主義国(また現在の中国)に典型的な「ヘゲモニー政党制」という概念があるが、これにも当てはまらない。西側の情報産業はおそらく「野党が機能していない」と言うのであろうが、それなら彼らの国にはどんな野党が「機能して」いるのであろうか?